第70章 神話への境界
ルナ村の東に広がる開墾地が『聖なる圃場』と崇められ、会所の中で『神聖叙任階級』が確立されてからも、季節の歯車は冷徹な正確さをもって巡り続けていた。
それに伴い、最高神マコトの存在を巡る大陸全土の伝聞もまた、緩やかに、しかし決定的な変質を遂げつつあった。
かつて、街道を行き交う旅人たちが「私はルナ村の神に拝謁した」と誇らしげに語っていた言葉は、時を経て次のような形状へと書き換えられていた。
「私の祖父があのお方から直々に土の理を授かったのだ」
「我が一族の伯父が、かつて圃場での作業に従事していた」
「我が友の父が、あの『全否定の洗礼』の場に居合わせていた」
ルナ村からの地理的な距離が遠ざかるにつれ、マコトという一介の農夫の客観的な事実を知る者の数は著しく減少していった。しかし、それとは反比例するように、あのお方の本質を「理解している」と盲信する者の数は、爆発的な速度で膨れ上がっていた。現世の民はみな、自らの生きてきた背景というフィルターを通して、都合の良い神の幻影を創り出していたからだ。
ある夕暮れ時、山を越えた先にある小さな交易都市の片隅で、一人の老 pengelana……いや、旅の語り部が、暖炉の火を前にして数人の子供たちに囲まれていた。
「……お前たちは、あのルナ村の豊穣神について聞いたことがあるかい?」
子供たちは一斉に、その目を輝かせて深く首をうなずかせた。
「知ってる! あのお方は、人間の頭よりも大きなお芋を一晩で実らせるんだって!」
「あのお方が一度、土に御手を触れれば、枯れた大地から瞬く間に黄金の泉が湧き出るんだよね!」
語り部は、子供たちの熱狂的な言葉に苦笑を浮かべ、静かに首を横に振った。
「いや、それは少し尾ひれがつきすぎた噂話というものだよ」
「じゃあ、本当の神様はどんなお方なの?」
「あのお方はね、華美な宮殿に住まうこともなく、ただ民と同じ地平に立ち、土を耕すための正しい手順を説かれるのだ。文句一つ零さず、ただ静かに実務のプロセスを最適化される高潔な御方さ」
子供たちの一人が、不思議そうにその小さな首を傾げた。
「それじゃあ……あのお方は、本当の神様じゃないの?」
語り部はしばらくの間、パチパチと音を立てて爆ぜる(はぜる)暖炉の炎をじっと見つめ、やがて確固たる信仰の宿った目で穏やかに笑んだ。
「私のような者には皆目、見当がつかぬよ。だがね、世界中の民があのお方の示した『理』を信じ、救われている。それこそが、あのお方が神たる何よりの証ではないかね」
子供たちは、その答えに深く得心がいったように、満足げに何度も頷いた。彼らにとって、その一文は世界の不変の法則として、魂の奥底に刻み込まれるのに十分な重みを持っていた。
同じ時刻、当のルナ村では、マコトが貯蔵庫の屋根の上に立ち、前夜の強風によってわずかに変形した木製割板の補修作業に没頭していた。
彼は使い込まれた手鍬を腰の小袋に収め、玄能を手に取ると、緩んでいた木ネジを一本ずつ、正確なトルクで打ち直していった。本格的な雨季の連日降雨を前にして、屋根の気密性と防水性を維持する保守点検は、在庫である馬鈴薯の品質管理という観点からも、原価効率を担保するための最優先課題であった。
「ふむ、これで初期の設計強度が完全に復元されたな」
マコトは板札に最終の監査記録を書き留めると、満足げに小さく顎を引いた。
地面に直立し、灯火を掲げていた青年ハンスが、その手元を覗き込みながら、敬虔な声を響かせた。
「大旦那様、すべての修繕プロセスが完了いたしましたでしょうか」
「ああ、完璧に合理的だよ。屋根の微小な不具合を放置すれば、そこから浸入した雨水が中の中長期的な在庫を物理的に腐敗させる。初期段階での『修正』こそが、最大のリスク管理だからね。これで一安心だ」
