第7章 職務探索の不条理
貨幣を巡るバグ(問題)というものは、実に見通しの悪い特性を持っている。
それは、一個体がそのシステムの構造をどれほど完璧に理解しようとも、問題そのものが自動的に消滅するわけではないという点だ。
ボスはすでに貨幣という概念を精緻に把握していた。それが社会において果たす機能も理解していた。下位の知的生命体がなぜそのような不完全な等価交換媒体を必要としたのか、その開発理由すら完璧に紐解いていた。
しかし、それらすべての解析プロセスが終了した今なお、彼の衣服のポケットの中にある貨幣の数量データは「ゼロ」のままであった。
これはシステム設計の観点から見て、著しく不条理で、致命的な仕様バグではないかとボスは評価していた。理解度と所有量が連動していないというのは、実に非効率的だ。
「――で、だ」
案内役の年長の男――ハンツは、テーブルの上で太い腕を組み、真剣な眼差しを向けてきた。
「あんたには仕事が必要だ。そこまでは理解できたな、ボス」
ボスは小さく首を縦に振った。
「ふむ。現在の経済レギュレーションに適応するためには、対価を得るための実務タスク(仕事)が必要であるという指摘は、極めて論理的な帰結だね」
彼らは未だ宿屋のテーブルに就いたままであった。昼時のピークを過ぎ、大半の住民は自らのルーチンワークへと帰還していったが、数人の農民や猟師は未だに壁際や隅の席に留まり、彼らの対話を興味深そうに観察していた。
理由は単純で、この「ボス」と名乗る奇妙な青年が、時折人間の尺度を逸脱した不可解なセンテンスを平然と口にするからだ。
もっとも、案内役のハンツに至っては、その奇妙な言語パターンに対してほんの少しだけ耐性が適用されつつあるようだった。
「なら、あんた一体全体、具体的に何ができるんだい?」
ボスは、自らの保有スキルのインベントリ(目録)を検索した。
問い自体は極めてシンプルであったが、その等式を満たすべき回答の出力は、実務的には著しく複雑なレイヤーを含んでいた。なぜなら、過去数十億年の間、彼が執行してきた「主要業務」のほとんどは、この三次元空間の語彙では記述不可能な規模のものばかりだったからだ。
「私は、恒星を紡ぐことができる」
ハンツは即座に深い溜息を吐き、きつく目を閉じた。
「私は至って生真面目に、己の職務経歴を提示しているのだが」
「俺も、至って生真面目にあんたの世迷言に付き合ってるんだよ」
ボスは、ここにきてひとつの強固なシステム挙動を学習しつつあった。
彼が何一つ虚偽を含まない厳然たる事実を口にするたび、この世界の人間はそれを「質の高いジョーク」として処理し、大真面目なトーンで返すほど爆笑の燃料にしてしまうのだ。
実に見事な、かつ非論理的な認知エラー(誤解)であった。もし天界の事務室への回線が復旧したなら、人間の認知心理学に関する新たな実務調査報告書を一本作成できるレベルの、興味深いサンプルデータと言える。いつの日か、この世界線の外側へ帰還する機会があればの話だが。
「……じゃあ、百歩譲って、それ以外には?」
ハンツが諦め混じりに促す。
「私は、新たな生命の雛形を創生することができる」
「それ以外」
「私は、現実世界を規定する物理法則の数式を設計することができる」
ハンツは肺の底から重い溜息を吐き出した。
「……それ以外だ」
ボスは、有意な時間の中断を置いて沈黙した。
その質問は、想定以上に処理の難しいセグメントであった。なぜなら彼の本質的な権能の九割九分は世界の創造と管理に特化しており、そして現在、その強力な術式はすべてアクセス拒絶されているからだ。
彼はこの脆弱な肉体に残された、極小のリソースを精査した。
知識、経験、記憶。
残されているのは、それら非物質的なデータのみであった。
「私は、あらゆる事象の構造に関する膨大な知識を保有している」
数秒のデバッグののち、ボスはそう回答した。
「お、そいつは少しはマシな響きだな」
ハンツの表情に、かすかな緩和の兆しが見えた。
「じゃあ、畑仕事はできるか?」
「できない」
「園芸や薬草の栽培は?」
「できない」
「薪割りは?」
「できない」
「狩猟の技術は?」
「できない」
「裁縫や衣服の修繕は?」
「できない」
ハンツの顔面から、急速に生気が消失していくのが分かった。ボスはそのパラメータの変化を興味深そうに観察していた。どうやら、この世界における「職務の探索」という実務タスクは、彼が事前に算出していたどのシミュレーションよりも、難易度が高く設定されているらしい。
この世界線にはこれほど膨大な数の人間が群生しているのだから、統計学的な観点から見れば、一個体に見合った空きポストなど常に一定数存在するはずなのだが。
「あんた、逆に何ならできるんだよ……」
ハンツが頭を抱えて呻く。ボスはさらに思考の深度を下げ、自らのデータベースから最も実用的と思われるセグメントを抽出して、実直に回答した。
「私は、銀河系の形成プロセスについて完璧な解説を執行できる」
ハンツは天を仰いだ。
「同時に、過去に創生された三万七千種の生命体における、進化の分岐木についても網羅的な解説が可能だ」
