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『異世界に飛ばされた神だけど、誰も俺が神だと信じてくれない』  作者:
第一部 芋の神の生誕

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第5章 誰一人として信じない

 その爆笑の余波は、驚くほど長期間にわたって宿屋の空間を支配し続けた。

 それはボスが事前に算出していた減衰予測を、遥かに上回る持続時間であった。

 一人の農民は未だに目尻の涙を拭うことすらできず、隣の男は呼吸を整えようと必死に己の胸を叩き続けている。先ほどまでプロフェッショナルとしての冷徹な態度を維持しようと努めていた宿の女将でさえ、ついに堪えきれず、エプロンの端で口元を隠しながらクスクスと喉を鳴らしていた。

 ボスはただ、その喧騒が収まるのを生真面目な沈黙を保ったまま待ち続けた。

 彼らがこの一連の感情表出を完了するまでに、まだしばらくの時間を要すると判断したからだ。

 彼にはやはり、この状況のどこに笑いのトリガーが存在するのか、その論理的な構造が全く理解できなかった。しかし、人間という生命体は、往々にして彼の全知のデータベースを超越した不可解な行動を選択するものだ。今日という短い一日のログを見るだけでも、その物証はすでに十分に積み上がっていた。


 やがて、ようやく場に静寂が戻ってきた。

 少なくとも、言語による対話が成立する程度には、空間のノイズレベルが低下した。

 宿の女将は深く溜息を吐き出し、乱れた息を整えた。

「――よし、分かったよ」

 ボスは小さく首を縦に振った。

「ふむ」

「あんた、本当に一文無しなんだね?」

「持っていない」

「本当に?」

「本当にだ」

「銅貨一枚、いや、その破片すら持ってないと?」

「持っていない」


女将は腕を組んだまま、値踏みするような視線でボスの顔をじっと凝視した。ボスもまた、その無機質な双眸で彼女の視線を受け流す。

 彼には、罪悪感や羞恥心といった世俗的な情動を抱く理由が微塵もなかった。

 貨幣を所持していない。それは単なる現在の客観的な「状態」であり、事実だ。事実を提示することに対して、システム上のエラーは発生しない。問題の構造は、極めてシンプルであった。

 見かねたように、草原から彼を先導してきた日に焼けた年長の男が、困った風に自らの頭を掻きむしった。

「だとしたら、あんた一体全体、どうやってこの村まで流れてきたんだ?」

「私は、自動輪廻システムによって強制的に転生させられたのだ」

「……はあ?」

 男はぽかんと口を開けたのち、またしても愉快そうに破顔した。

 それを合図に、周囲のテーブルからも新たな失笑が漏れ聞こえてくる。ボスは、この世界の知的生命体は、著しく笑いの閾値が低く設定されているのではないかと疑い始めていた。


「私は至って生真面目に、客観的事実を述べているのだが」

「ハハハ! そこがいいんだよ、あんた! その真面目くさった顔で言うから傑作なんだ!」

 ボスは静かに口を閉ざした。

 その返答は、状況のログを整理する上で全く役に立たなかった。


 宿の女将は自らのこめかみを指先で揉みほぐしながら、仕切り直すように声を張った。

「分かった。いいかい、もう一度最初から確認していくよ?」

 ボスの論理的な見解によれば、彼らはすでにこの不毛な初期化プロセスを複数回繰り返しているはずであった。しかし、実務的な確認作業に付き合うこと自体はやぶさかではない。彼は静かに次の質問を待った。

「あんたの出身はどこだい?」

「神界だ」

「その大層な教会の名前じゃなくて、土地の名前を聞いてるんだよ」

「それが、その質問に対する最も正確な座標(答え)なのだが」

 再び、宿屋の中にクスクスという笑い声が伝播していく。

 ボスは周囲の農民たちへと視線を転じた。彼らは常にこのような高頻度で情動を発散する個体群なのか、あるいは今日という日付の気象パラメータが彼らに異常な興奮をもたらしているのか、真剣に検証すべき事案だと思われた。


 女将は諦めたように肩を落とした。

「はあ……もういいよ。じゃあ、名前は?」

 この世界に墜ちて以来初めて、ボスはその問いに対して、有意な時間の中断(マを置くこと)を発生させた。

 その質問は、見かけのシンプルさに対して、実務的には著しく処理の難しいセグメントを含んでいたからだ。

 そもそも、彼が他者から固有の名称を問われるなど、悠久の時を遡らねば記憶にない。天界の全職員は、彼の本質をただ一言、深い諦念と畏怖を込めて「ボス」とだけ呼称していたからだ。

 彼は自らのデータベースを参照した。当然ながら、創世の黎明に自らが定めた固有の識別符号は記憶している。

 しかし、その名称はこの宇宙に存在する大半の銀河系や星系が形成される遥か以前に編まれたものであり、現在のこのような世俗的なスープの決済交渉の場で使用するには、著しく質量が大きすぎた。

 長すぎ、古すぎ、そして何より、これ以上の実務的なバグ(誤解)を誘発する可能性が極めて高かった。

 ゆえに、彼は現在のシステムにおいて最もエラーの少ない、簡潔な識別符号を選択した。

「ボスだ」


 女将はぱちくりと瞬きをした。

「ボス?」

「ああ、私の周囲にいる者たちは、皆そう私を呼んでいた」

「……誰がだい?」

「すべての者がだ」

 論理的には、天界の全職員を指しているため、何一つ虚偽は含まれていない。

 女将は釈然としない表情のまま、手元の粗末な紙切れにその文字列を書き留めた。

「分かったよ。じゃあ、『ボス』だね」

 ボスは小さく首を縦に振った。

 少なくとも、個体の識別に関する実務タスクはこれで一つ完了した。一時的な措置ではあるが。


「それで、ボス」

 女将は豊満な胸の前で腕を組み、冷ややかな視線を戻した。

「金がないのは分かった。じゃあ、あんたが今さっき胃袋に収めたその飯の代金は、一体誰が払うんだい?」

 ボスはその問いについて、論理的な検証を行った。

 極めて合理的で、反論の余地のない実務的な指摘であった。しかし、その等式を満たすべき解が、彼の脳内には存在しなかった。

 過去数十億年の歴史において、彼が「物理的な対価を支払って事象を獲得する」という商業取引を行う必要性は、ただの一度として発生しなかったからだ。経済システムという概念それ自体が、彼の日常的なルーチンワークからは遥か彼方の下位レイヤーに位置する仕様だった。

