第76話 ロケーション、特定
神界管理行政区の鼓動が、完全に停止することはない。
たとえひとつの大がかりな報告書が決済され、公文書館の書庫に収められたとしても、次の瞬間には別の机の上に数十冊もの新たな申請書が山と積まれる。それが、秩序を司る行政の神々にとっての日常であった。
彼らは命の運命を決定づけるわけではない。誰かの生涯にドラマチックな奇跡をもたらすわけでもない。彼らの本分はただ、あらゆる事象の「過程」が規定通りに執行されているかを監視し、記録することだった。
ひとつの魂がしかるべき輪廻の輪へ還るならば、その帳尻を正確に合わせる。ひとつの世界が次元の軸から僅かに逸脱したならば、大禍となる前にその傾きを修正する。
万が一、システムのどこかに綻びが見つかったなら――彼らはそれが破滅的なエラーに肥大化する前に、誰にも知られることなく、淡々とその穴を埋める。
誰もその恩恵に気づかない。けれど、だからこそ、その歯車を決して止めてはならなかった。
数千年の長きにわたり、その原則を誰よりも深く体現していたのが、第一執務室を率いるセリアだった。
彼女は常に誰よりも早く出勤し、その作業机はいつ見ても磨き上げられたように整然としていた。朝一番に届けられた請願書や報告の束が、日が暮れるまで机に残っていることなど一度もない。
まだ業務に慣れない新人職員がいれば、請われずとも手を差し伸べて神界の複雑な処理システムを懇切丁寧に教え込み、他部署の人手が足りずに業務が滞っていれば、まずは自身の仕事を完璧に終わらせた上で、当然のように助太刀へと向かう。
それを奇異に思う者はいなかった。それこそが、誰もが信頼を寄せる「管理官セリア」という存在そのものだったからだ。
しかし今、その見慣れたはずの机は、かつてない異様な光景を呈していた。
机の左端には、手付かずのまま紐で縛られた日常業務の報告書が、文字通り壁のように積み上がっている。セリアの作業スペースを少しでも確保するため、見かねた他の職員たちが気を利かせて脇へ移動させたものだ。
代わりに机の全域を占領していたのは、彼女の細く端正な筆跡で埋め尽くされた、膨大な手書きのメモの山だった。
多重次元の天球図、存在確率の流動グラフ、そして無数の世界から抽出された座標の比較対照表。それら何十枚もの羊皮紙が、他者には到底理解できない独自の規則性を持って重なり合っている。その一枚一枚がどう繋がり、何を意味しているのかは、世界中でセリア一人にしか分からなかった。
もし後輩のルナが、この数日間の彼女の変遷を最初から目撃していなければ、この場所を行政官の机ではなく、禁忌の理を追い求める狂気的な研究者の祭壇だと勘違いしたに違いない。
「先輩」
ルナは木のトレイを両手で抱え、その混沌とした机の前で足を止めた。
トレイの上には、湯気を立てる一杯のハーブティーと、焼き上がったばかりの二切れのパンが載っている。小麦の香ばしい匂いが、張り詰めた室内の空気をわずかに和らげる。
普段のセリアであれば、作業の途中であっても必ず顔を上げ、細やかな感謝の言葉を述べるはずだった。だが、今日の彼女は微動だにしない。その視線は、空間の一点に固定されていた。
彼女の目の前には、数十個もの淡い光を放つ魔導幾何学の円環が浮かび上がり、それぞれが解析中のデータの一片を虚空に映し出している。
下界の座標、転移の履歴、存在の残滓、そして次元波の細かな振動。それらすべてが、彼女の脳内で同時に処理されていた。
「先輩」
ルナがもう一度、少し声を張り上げて呼ぶ。
そこでようやく、セリアは弾かれたように顔を上げた。まるで、今初めてそこに自分以外の人間が存在することに気づいたかのような、酷く朧気な目つきだった。
「……ごめんなさい。気づかなくて」
「ええ、存じております」
ルナは小さく微笑みながら、トレイを机の僅かな余白――唯一、羊皮紙が載っていない右隅の空間へと滑り込ませた。
セリアは促されるままにカップを手に取り、機械的な動作でそれを一口だけ啜った。そして、その温もりが喉に届くよりも早く、彼女の手はカップを元の位置に戻し、視線は再び先ほどの魔導円環へと引き戻されていく。
ルナはカップの傍らに残されたパンを見つめた。昨日も、その前の日もそうだった。このパンもまた、一口も付けられないまま、時間の経過とともに冷たく硬くなっていくのだろう。
「――まだ、見つかりませんか」
セリアは小さく首を振った。
「ええ、まだよ」
ここ数日、幾度となく繰り返されてきた問答だった。
しかし、ルナは彼女の声音に一切の「揺らぎ」がないことに気づいていた。そこには悲壮感もなければ、焦燥による苛立ちもない。ただ氷のように冷徹な、絶対的な静寂だけがある。
そしてそれこそが、ルナにとって最も恐ろしいことだった。もしセリアが声を荒らげたり、取り乱したりしてくれるなら、無理にでも腕を引いて休息を取らせることができた。だが、これほどまでに静謐なセリアは、目的を達成するまで絶対にその歩みを止めない。
執務室は再び、ペンが紙を引っ掻く音と、遠くの職員たちのひそひそ話だけが響く静寂に包まれた。
