第73章 届かぬ本意
嵐の如き騒動が吹き荒れた翌朝、ルナ村の東に広がる圃場には、いつもと変わらぬ静謐な朝が戻っていた。
東の地平線から初夏の陽光が白々と差し込み、馬鈴薯の葉の表面に連なる朝露を美しく照らし出す中、最高神マコトは土を踏みしめながら静かに歩を進めていた。その手には、本日の業務プロセスを刻んだ小さな木札がしっかりと握られている。彼の規則正しい時間管理思想に言わせれば、上流の灌漑水路の点検、北側圃場の畦の補強、そして種芋の最終選別にいたるまで、本日こなすべきタスク(実務)の山には一刻の猶予も許されない。自然の摂理に従って日々成長を続ける作物の管理は、いかなる群衆の熱狂があろうとも、1秒たりとも停止させるわけにはいかない連続的な業務だからだ。
背後から、二本の手鍬を肩に担いだ青年ハンスが、小走りで近づいてきた。
「大旦那様、おはようございます。すでに本日の実務を開始されているのですね」
「ああ、おはよう、ハンス。今日という日に割り当てられたタスク(仕事)を安易に翌日へと延期してしまえば、明日の業務原価と労働力は単純計算で二倍に膨れ上がってしまうからね。初期段階での遅延を未然に排除することこそが、正しい納期管理だよ」
ハンスは、その一切の曖昧さを排した冷徹なまでの経済合理性の論理に、「なるほど、実に見事な見識です」と穏やかな笑みを浮かべた。二人はそれ以上の言葉を交わすことなく、数日間の無降雨によって乾燥し始めていた土壌へと手鍬を打ち込み、黙々と地を均し(ならし)、畦の成型プロセスを再開した。マコトにとっては、昨日あれだけの峻烈な断定を下したことも、今日こうして泥にまみれて働くことも、すべては同一の客観的事実(実務)の延長線上に過ぎず、何の特別さもない、平穏な日常の光景であった。
しかし、その圃場の静けさとは対照的に、村の中央にある役場の会所内は、未だに冷めやらぬ異様な熱気で溢れかえっていた。
前日にマコトから『すべては誤りなり』という全否定の宣告を浴びた巡礼者たちは、誰一としてそのまま故郷へと引き返すことをせず、大半が村の小さな旅籠に身を寄せ、夜通し議論を交わしたのち、夜が明けると同時に再び会所へと集結していた。
筆頭編纂者となったレオンは、開門と同時に室内を満たしたその群衆の密度に、驚きを隠せそうになかった。
「……随分と、多くの視察者たちが未だに留まっているのですね」
点検官であるリナが、机の上の新しい羊皮紙を整理しながら、深く首をうなずかせた。
「ええ、レオン。昨日あのお方から厳しいお言葉を賜って(たまわって)以来、誰一人としてその場を離れようとせず、より一層真剣な面持ちで対話を続けておられますわ。データの露出量が限界を超えつつあります」
村長モレンが老眼鏡を外し、重々しい足取りで執務室へと入ってきた。彼は、部屋の随所で小集団を形成し、声を潜めて激しく語り合っている他所の民へと鋭い眼光を向けた。
「彼らは、一体いかなる事柄について監査(議論)を行っているのだ?」
レオンは、窓口に寄せられた幾つかの覚え書きに目を落とした。
「はっ。彼らは昨日、大旦那様がお漏らしになった『物質に依存するのを止め、自らの足元を見つめて学びなさい』という御言葉について、その真の境界(意味)を解き明かそうと必死に智慧を絞っているのです」
モレンは老髭をなで、深く黙考した。あのお方は昨日、これまでにない峻烈な声音で民の無知を戒められた(いましめられた)。その神聖なる逆鱗の余波が、人間の脳内という歪なフィルターを通ることで、いかなるプロセス(結論)へと収束しようとしているのか、老村長には大方の予測がついていた。
群衆の中の一人の若い学徒が、弾かれたように立ち上がり、周囲を圧倒するような声を響かせた。
「……一同、私はようやく、あの大いなる御方が我らに授けられた真の光を理解したぞ!」
