第79話 「ボス」
そこへ突如として現れたセリアの存在に、気づく者は誰もいなかった。
芋畑に集まった農夫たちの関心は、未だに水路の脇に片膝を突いている若い男――マコトへと一心のままに向けられていた。
「土壌の密度が過剰に高ければ……」
マコトは足元の黒土をひと掴みすくい上げると、それを掌の中でゆっくりと握り潰した。
「水はただ表面を素通りし、地下へと浸透することなく流れ去ってしまう」
彼の指の隙間から、細かく砕けた乾いた土の粒子がサラサラと零れ落ちていく。
「逆に、あまりに脆く泥のようであれば……」
彼は少し離れた畝の脇から別の土をすくい、同様に農夫たちに見せた。
「保水力を失い、水分をその場に留めておくことができなくなる」
数人の農夫たちが、神妙な面持ちで小さく頷いた。
正直に言えば、彼らはその言葉の裏にある精密な農学理論や地質学の根拠を、1割も理解してはいなかった。しかし、この数ヶ月間の共同生活を通じて、彼らはひとつの黄金律を学んでいた。
この「ボス」と呼ばれる風変わりな青年が農地について何かを口にしたならば、理解できずとも、まずは黙ってその通りに従うのが最善である、と。
なぜなら、彼の提示する答えの正しさは、いつも数日、あるいは数週間が経過した後に、目に見える収穫の差となって文字通り証明されるからだ。
自警団の古株であるハンスが、無精髭の生えた顎をさすりながら言った。
「ってことは、だ。一番大事なのは、水の量じゃねえってことか?」
マコトは枯れ枝を持ったまま、小さく首を振った。
「違います」
「じゃあ、肥料のやり方かい?」
「それも違います」
「じゃあ、一体何なんだ?」
マコトは立ち上がり、夏の陽光を浴びて青々と広がるジャガイモの葉の海を、ただ淡々と見つめた。
「土です。基盤となる土壌そのものが健全であれば、その上に構築されるあらゆる運用は容易になります」
ハンスは深く感心したように息を漏らした。
その言葉自体は、どこまでも素朴で単純な響きを持っていた。しかし、なぜだか彼の胸には、それが単なる農業の技術論を超えた、もっと根源的な「世界の組織論」のように聞こえ、深く思考を巡らせてしまうのだった。
彼らの背後で、セリアは微動だにせず佇んでいた。
神界からこの下界へと至る果てしない次元の旅路の中で、彼女は最悪の事態を含め、数え切れないほどの可能性を脳内でシミュレートしていた。
ボスが重大な負傷を負っているのではないか。
見知らぬ異世界で記憶を失い、途方に暮れているのではないか。
あるいは、神界からの救助を今か今かと待ち侘び、悲痛な叫びを上げているのではないか。
しかし、今その眼前に広がっている光景は、彼女のあらゆる予測の斜め上を行くものだった。
ボスは、教えていた。いつもと全く変わらない、あの静固な姿勢のままで。
教育を施している相手は、最高位の神族でもなければ、高潔な天使たちでもない。この辺境の領地から一歩も出たことがないであろう、泥にまみれた素朴な人間の農夫たちだ。
そして何より、ボスは――その理不尽なまでのインフラ最適化の作業を、驚くほど平然と、当たり前のようにこなしていた。
一人の若い農夫が、少し緊張した様子で恐る恐る手を挙げた。
「あの、ボス」
「何ですか」
「もし、その……オレたちの不手際で、土がすっかり死んじまってたら、もう手遅れなのか? 作り直すことはできねえのかい?」
マコトはほんの数秒だけ視線を落とし、思考を巡らせた。
「可能です。正当な手順に従い、誠実に手入れを怠らなければ、必ず再生します」
「どれくらいの時間がかかるんだ?」
「一概には言えません。早ければ1シーズン。深刻な損耗であれば数年を要する場合もあります。ですが、適切な管理を継続しさえすれば、土壌はいずれ本来の機能を回復します」
若い農夫は、まるで免罪符を得たかのように安堵の笑みを浮かべた。
「そっか……よかったぁ」
マコトは事務的な書類に捺印するかのように、短く頷いた。
「土は人間よりも遥かに忍耐強い性質を持っています。管理者である人間が、先に諦めてはいけません」
セリアは、その言葉を聞いた瞬間、無意識のうちに視線を伏せた。
(……本当に、どこへ行かれてもボスはボスのままなのね)
これほどまでに、彼らしい言葉があるだろうか。
あの人は常に、どれほど複雑で難解な事象であっても、誰にでも理解できる最も平易な言葉に噛み砕いて説明する。決して権威を笠に着た高圧的な語彙は使わない。
しかし、その本質があまりにもシンプルで、過不足のない正論であるからこそ――受け取る側の人間が、そこに勝手に「深遠な神託」や「偉大なる思想」を読み解き、必要以上に巨大な意味を見出してしまうのだ。現に、目の前の農夫たちは、まるで至高の聖人の教えを授かったかのような崇高な表情を浮かべている。
