第67章 司祭たちの誕生
ルナ村の民が畏敬を込めて『馬鈴薯の書』と呼び倣すその大冊を囲む『豊穣神の集い』が結成されてから、数週間の月日が流れていた。
始まりは、マコトが生産現場でお漏らしになった実務の言葉を書き留める、数人の若者によるささやかな集まりに過ぎなかった。しかし今や、羊皮紙の上に積み重ねられた知恵の記述は膨大な分量に達し、その至高の神託を一目拝まんと、遠方から押し寄せる参拝者の数は日を追うごとに膨れ上がっていた。
村の中央にある会所は、連日のように押し寄せる群衆の熱気によって、足の踏み場もないほどに狭まりつつあった。それは村の公的な会議のためではなく、ただ大冊の頁を自らの手で書き写さんとする、熱狂的な巡礼者たちの机の奪い合いによるものであった。
その朝、青年レオンが厳かに大冊を開いた瞬間には、すでに執務机の前で旅の埃に塗れた三人の男女が、羽根筆を握りしめて息を呑んでいた。
「……恐れながら、若き編纂者様。我らにも数頁ほど、神託の書き写しをお許しいただけないでしょうか」
レオンは彼らの熱意に理解を示し、穏やかな、しかし毅然とした笑みを浮かべた。
「構いませんよ。ですが、必ず一人ずつ規則正しく順番を守ってください。神聖なるインクを無駄に汚したり、頁を損なうようなことがあれば、大旦那様の実務主義に背くことになりますからね」
三人は弾かれたように何度も激しく頭を下げ、静かに順番を待ち始めた。
モレンはその光景を自らの長椅子からじっと見つめ、老髭の下の口元を硬く結んで、静かに重いため息をついた。
「……レオン、リナよ。これ以上、この無秩序な状態を放置しておくわけにはいかんな」
散乱する古い紙片を束ねていたリナが、老村長の険しい声音に顔を上げた。
「お父様、いかがなされたのですか?」
「村の外からやってくる者の数が、我らの処理能力の限界を超えつつあるのだ。もし、このまま誰もが自由にあの至高の大冊へ触れることを許していけば、いずれ不注意な者によって羊皮紙が破られ、神の直筆が不浄に汚される事態を招きかねん」
レオンもまた、手元の大冊を見つめながら深く頷いた。
「確かにモレン村長の仰る通りです。皆が細心の注意を払ってはおりますが、これほど頻繁に大冊が人の手を渡り歩けば、物理的な摩耗による劣化は避けられません」
モレンは机の角を老骨の指先でトントンと規則正しく叩いた。
「なれば、役割を分かつ(わかつ)のだ。専門の『管理者』が必要不可欠となる」
「管理者……でございますか?」
「そうだ。書物を厳重に護る(まもる)者、外からの参拝者を出迎える者、大旦那様が圃場で作業をされている際、その周囲に不敬な雑音を近づけぬよう遮る(さえぎる)者、そして投げかけられた実務の問いをあらかじめ精査して記録する者。それらの雑務をすべてレオン、お前一人が背負っていては、肝心の大旦那様の神託を書き留めるという本来の職務を全うする時間が、原価効率の観点からも損なわれてしまうからな」
レオンは少しだけ極まり悪そうに苦笑した。
「確かに……最近は対応に追われ、筆を進める時間が著しく減少しているのを感じておりました」
リナは手元の束を整然と机に置き、美しい瞳を輝かせた。
「要するに、業務の分担を明確にし、組織としての管理体制を構築せよ、ということですね」
モレンは満足げに深く首をうなずかせた。
「その通りだ。大旦那様の仰る『プロセスの最適化』を、今こそ我らの組織運営において実践せねばならん」
レオンはすぐさま一枚のまっさらな羊皮紙を引き寄せ、インク壺にペン先を浸した。
「分かりました。ただちに編組の表を作成いたします」
モレンは居並ぶ者たちを一人ずつ指し示しながら、冷厳な口調で命じていった。
「まずレオン。お前はこれまで通り、大旦那様の御言葉を直接写し取る唯一の『筆頭編纂者』として、その職務に専念せよ」
「はっ!命に代えましても、一文字の狂いもなく記述いたします!」
「次にリナ。お前はレオンが書き留めた記述を、客観的なデータとして二重に監査し、書き損じやプロセスの脱落がないかを厳格に点検する『点検官』を担え」
