第72章 最高神の逆鱗
その朝、ルナ村の境界を越えて流れ込んできた群衆の規模は、これまでの平穏な巡礼の記録を根底から塗り替えるほどに膨れ上がっていた。
ある者は風の噂を頼りに何度もこの地を訪れた常連の参拝者であり、またある者は大陸全土に伝播した奇跡の編年史をこの目で確かめんと、遠方から数日を費やしてやってきた新米の徒であった。
しかし、会所の長椅子に腰掛けていた村長モレンは、フロントオフィス(受付窓口)から報告された現場のデータに目を通した瞬間、その老いた眉間を不快そうに硬く結んだ。
「……これは、一体いかなる事態だ」
他所の衣服を纏った民が抱えているのは、旅の必需品などではなかった。誰も彼もが、実務の論理から著しく逸脱した、雑多な『物質』を大切そうに抱え込んでいたからだ。
赤土の詰まった小さな麻袋。
井戸水で満たされた幾つもの水瓶。
中身の知れぬ厳重な布包み。
そればかりか、群衆の先頭に立つ一人の屈強な農夫にいたっては、随所に刃こぼれの走る一本の古びた鍬を、まるで至高の十字架の如く肩に担ぎ上げて直立していた。
「お前たち、その不効率な荷物の山は一体何のために持参したのだ?」
モレンが冷厳な声音で問いかけると、鍬を担いだ男は、熱狂的な信仰にその目をぎらつかせながら、誇らしげに胸を張った。
「神聖なる『御加護』を賜り(たまわり)に参ったのです、モレン村長!」
「御加護、だと?」
「はっ! 我らの持参せしこれらの物質に、あの大いなる御方――マコト様の指先を直接触れさせていただきたいのです! 神の御手が一度でも触れれば、我が故郷の不毛なる地であっても、瞬く間にルナ村と同じ至高の実りが約束されると信じて疑いませぬ!」
モレンは老骨の指先で自らのこめかみを深く揉みほぐし、重いため息をついた。
(……ついに、懸念していた最大のエラー(不具合)が現場に現れてしまったか。民の無知は、あのお方の最も嫌悪される『オカルトの介入』へと、完全に先祖返りをしておる……)
同じ頃、北側の貯蔵庫の奥では、マコトが次期の定植プロセスに向けた種苗の分配計画書を構築する事務作業に没頭していた。
そこへ、筆頭編纂者となったレオンが、息を切らせて室内に滑り込んできた。
「大旦那様! マコト様! 大変なことが起きております、窓口にて不具合が!」
「ん? 何かな、レオン。定植スケジュール(納期)に影響するエラーかい? 手短に報告しなさい」
「いえ、そうではなく……他所の村々からの参拝者が、広場に異様な群衆を形成しているのです。しかも、それぞれが何やら膨大な物資を携えておりまして、大旦那様へ直々の拝謁を求めております!」
マコトは羽根筆を台座へと戻し、板札をパタンと音を立てて閉じた。
「ふむ。具体的な実務のQ&A(質疑応答)を求めるセッションであれば、拒む論理的な理由はないね。情報のフィードバックは関係維持の基本だからね。行こう」
マコトは至極当然の業務プロセスとして、平然と会所の広場へと歩みを進めた。
数分後、村の中央広場へと足を踏み入れたマコトの眼前に広がっていたのは、総勢二十人を超える異様な群衆の熱気であった。彼らはマコトの姿を捉えた瞬間、地を揺るがすような一糸乱れぬ動作で、泥の上に深く平伏した。
「……マコト様、大旦那様! おはようございます!」
「おはよう。他所の村の人々だね。それで、私に対する実務的な用件は何かな?」
マコトが冷淡な、しかし静かな眼差しを向けると、先頭にいた初老の農夫が、震える手で赤土の詰まった麻袋を捧げ持った。
「マコト様、これは我が故郷の痩せ細った土壌にございます! どうか、この土をあの大いなる『聖なる圃場』の土と混ぜ合わせ、奇跡の息吹を分け与えていただきたく……!」
マコトはその麻袋を一瞥し、感情の起伏を一切排した口調で、明確に首を横に振った。
「それは完全に無意味な行為だね。不許可だ」
農夫は、その冷徹なまでの即座の否定に、弾かれたように目を丸くした。
「え……? 無意味、でございますか? なぜ……」
「土壌の生産性を決定づけるのは、地中に含まれる窒素や加里といった成分 of 含有比率、および微生物の活性度合いという客観的なデータ(数値)に他ならないからだ。単に物理的な位置を移動させ、他所の土と混ぜ合わせたところで、その化学的な性質が自動的に最適化される論理的な因果関係は塵ほども存在しない。もし土壌の品質にエラー(不具合)があるならば、自らの足元の土地に適切な肥料を施し、プロセスを『修正』しなさい。土を持ち運ぶのを止めなさい」
