第81話 見出された教団
芋畑での実務を無事にクローズし、マコトとセリアの2人は、夕暮れののどかな影が伸びるルナの村へと歩みを進めていた。
夏の盛りの熱気を含んでいた大気は、日が傾くにつれて心地よい涼やかさへとその成分を変えつつある。
泥道の脇からは、同じように今日の野良仕事を終えた数人の農夫たちが、家路につく途中でマコトの姿を認めると、一様に親しげに手を挙げた。
「ボス、お疲れさん!」
マコトは歩調を緩めることなく、ただ淡々と会釈を返す。
「お疲れ様です」
「おかげさまで、今日の給水路は完璧に水が回ったよ」
「よかったです」
「明日からは、ボスに教えてもらった通りのやり方で畝を試してみるつもりだ」
「ええ、そうしてください。良好なデータを期待しています」
交わされる対話は、どれも極めて簡潔で、業務的なものばかりだった。しかし、言葉を交わした農夫たちの顔には、一様に深い満足感と、確固たる信頼の色が浮かんでいる。
その様子を斜め後ろから見守っていたセリアにとって、マコトが誰とでも物怖じせずに会話を成立させるという事実自体は、何ら奇異なものではなかった。あの人は神界管理行政区のトップに君臨していた頃から、絢爛豪華な己の執務室に引きこもることを極端に嫌っていた。それよりも、最前線で汗を流す一般の平職員たちのデスクへと直々に足を運び、現場の生の声や処理上のボトルネックを直接ヒアリングすることを好む、そういう性質の管理者だったからだ。
だが――セリアが歩みを進めるにつれて、明確な違和感として胸に引っかかり始めたのは、現地住民たちがマコトに向ける視線の深さだった。
その敬意の念は、単なる農業の知恵を授けてくれた親切な青年に対するものとしては、明らかに過剰だった。まるで、一介の会計士や農夫と対話しているのではなく、自分たちよりも遥かに高位に存在する絶対的な先導者の御前にあるかのような、畏怖と熱狂の混じった眼差し。
(私の考えすぎかしら。下界の人間は、少し生活インフラが向上しただけで、これほどまでに過剰な恩義を感じるものなのかしら……)
彼女が自らの事務的な感覚を修正しようとした、その時だった。2人が村の中央に位置する開けた広場へと差し掛かった瞬間、セリアの足がピタリと止まった。
視界の先に、この小規模な辺境の村にはおよそ不釣り合いな、1棟の巨大な建造物がそびえ立っていた。周囲の素朴な木造民家とは一線を画す、圧倒的な総床面積。壁面の材木は真新しく、いくつかの梁にいたっては、切り出されてからまだ完全に乾燥しきっていない木材特有の、瑞々しい琥珀色が夕暮れの陽光にギラギラと照り映えている。
驚くべきは、その建物の巨大な扉を、何十人もの村人たちが絶え間なく行き交っているという事実だった。ある者は小脇に分厚い本を抱え、またある者はその日に収穫したばかりの瑞々しい野菜の詰まった籠を大切そうに背負っている。
セリアはその異様な活気を帯びた光景を凝視した。
「……ボス。本日は、この集落で何か大規模な地域フェスティバルでも予定されているのですか?」
マコトは彼女の視線を追い、何の感情も宿らない瞳でその建物を一瞥した。
「いいえ。そのような年中行事のスケジュールは把握していません」
「では、なぜこれほどの人間が1箇所に密集しているのですか?」
「おそらく、定例のコミュニティ活動、あるいはただの集会でしょう」
マコトの回答は、いつも通り合理的で、何の中毒性も持たないものだった。セリアは納得のいかない面持ちのまま、改めてその巨大な建築物の正面へと視線を戻した。そして、その中央扉の上部に掲げられた、1枚の巨大な木製看板の文字を視界に捉えた瞬間、神界の最高位管理官たる彼女の理性が、一瞬にして凍りついた。
そこには、下界の粗末な彫刻刀で刻まれたとは思えないほど、完璧に整列した、美しい職人技の幾何学フォントでこう刻まれていた。
『万年豊作教会』
セリアは呼吸を止め、その文字列を右から左へ、そして左から右へと、何度も激しく往復するように読み直した。自分の視覚情報処理システムに、致命的なエラーが発生したのではないか。そう疑わざるを得なかった。教会、豊作、万年。どれほど目を擦って網膜の解像度を上げても、その3つの単語が示す不条理な組み合わせは、1ミリの変化も起こさなかった。
「どうしました、セリア。処理能力が低下していますよ」
足を止めた部下に対し、マコトが不思議そうに声をかけた。セリアはすぐには言葉を返すことができなかった。彼女の琥珀色の瞳は、未だにその『万年豊作教会』という不穏な看板に完全に釘付けにされていた。
「……ボス。お尋ねしますが、貴方は、あの建造物の存在と用途を事前に認知されているのですか?」
マコトは当然の報告書を受理するように、軽く頷いた。