居合わせた者たちが一斉に、その目を輝かせて男に注目した。
「我らはこれまで、ただの手鍬や堆肥といった、目に見える『物質』に奇跡を求め、安易な御加護を乞うという致命的なエラー(誤り)を仕出かしていたのだ。しかし、あのお方の真意はそこにはない。神が我らに望まれているのは、物質への盲信を捨て、自らの内面にある思考のプロセスそのものを『品質改善』し、高めることなのだ!」
周囲の巡礼者たちが、感極まったように何度も激しく頭を下げた。
「まさにその通りだ! あのお方は、我らが盲目的な依存に陥って堕落するのを防ぐために、敢えて(あえて)厳しい態度をもって我らの要求を全否定(却下)されたのだ!」
「なんと深遠なる教育的慈悲、なんと広大な御心か……。我らをただ従わせるのではなく、智慧ある存在へと引き上げようとされているのだな!」
会所内は、再び狂信的なまでの感動の静寂に包まれた。レオンはその様子を遠巻きに眺めながら、独り複雑な溜息をつくのだった。彼はマコトの傍らに最も長く仕えてきた身として、大旦那様が不効率なプロセスや非論理的な迷信を嫌悪されていることは重々承知していた。しかし、目の前の民が熱弁しているような「全人類の魂の救済計画」といった高潔な思想を、大旦那様がこれっぽっちも考えていないこともまた、100%の客観的事実として理解していた。あのお方はただ、農業指導員として「間違っているから直せ」と言っただけなのだ。それ以上でも、それ以下でもない。
陽光が天頂を過ぎる頃、数人の視察者たちが、モレンの執務机の前へと恭しく進み出た。
「モレン村長、我らはこれより我が村へと帰路に就きます。此度の(こたびの)滞在において、我らは至高の答えを賜りました」
モレンは老練な微笑を浮かべ、公務員の如き丁寧さで対応した。
「それは何よりの実務の成果だ。お前たちの旅路の安全を祈っているよ」
先頭の男が、泥の上に深く平伏した。
「我らはもう、ルナ村の土を求めるような愚は仕出かしませぬ。水瓶を運ぶのも、手鍬を捧げるのも止めます。我らが故郷へと持ち帰るのは、あの大いなる御方の直筆が残る『馬鈴薯の書』の教え、ただそれだけにございます」
「ふむ。その調子で実務に励むがよい」
モレンはあえて彼らの解釈を訂正することはしなかった。なぜなら、大旦那様ご自身が昨日、あれほど明快に『オカルトの排除』を宣言されたのだ。その後で民がどのような精神的修修養の論理をでっち上げようとも、彼らが提示された栽培手順を正確に実行し、生産性の数値を向上させるのであれば、その内面のエラー(誤解)は中長期的なプロジェクト管理の観点からも何ら問題にはならないからだ。
その頃、圃場の分岐点では、マコトが数人の子供たちを前に、排水路の詰まりを解消する実技指導を行っていた。
「いいか、まずはこの水流の速度を観察するんだ。もし、この一角で水面が異常に上昇しているなら、その地中に根や泥といった阻害要因が潜在しているという明確な証拠だよ」
一人の少年が、泥のついた小さな手を挙げて尋ねた。
「大旦那様、これ、放っておいたらどうなっちゃうの?」
「水流が溢れ(あふれ)、周囲の畝の土壌バランスを物理的に破壊するエラーを招くよ。だから、見つけ次第、このように細木を使って少しずつ異物を取り除く(デバッグする)んだ」
少年は言われるがままに、手元に枝を差し込んで泥を掬い(すくい)上げた。溜まっていた水が、サラサラと心地よい音を立てて再び流れ始める。
「わぁ! 流れた! 大旦那様、大成功だよ!」
マコトは満足げに小さく頷いた。
「素晴らしい。初期の微小な不具合(不備)を発見し、現場の段階で即座に修正することこそが、中長期的な大破滅を未然に防ぐ最上の手段だからね。農事の基本だよ」