 彼は数秒の思案ののち、偽らざる事実をそのまま口にした。

「分からない」


 宿屋の空気が、再び不気味な静寂へと沈み込んだ。

 案内役の男はそっと目を閉じ、宿の女将は大きな溜息とともに自らの頭を押さえた。

 ボスは、人間という生命体に対して「純度の高い真実」を提示すると、なぜか一様にこのような奇妙なリアクションが発生するのだという相関関係を認識し始めていた。


「あんた、仕事は持ってるのかい?」

 女将が諦め混じりに問いかける。

「持っていない」

「じゃあ、何か特技だの、働けるスキルはあるのかい?」

 ボスは一瞬だけ思考を巡らせ、自らの最大出力を評価したのち、回答した。

「私は、全宇宙を創造することができる」


 その瞬間、斜め後ろの席から「ブッ」と激しくエールを吹き出す音が響き渡った。

 女将は天を仰ぎ、まるで虚空から「無限の忍耐力」という名の加護が降臨してくるのを祈るかのように、長い時間目を閉じていた。

「私は至って大真面目に、己の保有スキルを提示しているのだが」

「あたしも、大真面目に聞いてるんだよ」

 直後、宿屋の全テーブルを巻き込む、本日最大の爆笑の暴風が吹き荒れた。

 ボスは短く、静かに溜息を吐き出した。

 この世界線に漂着して以来、彼はひとつの確実なシステム挙動パターンを学習しつつあった。

 この「人間」という知的生命体は、高度に偽装された虚偽を「真実」として受容し、逆に一切の不純物を含まない純度百パーセントの真実を「質の高い洗練されたジョーク」として処理する傾向があるらしい。実に見当違いで、非論理的な認知特性バイアスであった。


 見かねたように、案内役の年長の男が重い腰を上げた。

「おいおい、もう勘弁してやってくれよ、女将さん」

 すべての者の視線が、その男へと集まる。男はボスをしばらくの間、憐れみの混ざった目で見つめたのち、首を振った。

「こいつが本当に一文無しなのは間違いねえよ」

「見ての通りさね」

 女将が忌々しそうに応じる。

「で、この様子じゃあ、このまま放り出したところで、次の街に着く前に野垂れ死ぬのがオチだ」

「それもそうだねえ」

 ボスは、彼らがなぜ自身の存在を完全に空気として扱い、目の前で三人称の決済交渉を進めているのか、その倫理的な理由は理解できなかった。しかし、敢えてそのプロセスに実務的な口挟みをする必要性も感じられなかったため、ただ静観することにした。人間という生命体は、どうやらこのような非効率な対話手順を好む習性があるようだ。


 年長の男が、再びボスへと向き直った。

「おい、ボス」

「なんだい?」

「あんたには仕事が必要だ。いいな?」

 ボスはその文字列を脳内で吟味した。

 仕事。

 彼が他者から「労働の実行」を命令されるなど、宇宙の創世以来、ただの一度として存在しない不条理であった。通常、すべての業務は彼の下位部署、あるいは被造物たちが彼のために自発的に執行するのが常だったからだ。もっとも、彼自身は誰かに対して明確な強制命令を下した記憶などほとんどないのだが。

「ふむ」

 彼は首を縦に振った。

「確かに、現在の経済システムに適応するためには、相応の対価を得るための実務タスク(仕事)が必要であるという指摘は、極めて論理的だね」

「おう、分かってくれりゃ早い。まともな返事が返ってきて安心したぜ」

 男は、ようやくこの妙な青年から常識的な合意が得られたのだと判断し、ホッとしたように胸を撫で下ろした。

 しかし不運なことに、天界の最高存在による論理構築というものは、常に現場の凡夫の予測を軽々と突破していくものである。その安堵の持続時間は、一秒にも満たなかった。


 ボスは至って生真面目な、実直そのもののトーンで言葉を継続したのだ。

「ならば、私はこれまでの『職務経歴』に見合った、適切なレイヤーの業務を探索することにしよう」

「ほう?」

 男は感心したように眉を上げた。

「へえ、まっとうな職歴があるのかい。そりゃあいいことだ。で、どれくらい働いてたんだ?」

 ボスは、偽らざる客観的な数値をそのまま提示した。

「およそ四十億年ほどだね」


 一瞬の、完璧な静寂。

 直後、宿屋の屋根瓦を物理的に吹き飛ばさんばかりの、本日最大級の爆笑の雷鳴が轟いた。

 農民の一人は椅子から転げ落ち、案内役の男は腹を抱えてテーブルに突っ伏していた。


 ボスは、ただ無表情のままその光景を静観していた。

 人間の肉体という脆弱な器を操縦し、この非論理的な生命体たちと実務交渉を行うという日常は、彼が事前に算出していたどのシミュレーションよりも、遥かに過酷で、磨り減るような「過労」を伴うものであるらしい――と、最高神は妙に冷めた思考で、自らの前途を見つめていたのだった。


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