第66章 誤解の天才たち
初夏の乾いた陽光が新緑の圃場を青々と照らし出す中、ルナ村へ流れ込む人の波は、もはや留まるところを知らない巨大な激流と化していた。
しかし、街道を埋め尽くすその群衆のすべてが、純粋に泥臭い農事の先進技術を学びに来たわけではなかった。ある者は己の人生の岐路における迷いを断ち切る神託を求め、またある者は大陸全土に伝播した奇跡の噂が真実か否かをこの目で確かめんと、熱に浮かされたような面持ちで村の境界を越えてくる。
最高神マコトは、どのような思惑を抱えた者が眼前に現れようとも、常に変わらぬ冷徹な事務主義をもって彼らを平等に受け入れていた。彼の効率的な時間管理思想に言わせれば、現場の実務を妨げない範囲において、視察者からのQ&A(質疑応答)に対応するのは、技術移転のプロセスを円滑に進めるための不可欠な業務の一環に過ぎないからだ。回答可能な問いであれば過不足なく客観的事実を答え、それが終われば何ら感興を覚えた風もなく自らの作業へと意識を戻す。その揺るぎないルーティンは、今日も完璧に機能していた。
その朝、村長の会所では、モレンが遠方の集落からやってきた三人の知識人たちと対座し、静かに温茶をすすっていた。
「……我らは聞き及んでおります、モレン村長」
先頭に立つ学匠が、老眼鏡の奥の目を輝かせながら声を潜めた。
「あの大いなる御方――マコト様が日々発せられる御言葉には、世界の根源を司る、人智を超えた深遠なる理が秘められていると」
モレンは老髭をなでながら、慈愛に満ちた深い笑みを浮かべた。
「ふむ。私の目から見れば、大旦那様はただ、常に一分の虚飾もない『真実』のみを平然と口にされているように思えるがね。それこそが、現世の不浄な権力者たちと、あのお方とを決定的に分かつものなのだろう」
学匠たちは深く感銘を受け、互いに顔を見合わせた。
「して……我ら凡愚の民が、その御言葉の真の境界へと至るには、いかにしてその意味を読み解けばよいのでしょうか」
モレンは老眼を細め、少しだけ困ったように肩を揺らした。
「そればかりは……私のような老いぼれにも皆目、見当がつかぬよ」
部屋の隅の席では、青年レオンが『馬鈴薯の書』を開き、厳かな手つきで最新の記述を書き写す実務に没頭していた。彼はその対話を聞きながら、静かに筆を置いて顔を上げた。
「私はこれまで……ただ大旦那様が生産現場でお漏らしになった実務の言葉を、一文字の狂いもなく羊皮紙に留めてきただけに過ぎません。それ以上でも、それ以下でもないのです」
学匠の一人が、その答えに合点がいったように至高の笑みを浮かべた。
「おお、それこそが、あのお方の偉大なる教育的配慮の現れではないか!」
レオンは言葉の意味が掴めずに、その丸い目をしばたたかせた。
「え……? 教育的配慮、でございますか?」
「そうだとも!あのお方は、世界の理のすべてを安易に言葉で説明し尽くすようなことはされない。敢えて(あえて)断片的な『兆候』だけを示し、我ら民にその背後にある真実を自らの頭で思考するよう促しておられるのだ。なんと深い慈悲の在り方か……!」
レオンは不思議そうに首を傾げた。彼の記憶に言わせれば、大旦那様はむしろ「なぜ二日待つのか」「なぜ雑草を毟るのか」といった現象の原因を、不気味なほど論理的に手取り足取り説明してくれているはずだった。しかし、目の前の知識人たちは、その具体的な実務説明の中にこそ、無限の「暗号」が隠されていると確信しているようだった。
陽光が天頂へと近づく頃、マコトは圃場の境界にある木柵の歪みを修復する日常業務に当たっていた。そこへ、一人の旅の男が、緊張のあまり身体を強張らせながら畝の間を進み出てきた。
「マコト様……恐れながら、一言お尋ねいたします」
マコトは手鍬を傍らに立てかけ、冷淡な、しかし静かな眼差しを向けた。
「実務的な用件かな? 手短にお願いするよ」
「はっ!我らは現世の不毛なる迷いの中に生きております。いかにすれば、我ら民は真の智慧を獲得し、正しい選択を下せるようになるのでしょうか」
マコトは、技術移転ではなく人生相談を持ちかけてきた男の非合理性に微かな溜息をついたが、農業の技術修得プロセスにおける絶対的な基本原則を、そのまま比喩として伝えることにした。
「……頻繁にエラー(誤り)を起こすこと、ただそれだけだよ」