子供たちは一言も聞き漏らすまいと、真剣な眼差しでその『予防保守の原則』を自らの魂に刻み込んでいった。彼らにとっては、これはただの「どぶ浚いの手順」に関する真っ当な実務講習に過ぎなかった。
日没が近づき、格子窓から差し込む茜色の光が街道を赤々と染める頃、群衆の最後の一団がルナ村の境界を越えて去っていった。
しかし、此度の(こたびの)別れの光景は、以前の無秩序な熱狂とは明らかに異なる、不気味なほどの統制に満ちていた。マコトの手鍬を触れさせよう(タッチさせよう)とする不敬な者は誰一人としておらず、土や水を無心するような非合理的な行動に走る者も完全に姿を消していた。彼らはただ、遥か遠くの畝で黙々と作業を続けるマコトの背中へと向かって、境界線の外側から、音もなく深く、深く拝礼を繰り返すのみであった。
マコトはその気配を察し、事務的なフィードバックを返すように、小さく顎を引いて頷いて見せた。
「……ハンス。彼らは、正しい退出プロセス(動線)を守って撤退を開始したようだね。良い規律の定着だよ」
傍らにいたハンスが、唇の両端をわずかに吊り上げて微笑んだ。
「大旦那様、彼らは貴方に向かって、魂の底からの敬意を捧げておいでですよ」
「ああ、知っているよ。公的な挨拶(挨拶)だね。だから私も、業務の応答を返したよ」
ハンスは堪えきれずにクツクツと低い笑い声を漏らしたが、マコトは「ただの基礎的なコミュニケーション管理だよ」と不思議そうに首を傾げるだけだった。
マコトの脳内では、此度の一件は完璧な『エラー修正(リスク管理)』の成功事例として、100%の満足をもって処理されていた。他所の人間が持ってきたオカルトじみた誤解は、現場の段階で跡形もなく消滅した。明日からは、誰も奇妙な物質を持ち込まなくなり、村の生産性は計画通りに維持されるはずだ。実に見事なリスクの排除であった。
しかし、ルナ村の境界を完全に離れ、それぞれの故郷へと散っていった巡礼者たちの口から流布された物語は、マコトの意図した客観的な事実とは、全く異なる神話の第2章を紡ぎ出し始めていた。
「……聞いたか。ルナ村の豊穣神は、安易な御加護を全面的に拒絶された」
「ああ。あのお方は、我らがただの物質を崇めるだけの矮小な(わいしょうな)信徒になることを怒られたのだ。神の奇跡に依存するのを止め、自らの足で立ち上がり、正しい手順(律法)を全うせよと仰っているのだ!」
「物質ではなく、その背後にある大いなる理を学びなさい、と。なんと高潔な、これぞ真の最高神の教えではないか……!」
その言葉は、全大陸の各地の集落へと届くごとに、一分の疑念も挟むことが許されない、絶対的な「断偶像崇拝」のドグマとして、人間の狂信的な魂を揺さぶり続けていた。
誰一人として、マコトの「厳しい声音」を感情的な憤怒(怒り)として語る者は存在しなかった。誰一人として、その「拒絶」を拒絶として捉える者は一人もいなかった。彼らの脳の内に遺された(のこされた)のは、自らの無知を徹底的に粉砕し、世界の完璧なる秩序へと導いてくれた、至高の神託の響きだけだった。
人間の無知と熱狂という歪な鏡によって無限に屈折した、マコトの極めてドライな「実務トラブルシューティング論」。その形状は緩やかに、しかし決定的に、世界中の何万もの民の魂を永劫にわたって律し続ける絶対の「聖句」へと昇華されていた。
最高神マコトの伝えたかった客観的な事実(本意)は、人間の信仰という巨大な潮流の底へと、再び音もなく沈んでいった。
そこに何が一分の狂いもない原典であり、何がただの『農業マニュアル』であったかなど、外の世界の誰一人として、本当の意味で気づいている(ケアしている)者は存在しなかったのだ――。
何も知らない最高神マコトは、今日も初夏の美しい星空の下、計画通りの含水比と排水管理が達成されたことに深い満足感を覚え、ただただ真っ直ぐに、愛する実務の平穏の中を歩み続けるのだった。




