第78話 再会
異世界への渡航というものは、往々にして旅情を愉しむ余白など残してはくれない。
車窓から流れる異郷の景色を眺めるような風情はそこにはなく、全行程が単なる次元空間の機械的な移動に過ぎないからだ。純白の閃光、圧搾される時空、そして再び目の前を焼き尽くす白光。神界管理行政区の職員たちにとって、それは日々の出張業務で繰り返される、ただの退屈なルーティンに過ぎなかった。
しかし今回ばかりは、セリアは光の壁の中にいた時間のことを何一つ記憶していなかった。彼女の思考を占拠していたのは、ただ一つの存在――「ボス」の姿だけだった。
あの執室で座標が特定されたその瞬間から、彼女の脳裏にはあの人の横顔が絶えず浮かんでは消えていた。どんな難局にあっても決して動じることのない、あの静かな佇まい。どれほど業務が逼迫していても、決して早口になることのない、あの落ち着いた声音。そして、周囲がどれほど大騒ぎしていようとも、まるで手向けの茶でも淹れるかのように、あらゆる難題を淡々と、そして呆気ないほどシンプルに解決してしまうあの姿勢。その旅路がどれほどの時間を要したのか、セリアには測る術もなかった。
周囲を満たしていた純白の輝きが霧散し始めたとき、彼女の感覚を最も早く揺り起こしたのは、頬を撫でる柔らかな風の感触だった。肌にまとわりつくような、生暖かい湿気。それは、常に完璧に均一な魔力によって制御され、微塵の揺らぎも許されなかった神界の空気とはおよそかけ離れた、下界の息吹そのものだった。
セリアはゆっくりと瞼を持ち上げた。
頭上には、言葉通りどこまでも境界なく広がる、鮮やかな青空がそびえ立っていた。千切れた白い綿雲が、気まぐれな風の赴くままに形を変えながら、ゆっくりと東へと流れていく。遠くの木々の梢からは、神界の聖鳥のような格式張った調べではなく、ただ生きるために鳴き交わす野鳥たちの、泥臭くも賑やかな囀りが響いていた。
このような無秩序な空を見上げたのは、一体どれほど久しぶりのことだろう。神界にも空はあった。だが、あの完璧な模造品の天球は、季節の移ろいによってその色を変えることも、気まぐれな雨を降らせることもない。眼前の空は、確かに呼吸をしていた。
彼女は胸の空気を一度吐き出し、改めて深く息を吸い込んだ。湿った黒土の、濃厚な匂いが鼻腔を満たす。それに混じって、先ほどまで降っていた俄雨に濡れたばかりの青草の瑞々しい香りが、胸の奥まで染み渡るようだった。
セリアは無意識のうちに視線を足元へと落とした。彼女の白い官給靴が踏みしめているのは、神界の滑らかな白石ではなく、無数の馬車が行き交った形跡を残す、無骨な泥道だった。
その道の先には、夏の陽光を浴びて青々と輝く、広大な畑地が広がっていた。ある区画はつい最近耕されたばかりのようで、整然と畝が作られている。また別の区画では、すでに現地の作物が人間の膝の高さほどにまで青葉を茂らせていた。陽炎の立つ遥か彼方には、数人の男たちが腰を屈めて野良仕事に精を出している姿が見える。土を打つ鍬の音が時折コトコトと響き、それに混じって、風がどこか呑気な笑い声を運んできた。あまりにも穏やかで、牧歌的な平穏がそこにはあった。
セリアは我に返り、懐から座標を示し続ける魔導結晶を取り出した。その結晶の芯で眠る針のような光は、彼女が取り出すと同時に、一層強く眩い輝きを放ち始めた。光の針が指し示しているのは、村の東側に位置する、なだらかな傾斜を持った芋畑の方向だった。距離にして、もう目と鼻の先だ。彼女は事務杖を軽く突き、静かに歩みを進めた。
集落の中心部に近づくにつれ、街道を行き交う現地の住民たちの姿が目立つようになってきた。一抱えもある大きな籠に、収穫したばかりの瑞々しい野菜を詰め込んで運ぶ素朴な女性。落ちていた木の枝を剣に見立てて、大声を上げながら泥だらけになって走り回る2人の子供。年季の入った平屋の軒先で、煙草を燻らせながら黙々と荷車の車輪を修理している、深い皺を刻んだ老人の姿。
そこには、1秒の遅延も許されない神界の厳格なタイムスケジュールなど存在しなかった。この村の人々は、ただ己の肉体が刻む、原始的な生命の律動に従って生きている。