「承知いたしました、お父様。厳格なる監査を行いますわ」
「そして――」
モレンは、会所の壁際に直立していた、村の屈強な若い農夫たちへと鋭い眼光を向けた。
「お前たち『豊穣神の集い』の若者たちは、外からやってくる参拝者たちの受付と、大旦那様の周囲の警護を担当せよ」
若者たちは一瞬、驚きに顔を見合わせたが、すぐに居住まいを正した。
「我らが……大旦那様の盾となるのですか?」
「そうだ。大旦那様が神聖なる実務を行われている際、他所の無知なる群衆がその作業を妨げるような不敬は、何としても未然に防がねばならん。群衆から投げかけられた問いに対しては、お前たちが『馬鈴薯の書』に記された知識をもって代弁し、解決しなさい。もし、お前たちの智慧では到底答え得ぬ、深遠なるエラー(不具合)に直面した時のみ、大旦那様へ実務の裁定を仰ぐ(あおぐ)ために繋ぎ(つなぎ)なさい。分かったか」
「ははっ!畏まりました!」
若者たちは一斉に平伏した。彼らにとって、この役割の分担は、ただの事務手続きではなく、神の領域を護るための神聖なる「叙任」に他ならなかった。
同じ頃、北側の開墾地では、マコトが降雨によって緩んだ水路の擁壁を、木材を使って補強する日常業務に没頭していた。そこへ、数本の頑丈な杭を肩に担いだ青年ハンスが、足元に注意しながら近づいてきた。
「大旦那様、本日の巡回員からの報告によれば、村の境界を越えて貴方を探し求める他所の者の数が、さらに増加しているとのことです」
マコトは玄能を打ち込む手を止めることなく、淡々と頷いた。
「ふむ。情報が外部に露出し、技術移転を求める需要が拡大している証拠だね。実務の観点からも当然の傾向だよ」
「ですが、その者たちの大半は、農事の理を学ぶためではなく……ただ、大旦那様のお姿を一目拝み、神威に触れたいと口にしているようなのです」
マコトは作業の手を止め、怪訝そうに眉をひそめた。
「……それは著しく不効率な時間資源の浪費だね」
「不効率、でございますか?」
「ああ。交易を目的とするわけでもなく、具体的な栽培プロセスのエラーを解決しに来たわけでもない。ただ『眺める』という非生産的な行為のために、数日という莫大な移動コストを支払うなど、時間対効果の観点からも全く理解できないよ。彼らの時間も無駄になり、その対応によって私の実務時間まで奪われる。双方の生産性を阻害するだけの、まったく無価値なエラー(誤解)だよ」
ハンスは、その世界のすべてを秒単位の効率性で裁断する冷徹な神の論理に、「やはり、常人とは見据える先が違いますね」と敬虔な笑みを浮かべるだけだったが、マコトは「ただの基礎的な時間原価の計算だよ」と不思議そうに首を傾げるだけだった。
陽光が天頂を過ぎた頃、モレンが杖を突きながら、完成した編組の表を携えて北の圃場へとやってきた。
「大旦那様、マコト様。実務の最中に恐れ入ります」
「やあ、モレン村長。何か公的な事務手続きの要件かな?」
「はっ。実は、連日押し寄せる他所の視察者たちの対応について、我ら『豊穣神の集い』の内部において、役割の分担と管理体制の構築を行いましたので、その旨をご報告に参りました」
マコトは手鍬を傍らに置き、モレンが差し出した羊皮紙の記述へと目を落とした。そこには、レオンやリナ、そして若者たちの名前が、それぞれの担当業務とともに整然とリスト化されていた。
「……ふむ。レオンが記録に専念し、リナがデータの監査を行い、他のメンバーがフロントオフィス(受付)と、現場の動線管理(警備)を受け持つ、か。実に見事な組織設計だね」
モレンは、神の口から出た想定外の最高級の賛辞に、深く安堵して白髭を揺らした。
「……大旦那様のお目に叶いました(かないました)でしょうか」
「ああ、完璧に合理的だよ。一つの限られたタスク(業務)に対して、明確な役割分担を持たせずに全員が雑多に群がってしまえば、業務の重複や責任の曖昧化が生じ、全体の生産効率は著しく低下する。各員が自らの担当領域を明確にし、責任を持ってプロセスを運用する。これは組織マネジメントにおける基本中の基本だからね。素晴らしい改善だよ」