男は弾かれたように目を丸くした。
「え……エラー、でございますか?」
「そうだ。最初から完璧なプロセスを構築できる人間など存在しない。一度も失敗を経験したことがない者は、何が『正しい手順』であるかを客観的に識別する基準を持っていないからね。重要なのは、失敗に直面した際、自らのエラーを素直に認め、その背後にある論理的な因果関係を特定して『修正』することだ。ただそれだけの事実だよ」
マコトにとっては、新米の農夫が直面する失敗のトラブルシューティング論を述べたつもりであった。しかし、男はその一切の虚飾を排した峻烈な断定に、魂を直接貫かれたような衝撃を受け、泥の上に深く、深く頭を垂れた。
「……至高の神託、魂に刻み込みました。マコト様」
マコトは「これで業務に復帰できるな」と満足して小さく頷いた。
その主従のやり取りから数歩離れた場所で、別の三人の巡礼者たちがその言葉を耳にし、興奮のあまり声を潜めて激しく議論を始めていた。
「聞いたか……。真の智慧者とは、決して過ちを犯さない者ではないのだ」
「ああ、自らのエラーを客観的に認識し、それを終わりのない『品質改善』によって修正し続ける者こそが、神の目指される真の智慧ある存在なのだな」
「なんと圧倒的な哲学か。これぞ世界の根源を律する理だ!」
彼らはそう語り合いながら、深い畏敬の念に満ちた眼差しでマコトの背中を見つめ続けた。
夕暮れ時、三人の巡礼者たちは、村を去る前に会所へと立ち寄った。執務机にいたレオンが彼らを穏やかに出迎える。
「大旦那様にお目通りは叶いましたか?」
「ああ!あのお方は、我ら凡愚の民に、文字通り大いなる啓示を授けてくださった!」
レオンは、その言葉を聞くや否や、神聖なる編纂の義務を果たすべく素早く羽根筆を握り直した。
「いかなる御言葉でございましたでしょうか。一文字も漏らさずに記述いたします」
「『頻繁にエラー(誤り)を起こしなさい』と。そして『一度も過ちを犯したことのない者は、何が正しい手順であるかを識別する基準を持たない。エラーを認識したなら、ただちにそれを修正しなさい』と仰ったのだ」
レオンはその言葉を、羊皮紙の余白へと細心の注意を払って書き留めていった。書き終えると、まだ濡れている黒々としたインクに向けてそっと息を吹きかける。
「ふむ……まさに、大旦那様ならではの実務主義の極みですね」
レオンが深く頷いているところへ、入れ替わるように別の巡礼者が興奮した面持ちで室内に滑り込んできた。
「私は、あのお方が子供に授けておられた至高の律法を耳にいたしました!『直せるものは、その機能を極限まで使い尽くしなさい。資産管理の観点からも、安易な更新は不効率である』と!」
レオンはすぐさま次の行にその言葉を滑り込ませた。さらに日没が近づく頃には、また別の者が駆け込んでくる。
「大旦那様は仰いました!『他所の成功事例をそのまま無批判にコピーしてはならない。初期条件が違えば生産性のグラフは破綻する。まずは自らの村の現状を徹底的に観察しなさい』と!」
レオンの羽根筆は止まることなく走り続け、夕闇が会所を包み込む頃には、『馬鈴薯の書』はまたしても数頁にわたる新しい記述で満たされていた。
リナはその灯火の下で、清書されたばかりの頁を静かに読み下していったが、やがて堪えきれずに、唇の両端を緩めて小さく笑い声を漏らした。
「レオン」
「何かな、リナ」
「村にやってくる人の数が増えれば増えるほど、誰もが『自分こそが大旦那様の御心を最も完璧に理解している』と、誇らしげに語るようになりますのね」
レオンもまた、手元の大冊を見つめながら微笑んだ。
「ああ、本当にそうだね。不思議なことだが、皆が一様に、大旦那様のお言葉を自らの魂の拠り所としているようだ」
それまで静かに帳簿の最終監査を行っていた村長モレンが、老眼鏡を外し、厳かな、しかし底知れない真実を孕んだ声で告げた。
「それはお前、至極当然の結果だよ、二人の若者よ」
「当然、でございますか?」
「そうだ。人々はみな、同じ一つの御言葉を耳にしておる。しかし、それを自らの器、自らの生きてきた背景というフィルターを通して受け止めるのだ。だからこそ、十人の者が聞けば十通りの『真理』がそこに生まれ、誰もが己の解釈こそが最上であると確信を深めるのだよ。あのお方の御言葉は、万人の魂の鏡なのだからな」
