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『異世界に飛ばされた神だけど、誰も俺が神だと信じてくれない』  作者:
セリアの介入

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第77話 セリア下界へ

 その座標が特定されてから間もなく、神界管理行政区の執務室は、まるで何事もなかったかのように元の乾いた日常の律動を取り戻していた。

 一時的に滞っていた決裁書類が再び机から机へと淡々と運ばれ、それまでセリアの作業机を埋め尽くしていた索敵用の魔導結晶が、ひとつ、またひとつと静かにその淡い光を消していく。

 ある職員は新しく届いた分厚い報告書の束を抱えて通り過ぎ、またある職員は中断されていた下界の観測データの照合作業に戻る。

 そこには勝利の宣言もなければ、歓声の類いも一切なかった。この広大な行政区において、ひとつの案件が片付くということは、単に「次の案件に着手できるようになった」という事務的な事実に過ぎないからだ。


 だが、その静寂の中に、誰もがそれとなく察知している小さな、しかし決定的な変化があった。

 セリアが、ついにその椅子から立ち上がったのだ。

 通りすがりにその姿を目留めた数名の職員が、声を出さずに互いに目配せを交わした。ここ数日というもの、彼らが朝出勤した時も、昼の休憩時も、そして夜半過ぎに退庁する時でさえ、彼女は常に同じ場所に座っていた。机の上の魔導灯は一度も消されることがなく、その背中はまるで執務室の風景の一部として固定されているかのようだった。

 その彼女が、数日ぶりにその席を離れたのである。


 背後の机からその様子をずっと見守っていたルナは、促されるまでもなく自らの席を立ち、静かに先輩の元へと歩み寄った。

「先輩」

 声をかけられたセリアが、ゆっくりと視線を巡らせる。

「お茶が、もうすっかり冷めてしまっています」

 ルナの指さした先を見て、セリアは自分の手元に置かれたままの陶器のカップにようやく気づいた。最初に一口だけ口をつけたきり、完全に放置されていたものだ。

 彼女は少し困ったように、微かな苦笑を浮かべた。

「……忘れていたわ」

「存じております」

 ルナは手際よく冷えたカップを回収すると、あらかじめ用意していた淹れたての温かい茶を代わりに差し出した。

 今度は、セリアもそれを拒まなかった。温かい液体を喉へと流し込むたびに、ここ数日間、ただ一つの目的のためだけに極限まで張り詰めさせていた意識が、心地よい温もりとともに自らの身体へと呼び戻されていくのを感じる。

 息を吐き出すと同時に、これまで自覚していなかった重い疲労がどっと押し寄せてきた。しかし、その疲労感は決して不快なものではなかった。

 ボスが見つかった。ただその一事だけで、彼女の心は十分に満たされていた。


「――行ってくるわね」

 セリアが静かに、しかし確かな声調で告げた。

 ルナは表情を変えずに、小さく頷いた。

「はい」

 どこへ行くのかという不必要な問いも、それを説明する言葉も交わされなかった。二人の間では、その行き先がどこであるかなど、今さら確認するまでもないことだった。


 セリアはいつも通りの几帳面さで、自身の机の上を整理し始めた。

 散乱していた調査資料や書き付けの数々は、閲覧の順序に従って美しく並べ替えられ、索敵用の結晶は所定の保管箱へと収められる。広げられていた次元構造図の羊皮紙も、端を揃えてきれいに巻き取られた。その手つきには一切の焦りがなく、極めて平穏だった。

 ルナはその作業の様子を、ただ静かに傍らで見つめていた。

 先輩であるセリアと共に働いてきた期間は長い。だからこそ、ルナはその一連の動作に込められた意味を正確に理解していた。

『机の上の乱れは、職務にあたる者の心の乱れだ。仕事が一段落した時こそ、最初の状態に美しく戻さねばならない』

 かつて、彼らの「ボス」が口癖のように言っていた言葉だった。当時のルナは、それを単にボスの特異なこだわり、あるいは一種の偏屈な習慣のようなものだと思っていた。

 しかし今、セリアは誰に命令されるでもなく、ボスの残したその教えを完璧に実践している。


 最後に書類の端が揃っていることを指先で確認すると、セリアは壁に立てかけられていた一本の杖を手に取った。

 それは管理行政区の職員に支給される、極めて簡素な官給品の杖だった。豪奢な魔石の装飾があるわけでもなく、周囲の空間を威圧するような神聖な魔力を放っているわけでもない。神界の事情を知らぬ下界の人間が見れば、ただの旅人が使う古びた木の棒と区別がつかないだろう。

