第75章 三万の信徒
次なる収穫期の歯車が巡り、ルナ村の東に広がる開墾地は、再び青々と茂る新緑の海へと塗り替えられていた。
最高神マコトにとって、この季節の到来は、これまでに積み重ねてきた幾多の生産サイクルの一コマに過ぎず、何の特別さもない、平穏な日常の延長線上にあった。彼は今日も日出前に起床し、上流の灌漑水路の水位を検分し、種芋の安全在庫数量を厳密に計算し、それぞれの畝が適切な含水比を維持しているかを監査するために、圃場を黙々と巡回していた。
ルナ村の中は、いつもと変わらぬ規則正しい実務の静寂に包まれていた。しかし、村の境界線の外側にある世界は、マコトの冷徹な合理的予測を遥かに流布する速度で、不気味なほどの地殻変動を起こしつつあった。
その朝、都市の意匠を施された一台の交易馬車が、乾いた音を立てて村の中央広場へと滑り込んできた。
御者台から降り立った大商人が、旅の埃を払うのもそこそこに、長椅子にいた村長モレンの前に進み出た。
「モレン村長、おはようございます。はるばる中央都市より、緊急の実務報告を持参いたしました」
「おお、これは遠方から。して、いかなるデータがもたらされたのだ?」
モレンが温茶を勧めると、商人は深く息を吸い込み、声を潜めて告げた。
「現在、私が往来する北方の全ての交易都市において……驚くべき事態が起きております。どの街の片隅を覗いても、あの『馬鈴薯の書』の写本を囲む、自発的な読誦会が組織されているのです」
部屋の隅で大冊の複写監査を行っていた筆頭編纂者レオンが、弾かれたように筆を止めた。
「全ての都市、でございますか? それほどまでに情報の拡散が進んでいるのですか」
「ええ、レオン様。彼らは毎週の初めに必ず広場や会所へと集結し、あのお方の垂れ流した『エラーの特定』や『初期条件の観察』という御言葉を一字一文にいたるまで検証し、互いに議論を交わしているのです。そして、そこで得られた実務の理を、さらに他所の無知なる民へと技術移転しているのですよ」
会所内は、凍りついたような静寂に包まれた。モレンはレオンと視線を交わし、その胸の奥深くに、制御不能な巨大な潮流の予感を刻み込むのだった。情報の共有化というマコトの思想は、彼らの与り知らぬ地において、独自の教区のインフラを完成させつつあった。
「さらに、それだけではございません」
商人は生唾を飲み込んだ。
「彼らはみな、自らの集団をこう呼び倣わしているのです……『豊穣神の信徒』と」
レオンは息を呑み、開かれたままの大冊を、神聖な器の如く静かに閉じるしかなかった。
正午を迎える頃には、別の街道からやってきた東方の交易商人たちの一団が会所へと滑り込んできた。彼らもまた、寸分の狂いもなく同一のデータを報告した。
「東の領地でも全く同じ現象が確認されております」
「北の寒冷地においては、すでにいくつかの集落が、農作業の手を休めて『馬鈴薯の書』を厳重に保管・読誦するための、専用の聖堂を建立し始めております」
点検官であるリナは、自らの執務机の端を白くなるほど強く握りしめ、美しい瞳を震撼に染めた。
「……これほどの短期間に、情報の露出がそこまで拡大しているなんて」
モレンは老骨の指先で自らの額を深く揉みほぐし、しみじみとした声音で呟いた。
「……現世の民の熱狂は、すでに我らルナ村の処理能力を遥かに超越して、巨大な組織構造を構築しつつあるのだな」
同じ頃、西側の圃場では、マコトが前夜の風でわずかに傾いていた木製の防護柵を、玄能を使って垂直へと修復する日常業務に没頭していた。そこへ、数本の杭を肩に担いだ青年ハンスが近づいてきた。
「大旦那様、マコト様。本日も窓口には、交易商人たちからの雑多な伝聞が溢れかえっておりますよ」
「ふむ。情報が外部に露出し、マクロな市場流動性が高まっている証拠だね。実務の観点からも当然の傾向だよ」
「大旦那様は、彼らが外の世界でどのような物語を触れ回っているか、ご興味はございませんか?」
マコトは釘を打ち込む手を止めることなく、感情の起伏を排した口調で、当然の事実を告げた。
「その伝聞の記述が、農事の技術移転プロセスに関わるものであれば、彼らは遠からず窓口を通じて具体的なQ&Aを求めてくるはずだからね。もし明確な問いを投げかけてこないというのであれば、それは彼らが自らの現場においてエラーを特定し、自発的にプロセスを修正できているという明確な証拠だよ。何ら懸念すべき不備はないね」
ハンスは、その世界のすべてを自浄作用の数値で裁断する冷徹な神の論理に、「やはり、常人とは見据える先が違いますね」と穏やかに笑うだけだったが、マコトは「ただの基礎的な教育効果の測定だよ」と不思議そうに首を傾げるだけだった。彼にとっては、現場の人間がマニュアルを理解し、自ら不具合をデバッグできるようになることこそが、初期の教育プロジェクトの完成を意味していた。
夕闇が迫る頃、一人の老齢の大商人が、畏敬の念に満ちた眼差しでモレンの執務机の前へと進み出た。
「モレン村長、恐れながら、一言実務的な質問をよろしいでしょうか」
「ふむ、いかなる要件かな」
「現在、あの大いなる御方――マコト様の示した理を絶対の規律として奉る『信徒』の数は、一体どれほどの規模に達しているのでしょうか」
モレンは白髭を揺らし、困惑を隠せそうになかった。
「あのお方の御心に数という概念など通用せぬ。我らのような老いぼれには皆目、見当がつかぬよ」
商人は、懐から幾つもの客観的な数値が並ぶ小さな帳面を取り出した。