マコトは梯子を伝ってゆっくりと地上へと降り立った。彼にとっては、この固定資産の延命処置は、日々のルーティンワークの一コマに過ぎず、村の外でどれほど巨大な神話の潮流が産声を上げようとも、目の前の屋根が雨漏りしないことの方が、実務の観点からは遥かに重要な事実であった。
陽光が天頂を過ぎた頃、会所から歩んできた青年レオンが、数通の真新しい羊皮紙の書簡を両手で恭しく捧げ持ちながら近づいてきた。
「大旦那様、マコト様。実務の最中に恐れ入ります。フロントオフィス(受付窓口)に、遠方の集落より大旦那様へ宛てた公的な事務書簡が数通、届いております」
「ん? 私個人への業務連絡かい? 手短に中身を聞こう」
レオンは書簡の巻物を開き、その一節を厳かに読み上げた。
「『至高なるマコト様。我らは貴方が写本を通じて示された土壌管理の手順を愚直に実行いたしました。結果として、我が村の収穫量のグラフはかつてない数値を示し、飢饉の絶望から救われました。この大いなる救済に対し、一同平伏して感謝を捧げます』……とのことです」
マコトは、自らが提唱する『農業マニュアル』が外部の現場においても正確に再現され、生産性の向上を達成したという客観的なデータ(実績)を耳にし、満足げに薄く笑みを浮かべた。
「ふむ、それは技術移転の成功事例として極めて喜ばしい報告だね。良い進捗だよ」
「返書はいかがいたしますか?」
「当然、発行するよ。実務のフィードバックは、関係維持の基本だからね。レオン、私の言う通りに記述しなさい」
マコトは羽根筆の先を整えるレオンに向けて、一切の虚飾を排した、冷徹なまでに実務的なアドバイスを口にした。
「『成果の達成を祝す(おめでとう)。引き続き、自らの足元の圃場を徹底的に観察しなさい。もし、中長期的な運用の過程で新たな不具合に直面したなら、迷うのを止め、その背後にある論理的な因果関係を特定して修正しなさい』……以上だ。送付の手続きを頼むよ」
レオンはその神託を一字一句、羊皮紙の余白へと克明に刻み込んでいった。マコトにとっては、単なる『定期的なトラブルシューティング命令』の発行に過ぎなかったが、レオンは「なんと慈悲深く、無欲な御言葉か……」と、その配慮の深さに独り胸を熱くするのだった。
それから数日後、その返書がはるばる山を越えた先にある不毛の集落へと届けられた時、村の全住民が広場へと集結し、奇跡の到来を待ち侘びていた。
老村長は震える手で羊皮紙の封を解き、至高の神託を朗々たる声で読み上げた。
「『成果の達成を祝す。引き続き、自らの足元の圃場を徹底的に観察しなさい。もし新たなエラーに直面したなら、原因を特定して修正しなさい』……」
そこには、現世の王侯貴族が好むような華美な賛辞も、信仰を強要するような甘い約束も、塵ほども記されてはいなかった。ただ、冷徹なまでの実務の継続を求める、混じり気のない正論の列があるのみだった。
しかし、その一切の虚飾を排した言葉の響きこそが、集まった群衆の胸の奥深くに、平伏したいほどの厳かさをもって染み渡っていった。一人の老農夫が、泥の上に膝を突き、涙を流しながら低く呟いた。
「……ああ、大いなる御方は、これほど遠く離れた我らの存在を、今なお忘れずに見守ってくださっているのだ」
「我らが怠惰に陥らぬよう、常に足元を見つめ、智慧を研ぎ澄ませと仰っているのだな。なんと広大な御心か……!」
誰もその決定に異を唱える者はいなかった。マコトが彼らの顔すらデータとして把握していないなどとは、誰一人として想像すらしていなかったのである。彼らの脳内では、そのドライな「業務フィードバック」が、魂の怠惰を戒める至高の律法へと美しく昇華されていた。
日を追うごとに、大陸全土に散らばる『馬鈴薯の書』の写本を巡る神話は、尾ひれをつけて増殖していった。