セリアは手の中の結晶を再び見つめた。その光は、すでに物理的な輪郭を失うほどの強さで、一点を激しく照射している。間違いない。あの人は、このすぐ近くにいる。彼女は古びた共同井戸の脇を通り抜け、麦藁が高く積まれた収穫物の保管倉庫の影を曲がった。そして、広大なジャガイモ畑の緑の合間から、聞き覚えのある声が風に乗って鼓膜に届いた瞬間、彼女の確実だった歩調が、目に見えて緩やかになった。
「――この給水路を、ただ直線的に切り開いてしまっては」
その声は、驚くほど平坦で、低かった。
「水流の勢いが増しすぎて、必要な水分が土に染み込む前に、大半が下流へ流れ失せてしまう」
決して声を張り上げているわけではない。しかし、その一言一言が、不思議なほど明確な輪郭を持って、周囲に集まった男たちの耳へと染み渡り、納得させていく。
セリアは足をとめた。数千年の間、常に冷徹な論理の塊であったはずの彼女の胸の奥で、心臓が、まるで不慣れな鐘の音のように激しく、速く脈動し始めていた。その声を知っている。忘れるはずがない。聞き間違えるはずがなかった。彼女は音を立てないよう注意しながら、一歩、また一歩と、芋畑の畝の隙間へと歩み寄った。
そこでは、数人の浅黒く日焼けした農夫たちが、一人の男を神妙な面持ちで取り囲んでいた。男は泥のついた地面に片膝を突き、手にした1本の枯れ枝を使って、湿った土の上にいくつかの奇妙な幾何学模様――流体力学に基づいた、完璧な曲線を持つ水路の設計図を描き出していた。
「逆に、このように僅かな湾曲を連続して持たせることで」
男は枯れ枝を動かし、淡々と説明を続ける。
「水の進行速度を人為的に減速させる。そうすれば、この一帯の土壌が水分を十分に吸収する時間的猶予が生まれるはずだ」
一人の年配の農夫が、まるで大賢者の神託を聞くかのように深く頷いた。
「なるほど……。じゃあ、これまでは水が足りねえんじゃなくて、ただ速すぎて素通りしてただけなのか?」
「その通りです」
男は当然の報告書を受理するように、短く応じた。
「水は多ければ良いというものではありません。職務と同じです。過不足なく、必要な分だけが、必要な場所に、必要な時間だけ存在すればそれでいい」
農夫たちは互いに顔を見合わせ、それから一斉に、破顔した。
「さすがはアルスさんだ! 俺たちゃ、てっきり水路を広げりゃ広げるほど、芋がでかくなると思ってたよ!」
男は静かに首を振った。
「規格外に大きすぎるものは、管理の手間を増やすだけです。その土地の身の丈に合った、最適な運用を心がけてください」
セリアは、その後に続いた現地の言葉による世間話を、もう何も聞き取っていなかった。彼女の琥珀色の瞳は、ただ、その場に屈み込んでいる一人の男の背中だけに、完全に釘付けにされていた。
どこにでもある、粗末な仕立ての麻の服。実務のために、肘のあたりまで無造作に捲り上げられた袖口。その足元には、編みかけの古ぼけた麦藁帽子が、まるで最初からそこにあった石ころのように転がっている。そこには、神界の頂点に君臨していたあの「最高責任者」としての、目に見える威厳や、空間を圧するような神聖なオーラなど、微塵も存在しなかった。ただ、現地のしがない農民たちを相手に、いかにして水を効率的に配分すべきかという、極めて地味なインフラの最適化を熱心に説いている、一人の若い男の姿がそこにあるだけだった。
しかし、セリアにとって、その少し猫背気味の、実直な背中だけで、それ以外のすべての証明を不要にするほどに十分だった。彼女は、その背中を知っている。彼らが共に過ごし、数え切れないほどの公文書を処理してきた、あの気の遠くなるような永劫の時間の中で、彼女が常に一歩後ろから見つめ続けてきた、唯一無二の背中だ。
手の中の魔導結晶が、その役割を終えたことを告げるように、静かに、優しくその光を失っていった。彼女に与えられた、最後の探索職務はここに完了した。あの時空の彼方に消失した、最愛の、復讐劇よりも遥かに得難い、最高の――。
ボスが、そこにいた。