男はあまりにも圧倒的な正論の楔に、言葉を失って立ち尽くした。
未だ周囲がその衝撃から立ち直るよりも早く、今度は一人の若い女が、水瓶を両手で恭しく捧げ持ちながら進み出てきた。
「大旦那様……これは我が村の枯れ果てた井戸から汲み上げた水にございます。どうか、この水に御手を触れ、ルナ村の『聖なる水路』の息吹を……」
「それも全く不要な行為だね。却下するよ」
マコトは遮るように、明快な断定を下した。
「液体の構成成分が、他所の水と混ぜ合わせるだけで向上するというエビデンス(科学的根拠)はないからね。もし水源の水質にエラー(汚染)が生じているならば、上流の沈殿プロセスを見直し、フィルター(濾過設備)を清掃して根本原因を排除しなさい。混ぜ物で結果を繕おう(つくろう)とするのは、極めて不効率な行為だよ」
女はただただ唖然として、その場に硬直するしかなかった。
そこへ、満を持したように鍬を担いだ男が進み出て、泥の上に深く平伏した。
「大旦那様! マコト様! どうか……どうかこの我が鍬に、至高の検印を授けてください! そうすれば、我が家の畑も奇跡の収穫量を示すはずだと……!」
マコトはその傷だらけの古い鍬を冷厳な監査官の目で見つめ、三度、首を横に振った。
「道具というものは、価格の高さや所有者の神聖さによって機能を変動させるものではない。それは単なる作業の効率化を補助するための『デバイス』に過ぎないからね」
「しかし……しかし大旦那様のお使いのあの手鍬は、奇跡を起こすと……!」
「それは原因の特定を誤っているね」
マコトの声のトーンは変わらなかったが、その言葉には、現世のあらゆる迷信を切り裂くような絶対的な説得力が宿っていた。
「もし、使用者が誤った手順で鍬を振るい、刃を打ち込む角度や土を均すプロセスを怠っていれば、生産性のグラフは何の変動も見せないよ。逆に、正しい管理手順を守り、適切なメンテナンス(研ぎ直し)を施していれば、たとえその古い鍬であっても、十分に合格点内の機能を発揮できる。物質に依存するのを止めなさい」
男は、自らの担いでいた鍬を泥の上へとゆっくりと下ろし、その場に平伏した。
しかし、群衆の無知はとどまるところを知らなかった。次から次へと、地の上に編み出るようにして、種苗を、堆肥の袋を、あるいは丸い馬鈴薯そのものを両手で捧げ持ち、「触れてくれ」「神託をくれ」「奇跡を我が家へ持ち帰らせてくれ」と、狂信的なまでの要求が雨の如くマコトへと降り注いだ。
マコトはしばらくの間、腕を組んだまま、その非論理的な熱狂の渦をじっと無表情で見つめていた。
そして――。
彼が不毛なる現世へと入植して以来、初めて、その冷徹な仮面の奥にある表情が、明確な変革を見せた。
それは、自らの名誉を汚されたことに対する感情的な憤怒(怒り)ではなかった。ましてや、神としての威厳を軽んじられたことに対する傲慢な不興でもない。
彼の胃のあたりに蓄積されたのは、組織の最高責任者として、現場の人間たちがこれまでに共有してきたはずの『絶対の管理手順』を全面的に放棄し、非論理的な破綻へと突き進んでいることに対する、不気味なほどの「厳しい戒め(いましめ)」の現れであった。
「――お前たちは、根本的なエラー(誤り)を仕出かしているね」
マコトの口から放たれたその一文に、広場を満たしていた雑音が、一瞬にして凍りついたような絶対の静寂へと変わった。
声のトーンはどこまでも静かであった。しかし、その響きには、これまでの世間話とは明らかに異なる、組織を律する監査官の如き峻烈な厳格さが満ち満ちていた。
「お前たちは、はるばる数日の移動時間を投資してこのルナ村へとやってきた。しかし、その目的は、正しい栽培プロセスの修得(学び)ではなく、単なる『物質の所有』による非合理的な近道の獲得に過ぎない。極めて不効率な姿勢だよ」
誰もその眼光から視線を逸らすことさえできなかった。直立不動のまま、群衆は神の絶対的な宣告を浴び続けた。
「圃場は、ルナ村の土を混ぜることで肥沃になるわけではない。鍬は、私が御手を触れたからといって、自動的に作業効率を高める魔法の道具には変わらない。堆肥は、ルナ村の記章を冠したからといって、発酵プロセスを省略して作物に栄養を与えるわけではない」
マコトは集まった者たちを一人ずつ、冷徹に裁断するように見つめ。