ある地では「神は決して馬車を用いず、すべての圃場を自らの足で歩んで清められる」と語られ、別の地では「神は民の労働が完了するまで、一切の食事を口にされない」と触れ回られ、さらに別の地では「あのお方は土壌に一指触れるだけで、その地が抱えるすべての病の因果を完璧に看破される」という記述が、競い合うようにして紡がれた。それらの断片的な噂は、人間の信仰という歪な鏡によって無限に屈折し、もはや客観的な事実との境界を完全に失いつつあった。
その日の夕暮れ時、会所の執務机で最新の収穫量レポートを精査していたモレンの前に、青年レオンが山のような新しい書簡の束を携えて歩み寄ってきた。
「モレン村長、他所の村々からの事務書簡が、またしてもこれほどの分量に達いたしました」
モレンは老眼鏡を外し、その羊皮紙の記述をしばらくの間、愛おしげに見つめていた。
「……レオンよ。お前は、この世界において、本当に大旦那様の本当のお姿を知る者が、一体どれほどいると思うかね」
レオンは手元の大冊『馬鈴薯の書』の堅い表紙をなぞりながら、少しだけ考え込んで首を横に振った。
「おそらく……我が村の住人を除けば、ほとんど存在しないでしょうね」
「そうだとも」
モレンは深く、重々しい声音で、格子窓の向こうの茜色の光を見つめた。
「外の民が崇め、議論を交わしているのは、あの大旦那様のご尊顔ではないのだよ。彼らが聞いているのは、他所の者の口を伝うごとに美しく書き換えられた、幻影の『大旦那様像』なのだ」
レオンもまた、窓の外の景色へと視線を向けた。
夕闇が迫る開墾地の片隅では、マコトが近所の子供たちを集め、歪んでいた木製の防護柵を修繕するための実技指導を行っていた。
あのお方の日常は、いついかなる時も変わらない。朝起きれば圃場へと向かい、実務の不具合を発見すれば手順を修正し、問われれば客観的な事実のみを答え、日が暮れれば我が家へと帰る。一切の私欲を排した、極めて平穏で実務的な日々。
しかし、その飾りのない素朴な佇まいこそが、外の世界の熱狂的なフィルターを通ることで、現世のあらゆる形式美を遥かに凌駕する「完璧なる神格」の証明として、人々の胸の内に定着していくのだった。モレンの放ったその言葉は、これから世界を包み込もうとしている、巨大な思想的混沌を完璧に予言していた。
その夜、ルナ村から数日の旅路を隔てた、一度もマコトがその足を運んだことのない不毛の集落の一角では、一人の母親が、暖炉の熾火を前にして、幼い息子の枕元で静かに物語を語り聞かせていた。
「……よくお聞き、我が息子よ。もしお前が、あの『馬鈴薯の書』に記された手順を愚直に守り、毎日正しく労働のプロセスを全うしたなら、いつかきっと、あのお方にお目通りを叶えることができるだろう」
少年は、毛布の中から目を輝かせて尋ねた。
「お母さん……あの豊穣の神様は、本当にこの世界においでになるの?」
母親は優しく微笑み、少年の髪を撫でまわした。
「ええ、間違いなくおいでになるわ。あのお方は、我らが目先の絶望に涙を流すのを止め、自らの足で立ち上がる智慧を授けてくださる、至高の光なのだからね」
少年は安心したようにその目を閉じ、幸福な計画の夢の中へと落ちていった。彼の瑞々しい(みずみずしい)脳内において、あの大旦那様は、もはや泥にまみれて手鍬を振るう一介の青年ではなく、いにしえの聖譚の中にのみ生きる、絶対的な秩序の象徴へと変貌を遂げていた。
富を求めるためでもなく。
権力を誇示するためでもなく。
ただ一人の御方の示した理を学び、世界の完璧なる秩序を構築せんとする、人間の制御不能なまでの熱狂。
誰が名付けたわけでもなく。
いかなる布告があったわけでもない。
しかし、最高神マコトのあずかり知らぬところで、その素朴な実務の言葉は、時を越え、国境を越え、現世のあらゆる不条理を打破する絶対の聖句――語り継がれる『神話』としての境界を、静かに跨いだ(またいだ)のである。
何も知らない最高神マコトは、今日も初夏の美しい星空の下、貯蔵庫の屋根の資産寿命が計画通りに更新されたことに深い満足感を覚え、ただただ真っ直ぐに、愛する実務の平穏の中を歩み続けるのだった。