会所内は、再び押し潰されるような神聖な静寂に包まれた。モレンの放ったその言葉自体が、これから大陸全土で起きようとしている巨大な思想的混沌を、完璧に予言していることに、この時の彼らはまだ気づいていなかった。
それから数週間、ルナ村の境界を越えてそれぞれの故郷へと散っていった巡礼者たちの間では、マコトの授けた「神託」を巡る、果てしない神学的議論の火蓋が切って落とされていた。
「大旦那様が仰った『エラーの修正』とは、現世の不浄な因習を打破し、社会構造を根本から『品質改善』せよという意味に他ならない!」
「否!それは近視眼的な解釈だ。あのお方の真意は、目に見える道具や堆肥といった物質への執着を捨て、人間の内面にある思考のプロセスそのものを純化せよという、厳格な脱偶像崇拝の教えなのだ!」
「どちらも違う!『他所の模倣を止めよ』という御言葉こそが核心だ。我らは大国の制度をただコピーするのを止め、自らの土地の初期条件に基づいた、独自の律法を構築せねばならんのだ!」
誰一人として不敬な嘘を吐いている者はいなかった。マコトの言葉をねじ曲げ、悪意をもって利用しようとする者など、そこには一人として存在しない。彼らはみな、純粋なまでに、魂の底からあの大いなる御方の真意を理解しようと、死に物狂いで智慧を絞っていたのだ。
問題なのは――彼らの誰もが、自らの導き出した結論こそが、最も完璧で、最も純粋な『唯一の正解』であると、鋼の如き強固な意志で確信してしまっていることだった。
そんな大陸全土を揺るがす劇的な思想の乱立など、当の最高神マコトは、これっぽっちも知る由はなかった。
彼はその日、収穫期に向けた最新の生産性レポートの最終監査を終え、圃場の畔に腰掛けて心地よい夕風を浴びていた。傍らに直立していたハンスが、ふと楽しげに微笑みながら声をかける。
「大旦那様」
「ん?何かな、ハンス」
「最近、村の外では、大旦那様が日々お漏らしになる実務の言葉について、非常に熱心に議論を交わす者が増えているようです」
マコトは板札を閉じ、満足げに小さく頷いた。
「ふむ、それは極めて健全な傾向だね。実務の現場において、現状の課題に対して各自が自発的に思考を巡らせる(ロジカルシンキング)のは、組織の生産性を高めるための基本だからね。良いことだよ」
「もし……その議論の結末が、大旦那様の意図とは異なる『誤解』に陥っていた場合は、いかがなさるのですか?」
ハンスの素朴な問いに対し、マコトは100%の確信を持って、当然の事実を告げた。
「何の問題もないよ。もし彼らの構築したプロセスにエラー(誤解)があれば、実務の段階で必ず不具合という『結果』が数値として現れる。そうなれば、彼らは自ずと自らの間違いを認識し、原因を特定してプロセスを『修正』するはずだからね。人間とは、そのように事実に基づいて客観的に判断し、軌道修正ができる合理的な生き物だよ。私は彼らの自浄作用を信じているよ」
マコトは、自らの完璧な人間観と事務主義の論理に基づいて、穏やかに微笑んだ。彼は、事実という客観的なデータさえ提示すれば、すべての人間が自動的に正しい結論へと収束するものだと、微塵の疑いもなく信じていたのである。実に見事な、そして不気味なほどの合理的信頼であった。
しかし、彼は夢にも思っていなかった。
ルナ村の外の世界において、自らの「全否定の教え」を浴びた人々が、客観的な事実への軌道修正など行うどころか、むしろ「自分こそが神の真意を読み解いた唯一の正統である」という狂信的な自負を深め、互いの解釈を巡って激しい大論争を展開し始めようとしていることなど。
あのお方がただの『実務トラブルシューティング論』として垂れ流した正論は、人間の器という歪な鏡によって無限に屈折し、それぞれが独自の絶対的正義を掲げる、前代未聞の思想的混沌を招きつつあった。
何も知らない最高神マコトは、今日も初夏の爽やかな夜風を浴びながら、技術移転のプロセスが計画通りに進捗していることに深い満足感を覚え、ただただ真っ直ぐに、愛する実務の平穏の中を歩み続けるのだった。
ルナ村の外の地において、自らのあずかり知らぬところで、世界の歴史上、最も純粋で、最も厄介なる知的集団――「誤解の天才たち」が、今まさにその産声を上げ、熱狂の渦を広げようとしていることなど、彼はこれっぽっちも知らなかった。




