第71章 歪められし編年史
ルナ村の『聖なる圃場』から放たれた『すべては誤りなり』という峻烈な戒めは、民の口という歪な鏡によって無限に屈折しながら、ルナ村の境界を遥かに越えた遠方の地へと伝播していった。
最高神マコトの存在を巡る大陸全土の伝聞は、日を追うごとにその密度を増し、それと比例するように客観的な事実からの乖離を深めていた。始まりは土に生きる農夫たちの素朴な噂話に過ぎなかったその記述は、今や各地の語り部たちによる独自の脚色が加えられ、何が一分の狂いもない原典であり、何が後世の人間による捏造であるかを識別するのは、著しく困難な状況に陥りつつあった。
マコト自身は、己の周囲で起きつつあるその巨大な情報の非対称性について、これっぽっちも知る由はなかった。彼の合理的な事務主義に言わせれば、今日という日もこれまでに積み重ねてきた実務の一日に過ぎず、何の特別さもない、平穏な日常の延長線上にあった。彼はその朝も、圃場の片隅に深く腰を落とし、地中の雑草の根が灌漑水路の拥壁の隙間に侵入して生じさせている、微小な排水不具合を取り除く日常業務に没頭していた。
同じ時刻、ルナ村から徒歩でほぼ一週間の旅路を隔てた、一度もマコトがその足を運んだことのない遠方の集落では、一群の知識人たちが会所の執務机を囲み、厳粛な面持ちで対座していた。
机の中央には、各地を往来する巡礼者から買い求めた、大冊『馬鈴薯の書』の粗末な写本が何枚も広げられていた。度重なる閲覧と伝承の反復によって、羊皮紙の端々は黒ずみ、インクの文字はところどころ擦り切れて判読が難しくなりつつある。
座の最上段にいた初老の学匠が、深く重々しい声音で対話の開始を告げた。
「……一同、これより至高の神託に関する検証作業を開始する」
集まった者たちは一斉に、その目を輝かせて深く首をうなずかせた。学匠は、擦り切れた羊皮紙の一節を朗々と読み上げていく。
「『他所の景色を眺めるのを止め、自らの足元を徹底的に観察しなさい。もし新たなエラーに直面したなら、原因を特定して修正しなさい』……」
彼は一通り読み終えると、厳かにその巻物を閉じた。
「して……お前たち。あの大いなる御方が、この絶対の律法をルナ村の民へ向けて直接お漏らしになったのは、一体いかなる『時代』のことであったと思うかね」
会所内は、押し潰されるような沈黙に包まれた。誰一人として、その正確な年代管理を知る者は存在しなかった。
部屋の隅にいた一人の若い学徒が、恐る恐る手を挙げた。
「……おそらく、あの大いなる御方が、不毛なる現世へと初めて降臨せし『創世の日』のことにございます。神は地に降り立つや否や、凡愚の民の無知をこのように戒められた(いましめられた)のです」
しかし、対面にいた別の老学者が、激しく首を横に振ってその説を否定した。
「否!それは論理的な因果関係を見誤っておる。この御言葉は、明らかに神の教えを授かった『愛弟子』に対する高度な教育的配慮の現れだ。なれば、あの最初の『馬鈴薯の奇跡』が達成され、最初の収穫祭が催された後に発せられた言葉と見做すのが合理的であろう」
室内では、各自の解釈に基づいた果てしない年代測定の議論が開始された。誰一人として不敬な嘘を吐いている者はいなかった。彼らはみな、純粋なまでに魂の底からあの大いなる御方の真実の歴史(編年史)を構築しようと、死に物狂いで智慧を絞っていたのだ。
問題なのは――彼らの誰もが、その歴史の現場に居合わせておらず、客観的なデータ(一次情報)を持たないまま、主観的な推測だけで過去をでっち上げようとしていることだった。
同じ頃、本物のルナ村の会所では、筆頭編纂者となったレオンが、度重なる閲覧によって擦り切れつつあった『馬鈴薯の書』の原典を、新しい羊皮紙へと精緻に書き写す実務に没頭していた。
点検官であるリナが、その筆先を横から厳格な目で監視しながら、小さく溜息をついた。
「レオン、最近、外の村々からの『原典の写本』を求める申請の数が、以前の数倍にまで膨れ上がっていますわ」