 だが、この行政区に身を置く者にとって、その杖が持つ意味は重い。それは彼らに与えられた「権限」そのものの象徴だった。

 その杖を用いて大公文書館の書庫を開き、世界の記録を精査し、事象の変動を書き換える。彼らにとって、それは武器ではなく、最も信頼すべき文房具であり、職務の道具なのだ。

 セリアはその木肌の感触を確かめるように一度強く握り締めると、迷いのない足取りで執務室の外へと歩き出した。


 白石で築かれた行政区の長い回廊には、今なお慌ただしく書類を運ぶ職員たちの足音が響いていた。

 向こうから歩いてくる数名の若手職員が、セリアの姿を認めると足を止め、一様に深く頭を下げた。セリアは歩調を緩めることなく、ただ小さく会釈を返す。

 毎日、それこそ気が遠くなるほどの回数を通ってきた見慣れた回廊だった。だが、今日の彼女の歩みは、いつもと少し違っていた。

 速度が上がったわけではない。ただ、その一歩一歩が、驚くほど軽やかだった。


 回廊の最奥に位置する、巨大な円環構造物――「異世界渡航門」の前にセリアは立った。

 巨石を削り出して作られたその門の表面には、無数の古代ルーン文字が刻まれており、接続先の座標に応じて生き物のようにその配列を変え続けている。この門が完全に閉ざされることはない。神界と無数の下界を繋ぐ大動脈として、常に誰かが往来しているからだ。

 配置されていた門番の職員が、セリアの接近に気づいて素早く居住まいを正した。

「渡航申請を確認いたします。所属および目的地を」

「管理行政区、第一執務室。セリアです。目的地は――『ルナの村』」

「了解いたしました、セリア管理官」

 門番は手にした触媒を制御盤の結晶へと接触させた。

 直後、円環の表面に刻まれたルーンが激しく明滅を始め、冷涼な白い光が門の内側を満たしていく。数秒の脈動の後、その光の幕は完全に安定し、風ひとつない湖の水面のように滑らかな光の壁へと変化した。

「接続座標、確定。空間の安定性を確認しました。ゲート、いつでも移行可能です」


 セリアは目の前で静かに揺れる白い光を見つめた。

 この光の向こう側、見知らぬ下界の片隅で、彼らのボスは今も生きている。

 彼はどのような場所で、どのような暮らしをしているのだろうか。

 見知らぬ土地で不自由を強いられてはいないだろうか。あるいは、身体を壊したりはしていないだろうか。

 そのいずれに対しても、今のセリアは具体的な答えを持っていなかった。神界の最高精度を誇る観測器であっても、そこまでの詳細な生態までは捉えきれなかったからだ。

 だが、確信していることが一つだけある。

 あのボスが生きてそこにいるのであれば、絶対にただじっとしているはずがない、ということだ。

 おそらくは現地の住人の些細な困りごとを手伝っているか、あるいは不合理な書類の不備を見つけて苦言を呈しているか、あるいは――。

「……いつものように、ただ淡々と仕事をこなしていらっしゃるのでしょうね」

 そう呟いたセリアの口元に、自然と小さな、しかし温かい微笑が浮かんだ。あの人のことだ、どこへ行こうともその本質が変わるはずがない。

 彼女は深く息を吸い込み、視線をまっすぐ前方に据えた。

 そして、手にした事務杖を軽く突き、迷うことなくその白い光の中へと足を踏み入れた。

 視界を埋め尽くした純白の輝きとともに、見慣れた神界の風景が瞬時に遠ざかっていく。

 かつて失われた、彼らの日常を取り戻すための旅路が、今、静かに幕を開けた。


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2026/09/09 公開予定

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