ハンツは硬直したまま、微動だにせず天井を見つめ続けていた。
「さらに、個体の精神格が死後、どのような術式経路を経て輪廻の間へと還流していくか、その循環システムについても詳細なレポートを作成できる」
「――俺の負けだ」
ボスはぱちくりと瞬きをした。
この知的生命体の降伏は、彼の予想よりも遥かに早いタイミングで実行されたようだった。
その不毛な問答のただ中、カウンターの奥で彼らの決済交渉を静観していた宿の女将が、エプロンで手を拭きながら不意に口を挟んできた。
「ねえ、ハンツ。そのボスとかいうお兄さん、文字の読み書きはできるのかい?」
ハンツは弾かれたように顔を巡らせた。
「……あ、そうか。その手があったな」
二人の住民の視線が、同時にボスへと収束する。ボスもまた、その無機質な双眸で彼らの視線を見返した。
「何かな?」
「あんた、文字が読めるか?」
「当然だね」
「書くことはできるか?」
「当然だね」
女将はわずかに目を見開き、驚きの情動を示した。
ボスの環境観測データによれば、この開拓村における居住民の識字率は著しく低く設定されている。したがって、言語の記号化とその解読(読み書き)というスキルは、このような辺境の農村部においては極めて希少価値の高い、高レイヤーの技能として機能しているようだった。
「で、どこの言葉が使えるんだい?」
女将が問いかける。
ボスは数秒、思考を巡らせた。そしてその質問が、現在の状況においていささか返答の難しい構造を持っていることに気付いた。
なぜなら本来の彼は、発した意思が全生命体の精神格へと自動的に翻訳される「普遍言語」を行使していたからだ。現在、そのシステムへのパスワードは喪失している。
にもかかわらず、なぜ自分がこの村の住民の言語を完璧に受容し、発話できているのか。おそらくは、あの粗雑な自動輪廻システムが強制実行された際、肉体側の仕様として初期設定された環境言語の残滓によるものと推測された。
「君たちが現在、コミュニケーションに使用しているこの言語だよ」
ボスはデバッグ結果をそのまま口にした。
「そんなのは質問の答えになってないよ」
「いや、対象の環境に完全に最適化されているという意味において、これ以上ないほど正確な回答のはずだが」
女将はそれ以上の論理的追求を放棄することにした。今日の短い実務経験から、この奇妙な青年に対してそれ以上の詳細な説明(仕様書)を求めると、状況のログが泥沼化するだけで終わるという法則を学習していたからだ。
ハンツは日に焼けた顎を再び乱暴に擦りむいた。
やがて彼の瞳の奥に、ひとつの論理的な閃き(インスピレーション)が灯る。
「……おい、一箇所だけ、心当たりがあるぞ」
「ふむ?」
「この小さな村にゃ、まともな仕事なんて滅多に転がってねえ。だがな」
男は声を落とし、どこか我が意を得たりといった風に首を振った。
「時々、村長の爺さんが、収穫物の数量を台帳に記録したり、税の計算をしたりする実務の助手を血眼になって探してるんだ。あのご老体、最近は目が霞んで文字がろくに読めねえって零してたからな」
――実務。
この異世界線に墜落して以来初めて、ボスの脳細胞が「実務」という極めて耳馴染みのある文字列を検出した。
事務処理、台帳管理、データの入力。
それらはすべて、彼が完璧に把握し、実行し、そして天界において最も多くのリソースを割いてきた、他ならぬ「彼の領域」そのものであった。もっとも、天界における彼の事務処理経験の大半は、部下のセリアから投げつけられる膨大な月次報告書の山に埋もれるという、被害者としてのログが多数を占めていたわけだが。
「それならば、私が執行する実務として極めて適切だね。完璧な処理を約束しよう」
ボスは即座に回答した。
ハンツはなおも疑わしそうな視線を向けてくる。
「本当かよ? あんた、本当にそんな細かい計算ができるのか?」
「当然だ。私は過去数十億年にわたり、全マルチバースの運行に関する膨大な実務管理を統括してきた経験があるからね」
一瞬の、不気味なほどの静寂。
直後、宿の女将が堰を切ったように笑い出し、ハンツもまた腹を抱えてテーブルに突っ伏した。壁際の農民たちからも、本日最大級の爆笑の突風が吹き荒れる。
ボスは短く、静かに溜息を吐き出した。
ああ、なるほど。やはり、このルーチンか。
もはや、この認知エラーの発生自体を仕様として受け入れることに、彼の精神は何の抵抗も示さなかった。
しかしボスは、その爆笑のノイズを完全に無視しながら、自らの前途にひとつの肯定的なステータス(機会)が浮上したことを、冷静に認識していた。
仕事。
規模は極小。不確定要素も多数。
しかし、この資産ゼロの現実から這い上がるための、記念すべき最初の「初期タスク」であることに相違ない。
彼が知る由もなかったが、この事務職の助手というささやかな第一歩が、やがてこの世界全体の統治システムと歴史のシナリオを、完璧な論理のすれ違いによって根底から崩壊させていく――。
その誤解の巨大な歯車が、いま、静かに、そして確実な音を立てて回転を始めたのだった。




