第6章 資産ゼロの現実
胃袋が満たされた直後、ボスはひとつの厳然たる事実に直面していた。それは、先ほどの空腹などよりも遥かに大局的で、実務的に巨大な問題の存在であった。
空腹という感覚は、それ自体が強烈なバグ報告(警告)として脳内のリソースをほぼ完全に占有していたため、これまでは他のシステムエラーを覆い隠す役割を果たしていたのだ。
しかし今、有機物の補給が完了してシステムが正常値に戻ったことで、彼の思考プロセスは本来の稼働率を回復していた。そして正常に稼働を始めた論理回路は、即座に目の前にある極めて不愉快な「現実」のデータを検出したのである。
すなわち、自分は現在、完全なる不保持の状態にある。
貨幣:ゼロ。
住居:ゼロ。
身分証明:ゼロ。
職歴(この世界における):ゼロ。
帰還手段:ゼロ。
深刻度の順位を設定するならば、最後の「帰還手段の喪失」こそがマルチバース規模の最優先処理事項であることは明白だった。しかし不条理なことに、眼前にいるこの世界の住民たちは、宇宙の因果律の崩壊よりも、手元にある「銅貨三枚」という極小の物理的損失の方を遥かに重大なエラーとして認識しているようだった。
「つまり、あんたは本当に一文無しってことなんだね」
宿の女将が、検証のために同じ質問を数回繰り返す。
「持っていない」
ボスもまた、ログの正確性を維持するために同じ回答を繰り返した。
「金目のものも、何一つ持ってないと」
「持っていない」
「この村に、身寄りや知り合いがいるわけでもない」
「いない」
「行くべき目的地すら決まってないのかい?」
ボスは数秒、思考を巡らせた。
「私は、神界の管理事務室へ戻るという目的を持っている」
「そんなお伽話の場所、現在の地図のどこにも載ってないよ」
「ふむ。世界線の外側にあるからね。確かに、三次元の座標で示すのは不合理だ」
女将は大きな溜息を吐き出した。人間の知的生命体は、客観的な事実に対してしばしば「現実的ではない」という定型句を貼り、処理を拒絶する習性があるらしい。ボスはその挙動を静かにデータとして蓄積した。
周囲のテーブルからは、昼食を摂る住民たちの視線がなおも途切れなく注がれていた。
閉鎖的な村において外来者という個体はそれだけでノイズ(注目)となるが、それが「無一文のくせに創世神を自称する奇妙な青年」という属性を持っているとなれば、彼らにとっては極上のエンターテインメントに他ならない。
「で、結局その飯の代金はどうやって決済するんだい?」
一人の農民が、スープの椀を傾けながら声を上げた。
「あたしもそれを考えてるんだよ」
女将が忌々しそうに腕を組む。
ボスもまた、彼らの対話に加わるように深く思考を沈み込ませた。彼にとって、この経済取引の決着プロセスは極めて興味深い検証対象であった。なぜなら、数十億年の生存の歴史において、彼自身が「対価の未払い」という状況の当事者になったログなど、ただの一度として存在しなかったからだ。
価格という概念は、彼という存在がシステムを構築した遥か後になって、下位の被造物たちが勝手に生み出した二次的な仕様に過ぎない。しかし現在、その仕様が一個の強力な物理的障壁として、彼の前に立ちはだかっていた。
「銅貨三枚」という極小の金属片が、一個体の有機物摂取という根源的なタスクを停止させる力を持っている。その社会的なプログラミングの強度に対して、ボスは妙な感心を覚えていた。
「ふむ」
ボスは己の論理的帰結に納得し、静かに頷いた。
「今度はなんだい、ボスとやら」
女将が怪訝そうに眉を寄せる。
「貨幣制度について、少し考察をしていたのだ」
「考察?」
「極めて精緻で、興味深い社会システムだね」
女将は、この青年に質問したこと自体を後悔し始めたような、深い絶望の表情を浮かべた。しかしボスは構わずに、自らのデバッグ結果を淡々と継続した。
「これまでの私のルーチンワークにおいて、そのような物理媒体を介した等価交換を行う必要性は、微塵も発生しなかったからだ」
「あんたがその、創世神様だからかい?」
「その通りだ」
直後、宿屋の空間に再びクスクスという失笑の波が広がっていった。
ボスはもはや、この情動の表出を住民たちの自然な生理現象として受け入れることにしていた。呼吸をする、食物を摂取する、あるいは他者の発した真実を認知エラー(誤解)によって処理する。それらはすべて、この世界の生命体が持つ固有の仕様なのだ。
見かねたように、案内役の年長の男が腰の袋に手を伸ばした。
「まあ、いいさ。もう止めろよ、女将さん」
「で、代金はどうするんだい、ハンツ」
「俺が払うよ。締めて銅貨三枚だったな」
