第80話 まったく感動的ではない再会
ハンスは、芋畑の境界線に立ち尽くしている銀髪の女性を、値踏みするような視線で見つめ続けていた。
この村では、一度も見かけたことのない顔だ。身に纏っている衣服の質も、その背筋の伸ばし方も、この辺境の地を生きる人間とは明らかに異質な、洗練された何かを漂わせている。
だが、ハンスの興味を最も強く惹きつけたのは、その女性の容姿ではなく、隣に立つマコト――「ボス」の表情だった。
ボスは、その女性を知っていた。それも、昨日今日知り合ったような浅い関係ではなく、気の遠くなるような長い時間を共にしてきた者だけが持つ、独特の距離感で彼女を認識していた。
「……職場の、同僚ってやつかい?」
ハンスが尋ねると、マコトは波一つ立たない瞳を向け、短く頷いた。
「はい」
「長い付き合いなのか?」
「それなりに」
「だから、ボスはあんなにすぐ気づいたわけだ」
「ええ、その通りです」
マコトの返答はいつも通り淡々としており、そこには何の情緒も含まれていなかった。だが、ハンスにとって、そのいつも通りであること自体が、最大の異常事態に見えてならなかった。
マコトがこのルナの村に居着いてからというもの、彼を訪ねてくる部外者は少なからず存在した。しかし、それらの大半は、失われた古代の知識を求める学者であったり、高名な大賢者の教えを乞おうとする魔術師であったり、あるいは単に「ボスの奇跡」をこの目で拝もうとする市井の人間ばかりだった。
だが――マコトを、ただの1人の「旧知の人間」として探し求めてやってきた者は、彼女が初めてだったのだ。
ハンスは緊張をほぐすように、その無骨な顔に精いっぱいの愛想笑いを浮かべた。
「だったら……ルナの村へようこそ、お嬢さん。歓迎するぜ」
セリアは、神界の最高位行政官としての礼儀正しさを寸分も崩さず、その場で静かに一礼した。
「ありがとうございます。お気遣いに感謝いたします」
その丁寧な、しかしどこか事務的な挨拶を口にしたことで、セリアの張り詰めていた内面はわずかに落ち着きを取り戻していた。
(よかった……。少なくとも現時点では、私の正体が神界の住人であることは露見していないようね。これなら、本格的な混乱が起きる前に、まずはボスと2人だけで機密事項の協議を行う時間が確保できるわ)
しかし彼女はまだ知らなかった。彼女がこの畑に到達するよりも前に、村の入り口で彼女と遭遇した自警団の若い男2人が、すでに「神界からの恐るべき上位神官が、ボスを連れ戻しにやってきた」という大誤解を抱えたまま、泡を吹いて村長宅へと駆け込んでいる最中であるという事実を。
マコトは、まだ半分しか修復が終わっていない土の水路へと視線を戻した。
「ハンス」
「ん? なんだいボス」
「私は、先にこちらの処理を完了させてしまいます」
ハンスは一瞬だけセリアの顔を見たが、すぐに合点がいったように深く頷いた。
「ああ、そりゃそうだ。仕事の方が大事だもんな」
マコトは再び水路の脇へと屈み込んだ。ただし、先ほどまで図面を描くために使っていた枯れ枝は地面に置き、代わりに農具の鍬を右手に握り直した。
水路の側面に溜まった余分な泥を均等に削り取り、水の進行の障壁となる微小な小石を手作業で一つずつ取り除いていく。その手つきは、神界で分厚い予算申請書を1ミリのズレもなく仕分けしていた時と、全く同じ正確さだった。
セリアは、その作業の様子をただ黙って見つめていた。
次元を越える過酷な渡航の最中、彼女はボスとの再会の瞬間を、文字通り何万通りも妄想していた。
予期せぬ部下の降臨に、あの冷徹なボスが驚愕の表情を浮かべるかもしれない。
あるいは、なぜ神界の捜縮がこれほどまでに遅れたのか、その合理的な理由を問い詰めてくるかもしれない。
しかし、現実に起きたのはそのどれでもなかった。
ボスはただ、作業に戻ったのだ。まるで、何事もなかったかのように。
セリアの口元に、自然と小さな、しかし温かい苦笑が浮かび上がった。
(……ええ、本当に。これこそが、私たちの『ボス』だわ)
どんな重大な事態が起きようとも、目の前にある未完了のタスクを放置したまま、個人的な私情を優先することなど絶対にしない。たとえ、そのタスクの途中で数百年ぶりに部下が時空を越えてやってきたとしても、彼の優先順位の第1位は「給水路のインフラ整備」のままなのだ。