モレンは感極まったように、泥の上に深く、深く頭を垂れた。
「貴き御裁許、恐悦至極にございます!」
マコトは「なぜ組織の合理化手続きに対してこれほど激しく感謝されるのだろうか」と不思議に思ったが、技術伝承を行うための村の管理能力が向上したことは、中長期的なプロジェクトの観点からも喜ばしい事実であった。
「いや、お前たちが実務の本質を理解し、自発的に構造改革を行ってくれたのは嬉しいことだよ。その調子で運用の徹底をお願いするよ」
「ははっ!このモレン、老骨を砕き、その組織を護り抜くことを誓います!」
マコトは穏やかに微笑むと、再び水路の擁壁工事へと意識を戻した。彼にとっては、これは村の役場が臨時の「観光・技術視察対応窓口」を設置しただけの、極めて平凡な行政改革の一コマに過ぎなかった。
その日の夕刻、新しき役割分担に基づいた、組織の記念すべき最初の運用が開始された。
筆頭編纂者となったレオンは会所の奥に籠り(こもり)、静寂の中で羽根筆を滑らせ、点検官となったリナはその記述を厳格な目で監査する。そして、受付と警備を任された『豊穣神の集い』の若者たちは、村の境界や会所の前に直立し、押し寄せる巡礼者たちに対して、訓練された公務員の如き丁寧さで、しかし毅然とした口調で対応を始めた。
「大旦那様は現在、北の圃場にて重要なる実務を行われております。正しい栽培の手順を学びに来られた視察者の方は、こちらで順にお名前をご記入の上、お待ちください」
「ただ『姿を拝みたい』という目的の旅人の方々へ告げます。大旦那様の神聖なる作業の動線を妨げる行為は、一切認められません。境界線の外側から、静かにそのお姿を見守りなさい」
驚くべきことに、全大陸から集まった強欲な商人や気難しい巡礼者たちの誰一人として、その厳しい制止に対して怒りを露わにする者は存在しなかった。彼らは、その組織化された若者たちの背後に、最高神マコトの冷徹にして完璧なる『理』の統治を感じ取り、ただただ畏敬の念に満ちた眼差しで、静かに、深く首をうなずかせて従うのだった。
日没が近づき、会所の窓から差し込む茜色の光が机の上を照らす頃、モレンは改めて羊皮紙の編組表を見つめていた。
最上段には、誇らしげに『豊穣神の集い』という文字が刻まれ、その下に、それぞれの神聖なる役割を背負った民の名が整然と並んでいる。レオンがそのリストを横から覗き込み、しみじみとした口調で呟いた。
「……見事なものですね、モレン村長。なんだか、我が村の集まりが、ひとつの巨大な『組織』へと生まれ変わったかのような、そんな心地がいたします」
モレンは白髭の下の口元を緩め、愛おしげに大冊の堅い表紙を撫でまわした。
「ふむ。大旦那様の御心のままに、我らはただ正しく機能せねばならん。願わくば、この組織が、あのお方の実務の平穏を護るための、混じり気のない素朴な盾であり続けることを……」
会所内は、静かな、しかし確固たる誓いに満ちた静寂に包まれた。
しかし、その場にいる誰一人として気づいてはいなかった。
マコトの「生産効率の向上」という極めてドライな事務命令を完璧に再現しようとした結果――彼らが自発的に作り上げてしまったその美しい役割分担の構造が、他所の世界の住人たちの目には、いかなる国家の官僚機構よりも厳格で、いかなる軍隊よりも一糸乱れぬ、前代未聞の宗教組織の骨組みに映っているということを。
彼らがただの『実務の役割分担表』として作成したその羊皮紙は、数百年後の未来において、全大陸を統治する教団の頂点に君臨する「最高司祭」や「聖典監査官」といった、絶対的な特権階級の起源となる、恐るべき『神聖叙任階級制度』の第1頁として、熱狂的な崇拜の対象に変貌していくことを――。
そんな騒ぎが起きているとは夢にも思わない最高神マコトは、今日も初夏の爽やかな夜風を浴びながら、水路の擁壁の強度が計画通りに復元されたことに深い満足感を覚え、ただただ真っ直ぐに、愛する実務の平穏の中を歩み続けるのだった。