男は袋から数枚の鈍く光る金属片を取り出すと、無造作に木製のテーブルの上へと設置した。
ボスはその一連の物理的挙動を、一瞬の瞬きすら惜しむように注視していた。
女将はその金属片を手際よく回収し、自らのエプロンのポケットへと収納する。その瞬間、空間に張り詰めていた「未決済」というエラーログが、完全に消去された。驚くべき迅速さであった。
「……今、何が実行されたのかね?」
ボスが問いかける。
男は不思議そうに彼を見つめた。
「何って、あんたの代わりに飯代を決済ってやったんだよ」
「なぜ、君がそのタスクを代行する必要があるのだ?」
「あんたが自分で払えないからに決まってるだろ」
ボスは数秒の間、その因果関係を脳内で精緻に組み立て直した。そして、ひとつの法的な等式へと達した。
「なるほど。つまり私は現在、君に対して『債務』を負ったという解釈で相違ないね」
男は呆れたように笑い声を上げた。
「ハハ、まあ、そういうことになるな」
「ふむ」
ボスは納得し、首を縦に振った。
債務(借金)という概念の構造自体は、極めて単純明快で理解しやすかった。他者から利益の提供を受けた以上、同等の対価を将来的に返還せねばならない。極めて実直で、美的な論理に基づいたシステムだ。
「通常、人間という種族は、どの程度の時間的猶予を以てその債務を履行するのが一般的かね?」
男は面倒そうに肩をすくめた。
「さあな、相手と状況によるだろ。まあ、出世払いってことでいいさ」
「なるほど、不確定要素を含む流動的なプログラミングというわけだね。理解した」
ボスは実際には全く理解していなかったが、この実務的な詳細検証は後回しにすることにした。今の彼には、それよりも観察すべき対象が目の前に存在していたからだ。
貨幣。
男の手のひらには、まだ数枚の銅貨が残されていた。ボスはそれを精密機械のように観察した。
形状:極小の円盤。
材質:卑金属。
本質:集団内の合意に基づく、記号化された価値。
物自体の物理的な価値は皆無に等しいというのに、この集落の全個体がその「価値の存在」を無条件に肯定し、それに従って自らの労働力を差し出している。なぜなら、全員が「これは価値があるものだ」と盲目的に信用しているからだ。
無から有を生み出す創世の権能にも似た、一種の精神的な魔術。実に見事な、かつ奇妙な概念設計であった。
「これが、貨幣というものか」
ボスが小さく呟く。
男はぱちくりと瞬きをした。
「あんた、本当に金を一度も使ったことがないのか?」
「観測したことは何度もある。しかし、自らそれを行使したログはない」
「そりゃまた、随分と浮世離れした生活をしてやがったんだな」
男は深い溜息を吐き出した。どういうわけか、この青年と言葉を交わすたびに、自らの精神的スタミナが急速に磨り減っていくのを感じていた。
そんな案内人の疲弊を他所に、ボスはなおも銅貨のデータを精査し続けていた。
この物体には、物理的な破壊力はない。マナの残滓もない。しかし、村全体の物流を完全に支配している。
「人間の世界におけるすべての事象は、このような共同幻想(合意形成)によって稼働しているのかね?」
「あんた、さっきから何をごちゃごちゃ難しいことを言ってるんだ。金は金だろ」
「価値が存在すると全員が合意しているからこそ、そこに価値が発生する。構造としては、私の布いた信仰による神術の回路に近いね」
男は自らの頭を乱暴に掻きむしった。
「あーもう、あんたの理屈はいちいち頭が痛くなる! とにかくそれがこの世のルールなんだよ!」
「ふむ」
ボスは頷いた。彼は今、この世界線における極めて重大な基本法則を学習した。
彼は視線を転じ、男の腰にぶら下がっている革製の袋(財布)を見た。
次に、自らの腰にある、何も入っていない空虚な衣服の隙間を見た。
そして再び、男の財布へと視線を戻す。
全てのデータを照合した結果、最高神は極めて簡潔で、これ以上ないほど実直な等式へと行き着いた。
「私は、貨幣を所持していない」
「ああ、知ってるよ」
「私は、完全に、徹底的に、一文無しだ」
「さっきからそう言ってるだろ」
「これは、実務上の重大なバグ(問題)だね」
「気付くのが遅ぇよ!」
この異世界に墜ちて以来初めて、ボスは「自らが創世神であることを誠実に説明する」という最強のバグ修正(解決策)が、全く通用しない特異な事象に対面していた。
なぜなら、仮にこの世界の住民が彼の言葉を百パーセント信用したところで――彼の衣服のポケットの中に、銅貨三枚が自動生成されるわけではないからだ。
経済という厳然たる物理法則の前に、最高神は自らの仕様がいかにこの世界に適応していないかという不条理を、静かに噛み締めていたのだった。