セリアはひとつの座標を凝視し、それから次の座標へ、さらにその奥の領域へと意識を潜らせていく。どんなに微小な数値であっても切り捨てず、どんなに辻褄が合っているように見えるデータであっても鵜呑みにはしない。
この数日間、彼女は神界の自動システムが弾き出した「解析結果」を何度も読み返していた。そして、限界を超えた思考の果てに、決定的な盲点に思い至った。
彼女がこれまで盲信していたのは、システムが処理を終えた後の「結論」に過ぎず、その結論に至るまでの「過程」ではなかったのだ。
セリアの記憶は、遥か昔の、何の変哲もないある日の夕方にまで遡る。
当時、彼女はある世界の収支報告書を手に、彼らの「ボス」の元を訪れていた。
『妙なのです』と、当時の彼女は言った。『全ての計算式は合っています。記述に不備もありません。なのに、どうしても最終的な総計だけが、予定された数値と合致しないのです』
ボスは、彼女が差し出した書類の最終ページに目を落とすことはしなかった。代わりに、彼は分厚い報告書の第一ページ目を開き、そこから気の遠くなるような速度で、しかし確実に、一行ずつ指でなぞるように読み進めた。
最終的な結果が間違っているのなら、後ろの数ページを精査する方が遥かに効率的ではないか――当時のセリアは、そのボスのやり方を非効率的だとさえ思っていた。
しかし、数分後、ボスの指が書類の中ほど、ある極めて些細な記述のところでピタリと止まった。
『ここだ』と、ボスは言った。『ただの一文字、ただの一桁の誤記だ。だが、ここから先――全ての計算が、この小さな歪みを前提にして美しく狂ってしまっている』
その時、セリアは学んだのだ。
もし導き出された「結果」が到底信じられないものであるならば、疑うべきはその結果そのものではない。そこに至るまでの、すべての「旅路」の中にこそ、真実を惑わす悪魔が潜んでいるのだと。
だから今、彼女は同じことを行っていた。
ボスという存在そのものを探すのではない。捜索システムが、一体「どこで」その計算を狂わせたのか、その分岐点を逆算して追いかけているのだ。
ひとつの世界、それから次の世界。
時間は無情に流れ、机の上の茶はすっかり湯気を失い、パンの表面は乾燥して硬くなっていった。ルナは何度か自分の席に戻って通常業務をこなし、そしてまたセリアの様子を見にやってきたが、先輩の姿勢は寸分の狂いもなくそのままであった。
そして――セリアの指先が、突然、空間に描かれた光の系譜の上で静止した。
何かを見つけたからではない。あるはずのものが、そこに「存在しない」ことに気づいたからだ。
彼女はすぐさま該当する領域のデータを限界まで拡大し、自動システムの処理履歴の最深部を抉り開いた。
神界の管理システムは、全体の処理効率を向上させるため、観測上「無意味なノイズ」と判断された微小な時空の揺らぎを自動的に消去する仕様になっている。だからこそ、最終的に提示されるデータはいつも完璧で、美しい。
しかし、消去される直前の生の「未加工データ」をミリ単位で引き剥がし、一つずつ手作業で並べ替えていったとき、そこに極めて微弱な、しかし確実に「意図的」な周期性を持つ波形が浮かび上がった。あまりにも小さく、誰もがゴミとして見過ごすほどの微粒子。
セリアは瞬きさえ忘れ、両手の指を閃かせてデータを構築し直していく。彼女がアクセスしたのは、通常業務ではまず触れることのない、最下層の記録層――「存在の波動」だった。
ほとんどの職員は、それを単なる環境背景データ、あるいは処理の残滓として顧みることはない。しかし、かつてボスは言っていた。
『システムがそれを完全に消去せず、記録の片隅にでも残しているということは、いつかそれを必要とする者が現れるという意味だ。無駄なデータなど、この世には存在しない』
今日、この瞬間。そのデータを必要とした者は、世界中で間違いなく彼女一人だった。
何億、何兆という光の粒子が交錯する暗黒の領域に、ひとつの歪みが明確な形を伴って現れた。
極めて微弱で、今にも周囲の次元の雑音に掻き消されそうなほど儚い光。
だが、数億年もの間、あの人の傍らでその背中を見つめ、その職務を支え続けてきたセリアが、その固有の波動を見間違えるはずがなかった。
詳細な座標の展開コマンドを入力する彼女の指先が、微かに、しかし確かに震えていた。
世界の名称。大国の中の、一地方の識別符号。
そして――。
「……『ルナの村』」
セリアはその文字列を、ただじっと見つめ続けた。
涙が溢れることも、歓声を上げることもなかった。彼女はただ、ゆっくりと、ここ数日間ずっと胸の奥に閿えていた重い息を、深い溜息に変えて吐き出した。
「――先輩?」
背後から、ルナの静かな、しかし緊張に満ちた声が響く。
セリアはゆっくりと振り返り、その瞳にいつもの、いや、かつてないほどに澄み切った光を宿して頷いた。
「ええ、見つかったわ」
ただ一言。
しかしその瞬間、あの大事故以来、神界管理行政区のすべてを巻き込んで狂奔していた果てしない捜索の旅は、ついにその揺るぎない錨を下ろすべき地霊を見出した。
彼らのボスは、そこにいる。




