第82話 セリア、氷結する
セリアは、それから一歩も前に進むことができなくなっていた。
彼女の琥珀色の瞳は、集落の中央にそびえ立つあの異常な熱気を孕んだ大建築物から、完全に引き剥がせなくなっていた。
『万年豊作教会』。
その不条理極まりない文字列が、彼女の脳内の論理回路の中で、壊れた時計の歯車のように何度も、何度も冷酷に反復されていた。
高位の神族として神界の頂点に身を置いてきた彼女は、下界のいかなる人間よりも「教会」という施設の持つ真の恐ろしさと機能を深く理解していた。あの場所は、単なる石と木材で組まれた集会所ではない。信仰という名の莫大な精神エネルギーを効率的に回収し、祈りという名の絶対的な執着を練り上げ、そして一尊の神の名を世代から世代へと永続的に刻み込むための、極めて強固な「精神のインフラ」なのだ。
ボスは先ほど、自分はあの施設が建立された経緯を詳しく認知していないと言った。
セリアはその言葉を100パーセント信頼していた。あの人が「知らない」と報告した以上、そこには一分の虚偽も隠蔽も存在しない。それは純然たる事実だ。
しかし――だからこそ、最高位行政官としての彼女の危機管理能力は、限界を超えて激しく警鐘を鳴らし始めていた。事態は、ボスのあずかり知らぬところで、完全に彼らの管理権限を逸脱して増殖している。
そして、行き交う現地住民たちがのぞかせる、あの盲目的で純粋すぎる眼差しを見る限り――その増殖の規模は、すでに小康状態を維持できるレベルを遥かに超越していた。
「……ボス」
「何ですか、セリア」
「あの施設は、客観的に見ていつ頃からあの空間にゾーニング(存在)しているのですか?」
マコトは書類の作成日付を思い出すように、ほんの数秒だけ視線を落として思考を巡らせた。
「正確な記録は記憶していません。ですが……感覚としては、随分と前からあそこにあるような気がします」
「随分と前から、ですか?」
「はい。私は自分の職務で忙しく、あの区画へ足を運ぶ機会は極めて限定的でしたから」
セリアは、こめかみの拍動を堪えながら、小さく頷いた。
その回答自体は、徹頭徹尾、彼らしいロジックだった。そもそもマコトにとって、個人的な信仰を捧げるための教会などという非生産的な空間に近づく理由など、1つとして存在しない。あの人は神界管理行政区の最高責任者であった頃から、仰々しい典礼や神聖な儀式の類いを「時間と人員の浪費」として極端に嫌悪していた。彼にとっては、大仰な礼拝を受けることよりも、1枚でも多くの予算申請書を正確に処理することの方が、遥かに重要であり、プライオリティが高かったからだ。
2人は再び、マイペースに泥道を歩き始めた。
しかし、あの『万年豊作教会』へと近づくにつれ、街道の人口密度は目に見えて過密状態へと移行していった。
ある家族は、素朴な麻の布で厳重に梱包された分厚い書籍を、まるで家宝のように大切そうに抱えて出てくる。まだ物心もついていないような小さな子供たちが、自分の胴体ほどもある巨大な革装丁の本を必死に両腕で抱え、無邪気な笑みを浮かべながら何かを暗唱し合っていた。
「『ジャガイモは至高の成果物である……なぜなら、ジャガイモはそれを実務に用いる者の身分を選ばないからである』」
「あ、違うよ! そこ、公式が間違ってる!」
「リナ司祭様が言ってたもん! 第4章のインフラ運用のセクションは、もっとゆっくり正確にリーディングしなきゃダメだって!」
すれ違いざまに耳に飛び込んできたその異常な児童教育の会話に、セリアは無意識のうちに首を巡らせた。
子供たちは、マコトの姿を視界に捉えた瞬間、まるで軍隊の精鋭のような素早さでその場に直立不動になり、深く腰を折った。
「ボス、お疲れ様です!」
マコトはいつも通り、感情の起伏を一切排した動作で、小さな右手を軽く挙げた。
「お疲れ様です。皆さんは、今しがた学習カリキュラム(履修)を終えたところですか?」
「はい! 今日から、いよいよ難関の『第4章』のプロセスに突入しました!」
マコトは、まるで優秀な新人の進捗報告を受けるかのように、満足そうに短く頷いた。
「良好な進捗ですね。もし処理の過程で不明なエラーが発生した場合は、自己判断せず、すぐに担当の講師へフィードバックを仰いでください」
「はいっ!」
子供たちは、まるで最高位の勲章を授かった聖騎士のような晴れ晴れとした表情で、再び元気よく走り去っていった。
セリアはその小さな背中が路地の角へと消えていくのを、幽霊でも見るかのような目で見送った。
「……第4章?」
彼女の唇から、掠れた呟きが漏れる。
ボスが現地の子子供たちに対して「実務のために真摯に学習しなさい」と教育的な指導を行うこと自体は、極めて合理的で、彼らしい実直なアドバイスだと言える。
しかし――なぜその光景が、客観的に見て、信徒たちが教典の教義を必死に暗記している「宗教的な礼拝」にしか見えないのだろうか。