「不肖、この私、各地の商網を利用して、実績データの集計を行ってみました」
「集計、だと?」
「はっ! 私が往来した各街の読誦会の規模、写本の流通数量、そしてあのお方の全否定の洗礼を奉る民の数を、限界まで精査し、データベース化いたしました」
彼は、数字で埋め尽くされた羊皮紙の頁をモレンの前に提示した。
「して、結果はいかがであったのだ?」
「……私の算出した保守的な予測であっても、すでに『三万人』を超える民が、あのお方の教えを絶対の規律として運用しております」
執務室の中は、再び押し潰されるような神聖な静寂に包まれた。レオンは弾かれたように顔を上げ、声を震わせた。
「……いま、何とお仰いましたか?」
「三万人、にございます、筆頭編纂者様」
リナはあまりの衝撃に自らの唇を両手で覆い、モレンでさえ即座に言葉を返す術を失っていた。
三万という数字は、あまりにも巨大すぎた。ルナ村全体の人口データを遥かに凌駕し、一国の常備軍にさえ匹敵するその絶対的な規模。
「……その実績データは、確実に整合性が担保されているのだろうな?」
モレンが絞り出すような声音で確認すると、老商人は深く首をうなずかせた。
「これは、私が直接確認した一次情報のみの数値にございます。もし、この全王国の未開の集落にまで行き渡った写本の潜在的な信徒を含めるならば、実際のグラフはその数倍に跳ね上がるでしょう」
誰も言葉を重ねる者は存在しなかった。その数値の重みは、彼らの胸の奥深くに、絶対的な教団の完成という、逆らえぬ運命の楔として打ち込まれた瞬間であった。毎週のように届けられる新しき書簡、原典照合を求める監査申請の山。そのすべての実績データが、三万という数値の正当性を証明していた。
日没が近づき、格子窓から差し込む茜色の光が会所の床を赤々と染める頃、モレンは北の圃場へと足を運び、作業道具の点検を行っていたマコトの前へと進み出た。
「大旦那様、マコト様。本日も無事にすべての実務プロセスが完了いたしました」
「やあ、モレン村長。今週分の在庫管理手続きも完璧に収束したようだね。良い傾向だよ」
「はっ。それで……大旦那様。恐れながら、一つ実務外の仮定の問いをお許しください」
マコトは手鍬に付着した泥を布で拭い去りながら、冷淡な眼差しを向けた。
「ん? 業務改善のためのシミュレーション(仮定の話)かい? 進めなさい」
「もし……もし将来的に、あのお方の提示されたプロセスを絶対の規律として運用する民の数が、我らの想像の及ばぬほど膨大な規模に達したならば、あのお方はその組織をいかにマネジメントされるおつもりでしょうか」
マコトはしばらく腕を組んで考え込んでいたが、やがて一切の政治的野心を排した、明快な口調で答えた。
「それは原因の特定を誤っているね。そもそも、私には彼らを統治する公的な権限もなければ、独自の教えをでっち上げた事実もないからね」
モレンは白髭の下の口元を緩め、愛おしげに天を仰いだ。やはり、あのお方の御心に、現世のつまらぬ支配欲など通用しないのだ。
「ですが、民が自発的にその手順を奉っている場合は……」
「もし、彼らが我が村の合理的な栽培手順を正しく理解し、自らの現場で生産性を向上させているというのであれば、それだけで初期の目的は完全に達成されているよ。将来的に彼らが私のマニュアルを必要としなくなり、窓口へのデータ申請が完全にゼロになる日が来るならば、それこそがプロジェクトとして最上の結果だからね」
マコトは羽根筆の先を整えながら、極めてドライな「技術移転の終了」の原則を述べた。
「なぜなら、外部の集落が自立し、自発的にプロセスを運用できるようになることこそが、正しいドキュメント化の意義だからだ。彼らが私の手を離れて独り立ちする日を、私は心から歓迎するよ」
モレンは感極まったように、泥の上に深く平伏した。
「……なんと広大な無欲、なんと底知れぬ教育的慈悲の極みか。我らを従わせるのではなく、世界のすべてを自立した智慧ある存在へと導こうとされているのだな……!」
マコトは「なぜ実務の自立の原則に対してこれほど激しく涙を流されるのだろうか」と不思議に思ったが、技術の伝承プロセスが順調に進捗していることは客観的事実であった。
しかし、最高神マコトは夢にも思っていなかった。
その夜、大陸全土の無数の都市や集落において、あのお方の全否定の神託を宿した『馬鈴薯の書』が、一糸乱れぬ規律のもとで一斉に開かれていたということを。
ある地では聖堂の祭壇の上で。
ある地では民の住居の暖炉の前で。
そして、ある地では幼い世代への絶対の律法として。
誰もその正確な全貌を把握している者は存在しなかった。しかし、ただ一つの事実が、不滅の現実として地表へと刻み込まれつつあった。
あの大いなる御方は、自ら権力を求めることもなく。
民を勧誘するプロセスを仕出かすこともなく。
自らを教団の長として宣言するような非合理的な真似も、絶対にされなかった。
それにもかかわらず――最高神マコトのあずかり知らぬところで、その冷徹なる事務主義の御言葉を世界の絶対的な真理として奉り、その統治のもとに命を捧げることを誓った、狂信的なまでの「信徒」の数は――。
客観的な実績データとして、すでに「三万人」という恐るべき大台を突破していたのである。
何も知らない最高神マコトは、今日も初夏の美しい星空の下、防護柵の修繕プロセスが計画通りに完了したことに深い満足感を覚え、ただただ真っ直ぐに、愛する実務の平穏の中を歩み続けるのだった。