「もし、お前たちの言う『オカルト的な奇跡』が農事の本質であるならば、私はこれほどの手間をかけて技術移転の講習(マニュアル配布)を行う必要など、最初から全くないからね。毎日、窓口で土を配り、水を分け、鍬を配って回れば済む話だ。その方が、中長期的なプロジェクト管理の観点からも、数倍は原価効率が良いからね」
広場には、ただ初夏の風の音だけが、虚しく響き渡っていた。あまりにも圧倒的な、一切の甘えを許さない実務至上主義の冷厳なる全否定。
マコトは深く、静かに息を吸い込み、その対話を冷徹に締めくくった。
「私がこれまでに『馬鈴薯の書』を通じてお前たちに共有してきたのは、思考のプロセス(考え方)であって、物質そのものへの盲信ではないよ。私が圃場で示してきたのは、正しいプロセスの構築(労働)であって、都合の良いオカルト現象……いや、奇跡などではない。もし、正しい実りの成果を望むならば、迷うのを止め、自らの足元を見つめて学びなさい。生産性を向上させたいならば、手順に従って愚直に働きなさい。単に物質を持ち帰るだけで、現状の数値が好転するなどという甘いエラー(幻想)は、今すぐこの場で捨て去りなさい」
マコトはそう淡々と告げると、群衆に向けて小さく、官僚的な会釈をしてみせた。
「申し訳ないが、私の時間原価の思想において、これ以上の非合理的な要求に応じる余裕はないよ。Q&Aの時間を終了する」
彼はそう言うと、一切の未練を残すことなく踵を返し、自らの愛する生産現場(圃場)へと、真っ直ぐに歩み去っていった。
後に残された村の中央広場には、押し潰されるような神聖な静寂だけが、延々と支配し続けていた。
誰一人として、指先一つ動かす者はいなかった。誰一人として、唇を開く言葉を持つ者はいなかった。
少し離れた場所でその一幕を板札に記録していた青年ハンスは、マコトの去った圃場の彼方を見つめながら、畏敬の念に満ちた低い声を漏らした。
「……大旦那様は、本当に……本当に深くお怒りになられておられたのだな」
村長モレンもまた、老髭を震わせながら、深く、何度も首をうなずかせた。
これまでに幾度となくあのお方の傍らに仕えてきた老村長であっても、マコトがこれほどまでに厳しい声音で民を戒めた(いましめた)姿を、目にするのは初めてのことであった。
それは、自らの名誉や『豊穣神』という呼び名のために怒ったのではなかった。あのお方はただ、無知なる凡夫が『自ら思考し、プロセスを改善する力(智慧)』を放棄し、安易な物質への偶像崇拝に陥って堕落していくその姿を、至高の教育的慈悲の観点から、何よりも激しく、冷徹に咎められた(とがめられた)のだ。
学ぶこと。
思考すること。
一秒たりとも無駄にせず、正しく労働すること。
あのお方が常に説き続けてきたその至高の『ロゴス』を、民が自らの都合の良い熱狂によって汚そうとしたその瞬間に、神の峻烈なる逆鱗が発動したのだと、モレンは魂の底から確信していた。
泥の上に平伏したまま、鍬を下ろした初老の農夫が、ゆっくりと涙の滲む顔を上げた。
「……我らは、何という重大な過ちを仕出かしてしまったのだ」
男は、自らの不浄なる両手を見つめ、声を震わせた。
「大旦那様は、我らがただの土や道具といった『物質』を崇めるだけの矮小な(わいしょうな)信徒になることを拒まれた。物質ではなく、その背後にある大いなる『理』を理解し、魂を高めよと仰っているのだ。それなのに、我らは目先の奇跡を求め、神の御心を汚そうとしてしまった……!」
周囲の巡礼者たちも一斉に、自らの無知を恥じるように深く頭を垂れ、泥の上に涙を流した。彼らは、あの大いなる御方から、奇跡の物質を持ち帰ることは叶わなかった。
底知れぬ後悔とともに、彼らの胸の内に持ち帰ることとなったその『峻烈なる全否定の教え』は、現世のいかなる金銀財宝や奇跡の聖遺物よりも遥かに重く、不滅の生命の楔として、彼らの魂の深淵に深く、深く刻み込まれるのだった。
彼らの脳内では、マコトの極めてドライな「業務改善命令・およびオカルトの排除」が、物質主義を脱却して世界の深遠なる真理へと至る、前代未聞の厳格なる『逆鱗の神託』へと、美しく、そして完璧に昇華されていた。
何も知らない最高神マコトは、今日も初夏の爽やかな夜風を浴びながら、広場のエラー(誤解)が現場の段階で完全に修正されたことに深い満足感を覚え、ただただ真っ直ぐに、愛する実務の平穏の中を歩み続けるのだった。