その時、2人の歩みが再び完全に停止した。
今度は、セリアの意思によるものではなかった。教会の最上部に設置された、真新しい青銅の鐘が、夕暮れの空へと向かって重々しく鳴り響いたからだ。
カーン……。
カーン……。
カーン……。
その優しくも澄み切った音色は、微弱な魔力の波動を伴って、ルナの村の全域へと滞りなく伝播していった。
街道を行き交っていた村人たちは、その音を聞いた瞬間、一斉に他愛のない世間話をクローズした。彼らはごく自然な動作で教会の方向へと顔を向け、そして誰に命令されるでもなく、磁石に吸い寄せられる鉄屑のように、一歩ずつあの大建築物へと向かって歩き始めたのだ。
ある者はその日に収穫したばかりの瑞々しい大麦の籠を抱え、ある者は道端に咲いていた素朴な野の花を手に持ち、またある者は、あの不吉な『ジャガイモの書』を胸へと強く抱きしめている。
そこに、強制されている者の悲壮感などは1ミリも存在しなかった。彼らは全員、どこまでも穏やかで、満ち足りた幸福な表情を浮かべて、その聖域へと吸い込まれていく。
そのあまりにも完璧に洗練された「集団統率」の光景を前に、セリアの足は泥道に凍りついたように動かなくなっていた。
「……ボス」
「何ですか、セリア」
「あの住民たちは……一体、これからどのような実務を執行するつもりなのですか?」
マコトもまた、群衆の流れを客観的に観察し、淡々と分析を述べた。
「定例の合同ミーティング、あるいは情報共有のための集会でしょう」
「毎日、この夕暮れの定刻にですか?」
「おそらく、そのようにスケジュールが固定されているのだと思います」
「ボスは、あの集会への参加を要請されたことはないのですか?」
「ありません」
「なぜですか?」
マコトは、反論の余地のない完璧な正論を、いつもの抑揚のない声で即答した。
「私は、日々の帳簿整理と農地のインフラ最適化の職務で忙しいからです。そのような実務を伴わない非生産的なミーティングに参加する時間的猶予は、私のタスク表には存在しません」
それはあまりにも彼らしい、完璧な職務への忠誠の表明だった。もし状況がこれほどまでに破滅的でなければ、セリアも「さすがはボスです」と深く感銘を受けていたかもしれない。
だが、今の彼女にそんな余裕は微塵もなかった。
眼前の不条理な現実が、彼女の脳内で1つの恐るべき「答え」へと収束しつつあったからだ。
数十人、いや、下手をすれば村の全人口が、1棟の巨大な教会へと吸い込まれていく。
その内部には、完璧なシステムで構築された1冊の教典が存在する。
それを管理し、住民たちを決裁する司祭という名の管理職が存在する。
毎日定刻に実施される、厳格な礼拝という名の進捗報告会が存在する。
そして――その組織の人間たちは全員、彼らの絶対的な頂点(神)を、全く同じ名で呼んでいるのだ。
『ボス』、と。
セリアはゆっくりと両目を閉じ、自分の こめかみが、激しい偏頭痛の前兆でズキズキと脈動し始めるのを自覚した。
彼女は必死に、神界の最高位行政官としての卓越した論理的思考システムを稼働させ、この事態を「エラーではない」と証明するための合理的な言い訳を検索しようとした。
あれはただの集落の共同コミュニティセンターだ。
あれはただの効率的な農業専門学校だ。
これはすべて、下界の無知な人間たちが起こした、いくつかの偶然が重なっただけの特異なバグに過ぎない。
しかし――彼女がどれほど脳内で防壁(言い訳)を構築しようとも、目の前にそびえ立つあの看板の文字が、その脆弱な論理を無慈悲に粉砕していった。
『万年豊作教会』
文字は変わらない。バグの修正が行われる気配もない。
セリアの卓越したリスク管理能力が、彼女の網膜の裏で最大級の赤いアラートを点滅させていた。
確信した。この村の人間たちは、マコトのあずかり知らぬところで、あの『ジャガイモの書』を教典とし、マコトという存在を至高の絶対神として崇める、純度100パーセントの「新興宗教セクト」を完璧に機能させてしまっているのだ。
今すぐにあの施設の内部へと突入し、事態の全貌を精査するべきだという実務的な義務感。
しかし同時に、もし自分の推測が完全に的中していた場合、これから自分が処理しなければならないトラブルの総量が、単に「行方不明のボスを神界へ連れ戻す」という初期の職務仕様書を遥かに超越して、国家規模、いや神界の存亡に関わるレベルの大火災に肥大化しているという事実を認めたくない、私的な拒絶感。
夕暮れの黄金色の陽光に照らされながら、セリアは『万年豊作教会』の正面で、文字通り完全に凍りついていた。
数千年のキャリアの中で、あらゆる次元のエラーを淡々とクローズしてきた神界の最高位管理官が、下界へと降臨してわずか数十分。
彼女は、自分が一体「どの書類」から手を付けるべきなのか、その最初の一歩すら完全に完全に見失ってしまっていた。