「ああ、リナ。フロントオフィス(受付窓口)の報告でも、各地の集落が『我が村の写本が本物であるかを確認したい』と、データの整合性を求めてきているようだね」
リナは、灯火に照らされた羊皮紙の端を愛おしげに撫でまわした。
「情報の共有化が進むのは、大旦那様の仰る『プロセスの平準化』という意味において、極めて正しい傾向ですわ。データの散逸を防ぐことができますもの」
レオンは動かしていた筆をぴたりと止め、重いため息とともに視線を落とした。
「……いや、リナ。私は少し、別の観点から不都合を懸念しているんだ」
「不都合、と言いますと?」
「村の外の民は、この『馬鈴薯の書』の実務的な原典を直接読み下すことよりも、他所の者が口頭で触れ回る『奇跡の物語』の方を、遥かに好んで耳にしているようなんだ。情報の歪みが始まっている」
部屋は再び静寂に包まれた。そこへ、午前中の最終監査報告書を携えた村長モレンが、老眼鏡を外し、重々しい声音で対話に加わった。
「レオンの懸念は、すでに現場の段階で事実として現れ始めておるよ、二人の若者よ」
レオンが弾かれたように顔を上げた。
「モレン村長、何か新しい不具合でも発生いたしましたか?」
「昨日、窓口にやってきた他所の巡礼者がな、こう口にしておったのだ。『豊穣の神は、ルナ村に初めて降臨されたその瞬間、天を突くような巨大な馬鈴薯を虚空から呼び出し、民の飢えをまたたく間に救われた』とな」
レオンは即座に激しく首を横に振った。
「それは明らかなエラー(誤解)です!巨大な馬鈴薯(試作品種)の収穫量データが得られたのは、あのお方が入植されてから数ヶ月に及ぶ、徹底的な品種改良と栽培プロセスの最適化が行われた中長期的な結果に他なりません!タイムラインが完全に前後しています!」
「分かっておる。だが、外の無知なる民の脳内では、その終わりのない『品質改善』の歴史が、単なる一瞬の『奇跡』へと書き換えられておるのだ」
モレンは長椅子に深く腰掛け、深く溜息をついた。
「時間の経過とともに、出来事の『順序』が、人間の都合の良い物語の形へと歪められつつあるのだよ」
陽光が天頂へと昇りつめる頃、マコトが午前中の生産性レポートの最終監査結果を提出するために、会所へと足を運んだ。
「やあ、モレン村長。今週分の実験用圃場の実績データ(レポート)を持参したよ。確認をお願いするよ」
マコトは数枚の整然と数値が並ぶ羊皮紙を机の上に置いた。
「おお、これは助かります、大旦那様」
モレンが恭しくそれを受け取る間、マコトの視線は、部屋の隅で新しい頁に向き合っているレオンの手元へと向けられた。
「レオン、まだドキュメントの作成(写本)を続けているのだね。感心な心がけだ」
「はっ!大旦那様の御言葉を、後世へと正確に伝承するための実務にございます!」
マコトは満足げに小さく頷いた。
「素晴らしい姿勢だ。ただし、ドキュメント(記録)を運用するにあたって、最も厳格に管理せねばならない基本原則を一つ、伝えておこう。情報の記録において、何よりも重要なのは『順序』だよ」
レオンは動かしていた筆をぴたりと止め、息を呑んで身を正した。
「……順序、でございますか?」
「そうだ。もし、記録の過程において出来事の順序が入れ替わってしまえば、その背後にある論理的な『因果関係( sebab dan akibat )』が完全に破綻するからね。それは、後からデータを読む人間に、致命的な経営判断のエラー(誤解)を誘発させる原因になるんだよ。時系列の整合性は、データベースの基本だからね」
レオンはモレンと視線を交わし、二人は同時に激しい衝撃に身体を硬直させた。
(……何ということだ。大旦那様は、すべてを見抜いておられる。我らが今まさに、外の世界で起きつつある『歴史の歪み』を懸念していた、その瞬間に……!あのお方は、順序が狂えば因果の理が破綻するという、世界の根本的なバグ(崩壊)を、こうして事前に警告されているのだ……!)