周囲の農夫たちも、ボスのその態度を見て当然のように作業を再開した。彼らにとって、ボスが仕事を途中で放り出さないのは今や日常の風景だった。作業が完了していない以上、余計な世間話はすべて後回し。それがこの畑の絶対的なルールだった。
間もなくして、新しく掘り下げられた水路の全域に、冷たい川の水がサラサラと音を立てて流れ込み始めた。マコトはその水流の挙動を、しばらくの間無言で見つめ続けた。
「――終わりました」
ハンスもその様子を覗き込んだ。これまで畑の中央付近で完全に滞留し、泥水と化していた川の水が、今や畑の最果ての区画にまで、滞りなく均一な速度で供給されている。
「大成功じゃねえか、ボス!」
マコトは静かに首を振った。
「それは明日にならなければ分かりません」
ハンスは呆れたように笑った。
「ハハッ、本当にあんたは妥協がねえな」
マコトは不思議そうに、ほんの少しだけ首を傾げた。
「何かおかしなことを言いましたか?」
「いやね、普通はこれだけ水が綺麗に流れりゃ『成功した』って喜ぶもんだぜ? なのにボスは、結果が出るまで絶対に成功したとは口にしねえ」
「これは『成功』したわけではありません」
マコトは感情の起伏を取り払った冷徹な声で言った。
「単に、予定されていた作業が完了しただけに過ぎません。インフラの真の価値は、その稼働実績によってのみ評価されるべきです」
ハンスはもはや、返す言葉を持たなかった。彼の言うことは、徹頭徹尾、完璧に筋が通っている。しかし、なぜだかボスがそれを口にすると、芋畑のただの事務報告が、人生の深遠な真理を説く説法のように聞こえ、深く考えさせられてしまうのだった。
セリアは、その横顔をじっと見つめ続けた。
神界管理行政区の最上階にいた頃も、あの人は常にそうだった。どれほど巨大なプロジェクトの予算が承認されようとも、書類に判を押し終えただけで満足することなど一度もなかった。必ずその数ヶ月後、現地の次元変動の数値を自ら確認するまで、決して「成功」という言葉を使わなかった。
何も変わっていない。
身を置く世界も、身に纏う衣服も、手に持つ道具さえも変わってしまったというのに、あの人の脳内を支配する管理哲学のシステムは、1ビットの変質も起こしていないのだ。
マコトは鍬を畑の脇に立てかけ、手の平に付着した泥を軽く叩いて落とした。そして、ようやくセリアの方へと向き直った。
「随分と長い間、そこに立っていますね」
「……はい」
「疲労は蓄積していますか?」
「――いいえ、全く」
セリアは、本当は喉から出かかっていた「ひどく疲れています」という言葉を寸前で飲み込み、毅然とした態度で首を振った。管理官たる者、ボスの前で無様な脆弱さを露呈するわけにはいかない。
マコトは彼女の回答をそのまま受理するように、小さく頷いた。
「ならば」
「何でしょうか、ボス」
セリアは、いよいよ神界の帰還に関する機密対話が始まるのだと、背筋を限界まで緊張させた。
しかし、マコトの口から飛び出したのは、彼女の想定を宇宙の彼方まで置き去りにする、極めて平坦な一言だった。
「同行してください。昼食の時間です」
セリアは、大きく2、3回、瞬きを繰り返した。
「……へ?」
「現時刻を以て、1時間の休憩とします。食堂へ向かいましょう」
その声音はどこまでも平坦で、あまりにも日常的だった。
それは、数千年の間、第一執務室での激務を終えた後に、当然の義務として「セリア、食堂へ行きますよ」と声をかけていた、あの神界での退屈な日々の再現そのものだった。
セリアは、ただ呆然とボスの背中を見つめることしかできなかった。
この下界へ至るまでの間、彼女が妄想していた、涙に濡れた劇的な再会の抱擁。
これまでの捜索の遅れに対する、必死の謝罪。
時空崩壊のメカニズムに関する、長大な理論的解説。
あるいは、部下を置き去りにしたボスに対する、微かな憤りの吐露。
そのすべてが――「同行してください。昼食の時間です」という、あまりにも冷徹で、あまりにも生活感に満ちた1文によって、跡形もなく粉砕されてしまったのだ。
感動的な要素など、どこをどう探しても、1ミリも存在しなかった。
――そして、だからこそ。
セリアの琥珀色の瞳の奥から、今度こそ本当に、堪えきれない熱い涙がポロポロと零れ落ちそうになるのを、彼女は必死の思いで上を向いて堪えるのだった。