やがて、農夫たちはそれぞれの手元の作業へと戻っていった。
ある者は鍬を担ぎ、またある者はマコトが地面に描いた完璧な流物曲線の設計図に従って、大慌てで水路の土を掘り返し始める。
ハンスは親しげにマコトの肩を軽く叩いた。
「ボス、これで見違えるような大収穫間違いなしだな」
マコトは新しく引き直され始めた給水路の始点を見つめ、冷静に応じた。
「まだ分かりません。実際の流速と浸透率のデータが出るのは、明日の日の出以降です」
ハンスは豪快に笑った。
「ハハッ、相変わらず手厳しいねぇ。少しは楽観的になってもバチは当たらねえぜ?」
「確定していない結果に対して楽観的な予測を立てることは、管理職としての職務怠慢です」
マコトは淡々と答えた。成果が具体的な数値として現れていない以上、その業務は未だ「進行中」に過ぎない。それが彼の不変のロジックだった。ハンスもその返答には慣れっこで、「へいへい」と肩をすくめて作業へと戻っていく。
そんな喧騒から一歩離れた場所で、セリアはついに、自らの白い靴を踏み出した。
一歩、そしてもう一歩。
夏の乾いた草地が、彼女の足元でかすかな衣擦れのような音を立てる。
その規則正しい事務的な足音に、マコトの耳が素早く反応した。彼がゆっくりと首を巡らせた瞬間、2人の視線が、夏の陽光の中でまっすぐに交錯した。
沈黙が、その場の空間を支配した。
マコトは、泥のついた枯れ枝を右手に持ったまま、ほんの少しだけ首を傾げた。
「――セリア」
何の発声の遅延もなく、確認のプロセスすら挟むことなく、彼はその名を呼んだ。
まるで、昨日も神界の執務室で同じように顔を合わせ、事務報告を受けていたかのような、極めて自然で、あまりにも当然のトーンだった。
その声を鼓膜に受け止めた瞬間、セリアはここ数日間、自らの胸の奥を硬く締め付けていた目に見えない結び目が、音を立てて滑らかに解けていくのを感じていた。
見つけた。本当に、見つかったのだ。
神界のあらゆる最高精度観測器が捉えきれなかった、あの至高の「最高責任者」が、今、確かに自分の目の前に立っている。
マコトはゆっくりと膝を伸ばし、立ち上がった。その手には依然として、先ほどまで水路の図面を描いていた、ただの枯れ枝が握られている。
「来ましたか」
「……はい」
セリアの唇から漏れたのは、ひどく掠れた、か細い一言だけだった。
下界へ降臨するまでの道中、彼女が頭の中で何度も推敲し、美しく整えていたはずのすべての報告文言が、霧のように霧散してしまっていた。
時空崩壊事故に対する管理不足の謝罪、神界行政区の現状報告、これまでの捜索プロセスの合理的な説明――それらすべての「公文書」が、あの人の姿を前にした瞬間、何の意味も持たないただの記号へと変わってしまったのだ。
マコトはしばらくの間、セリアの顔を無言で見つめていた。その瞳は相変わらず波一つ立たない水面のようだったが、やがて彼は、セリアの目元に刻まれた微かな陰影を正確に読み取った。
「随分と、疲弊しているようですが」
セリアは、落涙を堪えるように、ただ静かに口元を綻ばせた。
「……そう、かもしれません」
「ならば」
マコトは西の山嶺へと傾き始めた、黄金色の陽光を見上げ、極めて事務的な、しかし確実な声調で告げた。
「まずは現時刻を以て職務を一時中断し、適切な休息を確保してください。話はそれからです」
セリアは一瞬だけ両目を閉じ、心の中で深く息を吐いた。
変わっていない。この人は、本当に何も変わっていないのだ。
これほどの国家規模、いや世界規模の事故に巻き込まれながら、彼が最初に口にしたのは、事故の原因究明でもなければ、神界への帰還ルートの確保でもない。ただ一人の部下の、肉体的な労務管理の状態だった。
少し離れた場所から、ハンスはその2人の様子を、深い興味と奇妙な違和感を抱きながら凝視していた。
あの領主様に対しても、村長に対しても、常に冷徹なまでの事務的態度を崩さなかった「ボス」が、これほど親密に、かつ自然に他者を受け入れる姿を、彼は一度も見たことがなかった。
『以前の職場の同僚』――確かに、ボスはかつて自分たちにそう説明していた。
しかし、ハンスの目から見れば、あの銀髪の美しい女性がボスに向ける眼差しは、単なる仕事の同僚や、義務的な部下という枠組みには、どうしても収まりきらない「絶対的な何か」を孕んでいるように見えてならなかった。
そしてその誤解は、村の自警団が「神界からの恐るべき使者が、ボスを連れ戻しに来た」という壮大なパニックの報を村へと持ち帰ることで、さらに取り返しのつかない規模へと拡大していくことになる。