「ええ、もちろん。村の住民たちが頻繁に利用している公的スペースです」
「用途は、一体何なのですか?」
「主に、テキストのリーディングです」
「読書、ですか?」
「はい。彼らは定期的に集まり、特定の知識についてディスカッションを行うことを好みます。実務の学習効率を向上させるという意味では、非常に推奨されるべき健全な傾向です」
マコトは、何の一物もない、どこまでも澄み切った声でそう言い切った。彼にとってあの巨大な空間は、ただの村の無料公立図書館であり、それ以上の怪しい属性など、何一つ付与されていないかのような態度だった。
その時、教会の正面扉が大きく開き、数人の村人たちが外へと出てきた。彼らの腕の中には、セリアにとってあまりにも見覚えのありすぎる、不吉な1冊の書籍が大切そうに抱えられていた。素朴な茶色の革で装丁された表紙。その中央には、下界の拙い技術で精密にデッサンされた、1玉の神々しいジャガイモのグラフィックが刻印されている。彼らはその本を、まるで国家の最高機密文書、あるいは至高の神聖遺物を扱うかのような手つきで、慎重に胸へと抱きしめていた。
「よし、明日は各自で続きのテキストを持参しよう」
「ああ、第3章の記述は絶対に忘れるなよ。オレはまだ、あの部分の公式を完全に暗記できてねえんだ」
「もし計算の不整合が見つかったら、すぐにリナ司祭のところへ行って決裁を仰ぐんだぞ」
すれ違いざまに聞こえてきた住民たちの会話は、セリアの脳内のデータベースを激しく揺さぶった。
その時、住民の1人がマコトの姿を視界に捉えた。直後、その農夫の顔が、まるで本物の神の御光を浴びたかのように、パッと劇的に輝いた。
「あ、ボス!」
マコトがそちらへ首を巡らせる。
「何ですか」
「報告します! オレたち、今日で無事に『第2章』の履修プロセスを全課程クローズしました!」
「そうですか。進捗状況は良好ですね」
「はい! 明日からは、いよいよ難関の『第3章』の攻略に入ります!」
「ええ、焦る必要はありません。確実なステップアップを心がけてください。スムーズな進行を期待しています」
マコトが書類の進捗を確認するように淡々と告げたその一言に、周囲の村人たちは感激のあまり震え上がり、満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、ボス! オレたち、全力で職務に励みます!」
彼らは最敬礼の角度で深く腰を折り、まるで神の祝福を授かった聖騎士のような晴れやかな表情で、再び歩み去っていった。
セリアは、その背中を言葉を失ったまま見送った。章、司祭、教会。下界の素朴な村であるはずの空間に、神界の宗教セクターでしか使われないような不穏な専門用語が、次から次へと積み重なっていく。
そんな部下の深刻な混乱を他所に、マコトは何事もなかったかのように、再びマイペースに泥道を歩き始めた。
「ボス」
「何ですか、セリア」
セリアはもう一度、自らの背後にそびえ立つあの異常な熱気を孕んだ建造物を振り返り、掠れた声で問い詰めた。
「……あの施設は、客観的に見て、いわゆる『教会』と呼ばれる性質のものではないのですか?」
「はい。住民たちはそのようにゾーニングしているようです」
「住民たちが、ですか?」
「ええ」
「なぜ、そのような宗教的なカテゴリーを適用したのですか?」
「私には理解しかねます」
マコトは首を横に振り、極めて冷静に分析を述べた。
「おそらく、既存の宗教的枠組みを利用した方が、集団の統率を確保し、効率的に人員を招集しやすかったからではないでしょうか。手段としての合理性は認められます」
(……駄目だわ。この人、本当に何も気づいていらっしゃらない)
セリアは、目の前を歩く少し猫背気味の、不変の背中を見つめながら、こめかみのあたりに激しい偏頭痛の前兆を感じていた。マコトの言う「手段としての合理性」の裏側で、この村の人間たちがどれほど歪んだ、工程への純粋すぎる信仰のエネルギーをあの『ジャガイモの書』と『ボス』に向けて注ぎ込んでいるか。あの施設から出てくる人々の瞳に宿る熱狂は、単なる読書サークルのそれではない。彼らにとって、あの場所は紛れもなく、人生のすべてを捧げるに値する聖域なのだ。
セリアの最高位行政官としての卓越したリスク管理能力が、彼女の脳内で最大級のアラートを鳴り響かせていた。この下界で、一体何が起きているのか。その全貌はまだ見えない。しかし、あの『万年豊作教会』という不条理の結晶が、これから神界行政区をも巻き込む、取り返しのつかない大トラブルの火種になるであろうことだけは、書類をめくるよりも簡単に予見できた。セリアは迫り来る不穏な未来を察知し、手に持った事務杖をぎゅっと握り締めるのだった。