彼らの脳内では、マコトの極めて初歩的な「帳簿記入の注意点」が、世界の因果律を護るための至高の神託へと華麗に変換されていた。
「具体的な事例を教えていただけますでしょうか、大旦那様」
レオンが震える声を絞り出すと、マコトはしばらく腕を組んで考え込み、至極単純な生産管理のプロセスを例に挙げた。
「例えば、ある帳簿に『収穫量が大幅に増加した。その後に、灌漑水路の修復工事を行った』と、順序を逆に記録してしまったとするね」
レオンは深く首をうなずかせた。
「はい、それは明らかな不備にございます」
「なぜ不備なのかと言えば、正しい因果関係は『事前に水路の修復工事を行い、水の流通プロセスを最適化した結果として、中長期的に収穫量が増加した』からだ。もしこの順序を逆にしてしまえば、後から読んだ人間は『何もしなくても収穫量は増える。増えた金で水路を直せばいい』という、致命的に誤ったプロセス(結論)を導き出してしまうだろう。順序の変更は、真実を完全に隠蔽する行為だよ。タイムラインの改ざんは、厳格に禁止せねばならない」
マコトはそう淡々と告げると、レオンの肩を軽く叩いた。
「決して出来事の順序を狂わせてはならないよ。期待しているよ」
「は、ははっ!このレオン、たとえこの身が滅びようとも、あのお方の歩まれた『真実の編年史』を、一分の狂いもなく護り抜くことを誓います!」
「いや、滅びる必要はないが……まあ、それほどの覚悟で整合性を保ってくれるなら安心だ。では、私は畑に戻るよ」
マコトは満足そうに微笑むと、そのまま会所を後にした。彼は、村の記録係が自らの提示する時系列の重要性を完全に理解し、厳格な監査体制を敷いてくれたことに、深い達成感を覚えていた。
その日の夕暮れ時、遥か遠方の集落の会所では、未だに終わりなき神学論争の嵐が吹き荒れていた。
「我らの調べによれば、豊穣の神はまず最初に、大地に絶対の象徴たる『聖なる石像』を建立され、その後にルナ村の民を従わせたのだ!」
「否!それは因果を誤っておる。神はまず最初に、天上の宮殿(神殿)を虚空から呼び出し、そこに民を集めてから最初の神託を垂れたのだ!」
「どちらも違う!神がまず最初に行われたのは……」
誰一人として、正しい答えを導き出せる者はいなかった。なぜなら、彼らの手元にあるのは、客観的な事実ではなく、何十人もの人間の口を経由して都合よく歪められ、順序の入れ替わった『奇跡の物語』の断片に過ぎなかったからだ。
時間の経過とともに、出来事のシーケンスは緩やかに、しかし決定的にその形状を変質させていく。
誰が意図したわけでもなく。
悪意をもった偽りが介在したわけでもない。
ただ、人間の無知と熱狂というフィルターを通ることで、かつてルナ村で行われた、マコトの泥臭く実務的な『業務改善の歴史』は、世界の創世を讃える絶対の神話体系へと、見事にペルソナを書き換えられていくのだった。
そんな大陸全土を揺るがす巨大な編年史の歪みなど、当の最高神マコトは、これっぽっちも知る由はなかった。
彼はその夜、ハンスの家の庭先に腰掛け、膝の上に開いた最新の生産性レポートの最終精査を終え、パタンと音を立てて板札を閉じた。
(……ふむ、今日も計画通りのデータ(実績)が得られたな。記録というものは、常に客観的な事実と時系列の整合性が保たれていなければ、実務の現場で使い物にならなくなるからね。まあ、しかし、今日でレオンたちの帳簿管理能力も完全に合格点に達したはずだ。これで我が村のデータベースにエラー(誤解)が混入するリスクは、未然に完全に排除できたはずだ。実に見事なリスク管理だよ)
マコトは、自らの徹底された合理的指導によって、全ての記録のエラーが跡形もなく消滅したと、100%の自信を持って確信していた。
何も知らない最高神マコトは、今日も初夏の美しい夜風を浴びながら、計画通りの『整合性の維持』が達成されたことに深い満足感を覚え、ただただ真っ直ぐに、愛する実務の平穏の中を歩み続けるのだった。
ルナ村の外の世界において、自らのあずかり知らぬところで、自らの歩んだただの『草むしりと水路補修の日々』が、無限の神学者たちの手によって、世界の因果律を巡る厳格なる『神聖編年史』へと完全に pelintir され……否、書き換えられ、熱狂的な大論争の火種に変貌していこうとしていることなど、彼はこれっぽっちも知らなかった。




