第68章 加速する盲信
ルナ村の東に広がる開墾地が『聖なる圃場』と呼び崇められ、会所の中に『神聖叙任階級』の骨組みが構築されてからも、村へ流れ込む参拝者の波は日を追うごとにその密度を増していった。
今や、朝霧がまだ街道を白く包む時刻から、他所の衣服を纏った群衆が会所の前に整然と列をなし、静かに開門の時を待ち侘びている。彼らは周辺の集落からはるばる数日を費やして歩んできた者たちであり、その目的は一様に、最高神マコトの垂れる神託を耳にすることにあった。
だからこそ、村長モレンが先んじて断行した『役割の分担』は、この未だかつてない群衆の処理において、恐るべき業務効率を発揮し始めていた。他所の民は、もはや無秩序にマコトの姿を求めて圃場を荒らすような真似はせず、まずはフロントオフィス(受付窓口)となった若者たちを通じて、厳格な統制のもとに管理されていた。
筆頭編纂者となったレオンが彼らの投げかける実務の問いを正確に板札へ記録し、点検官となったリナが『馬鈴薯の書』の既存データと照合する。そして、現場の動線管理(警備)を任された若者たちが、マコトの作業スケジュールに不具合が生じないタイミングを見計らい、数人ずつを静かに圃場へと案内していく。
マコトは、この徹底されたフロントオフィスの運用状況を横から見つめ、自らの時間管理思想が完璧に再現されていることに、深い満足感を覚えていた。
(ふむ、受付窓口と現場の動線管理がこれほど機能していれば、実務外の対応による時間資源の浪費を最小限に抑えることができるな。素晴らしい組織マネジメントの成果だ)
その朝、マコトは北の貯蔵庫の前に立ち、前日に切断を終えた馬鈴薯の種芋の乾燥状態を検分する日常実務に没頭していた。彼は籠の中から一塊の種芋を拾い上げ、その切断面を親指の腹で軽く撫でまわした。水分が完全に抜けきっておらず、未だ生々しい粘り気が残っているその様を確認し、彼は何ら感興を覚えた風もなく、それを再び籠へと戻した。
「……未だ、基準値に達していないな」
傍らで灯火を掲げ、板札に記録を書き留めていた青年ハンスが、その呟きにすぐさま身を乗り出した。
「大旦那様、何が未だ達していないのでしょうか」
「切り口の細胞組織の乾燥度合いのことだよ。昨晩の湿度の変化を勘案すれば、水分が十分に蒸発し、保護膜(コルク層)が形成されるまでに、あと丸一日の時間が必要だ。もしこの状態で定植プロセスを強行してしまえば、土中の嫌気性微生物が傷口から侵入し、発芽率の数値を著しく低下させる要因になるからね」
ハンスは、その一切の曖昧さを排した科学的な因果関係の説明に深く首をうなずかせた。
「畏まりました。なれば、植え付けは明日まで延期いたします」
「ああ、それが正しい納期管理だよ」
その主従のやり取りから、十歩ほど離れた畝の境界線に、受付の若者に案内された数人の参拝者たちが、息を潜めて直立していた。彼らは、あの大いなる御方が、ただ一つの芋の乾燥具合をこれほど厳かに検分し、一刻の猶予も許さぬように判断を下していく姿を、畏敬の念に満ちた眼差しで凝視していた。
「……御覧なさい。あのお方は、決していささかも焦るような真似はされない」
一人の若い巡礼者が、震える声で隣の男に囁いた。
「ああ。たった一日、定植を遅らせるというその決断の裏に、どれほど深遠なる世界の理が隠されているか。我ら凡夫には想像もつかん」
初老の男が、涙ぐむように深く首をうなずかせた。
「我らにとっては、たった一日の遅れに過ぎん。だが、あの全知全能なる御方にとっては、この地のすべての生命の循環を完璧に制御するための、絶対の『周期』なのだ。なんと恐るべき配慮、なんと高潔な佇まいか……」
彼らの脳内では、マコトのただの『定植日のトラブルシューティング(栽培管理)』が、天候と大地の調和を司る神聖なる時間制御の儀礼に昇華されていた。マコトの語る実務的な論理は、彼らの硬直した信仰のフィルターを通ることで、完璧な神の配慮として解釈されるのだった。
陽光が天頂を過ぎた頃、午前中の日常業務を終えたマコトは、圃場の境界にある大樹の木陰へと腰を下ろした。その隙を見計らい、レオンが板札を携えて恭しく近づいてきた。
「大旦那様、マコト様。本日の視察者の中に、どうしても実務の裁定を仰ぎたき者が数名、窓口にてお待ちしております。お時間を少々よろしいでしょうか」
「ああ、構わないよ。実務のQ&A(質疑応答)だね。進めなさい」
案内された一人の男が、泥の上に深く平伏し、声を震わせながら問いを投げかけた。
「大旦那様……マコト様。我らは現世の不条理なる荒波の中に生きております。もし、我らが最善を尽くしたプロセスにおいて、なおも『失敗』に直面したならば、我らはいかにしてその絶望を乗り越えればよいのでしょうか」
マコトは、またしても農業技術ではなく人生観に関する非合理的な問いを投げかけられたことに、微かな疲労感を覚えたが、農業の品質管理における絶対的な基本原則を、そのまま明快に答えた。
「原因の特定を、徹底的に行いなさい。ただそれだけだよ」
男は弾かれたように顔を上げた。
「原因の……特定、でございますか?」
「そうだ。結果としてエラーが発生したということは、その前段階のプロセスに、必ず論理的な阻害要因が隠されている。まずはそれを特定しなさい」
「もし……その原因を修正しても、なおも失敗した場合は?」
「再び、別の原因を特定しなさい」
「それでも、何度繰り返しても破滅に直面したならば……?」
マコトは羽根筆の先を整えながら、至極当然の事実を告げた。
「それは、未だ検知されていない別のエラー(バグ)が、システムの根底に潜在しているという明確な証拠に他ならないよ。すべての不具合には、必ずそれを引き起こす論理的な因果関係が存在する。それを見落としているお前たちの監査能力の不足が問題なのであって、世界の法則に不条理など塵ほどもないのだからね。迷うのを止め、データの精査に戻りなさい」
男は、その一切の同情を排した、しかし冷徹なまでの絶対的な正論の楔に、平伏したいほどの衝撃を受け、何度も頭を地面に打ち付けた。
「……世界の法則に、不条理などない。すべては、我らの智慧の不足……!神託、魂に刻み込みました!」
マコトにとっては、単なる『根本原因分析(RCA)』の手順を述べたつもりであった。しかし、男はその言葉の裏にある「世界の完璧な秩序」を確信し、涙を流しながら去っていった。マコトは「これで実務に戻れるな」と満足して薄く笑みを浮かべるのだった。
その日の夜、ルナ村の小さな旅籠では、他所の村からやってきた巡礼者たちが灯火を囲み、昼間の対話を幾度も反芻しながら、激しい議論を展開していた。
「……聞いたか。大旦那様は仰った。『失敗したなら、原因を特定せよ』と」
「ああ、それはつまり、我らが人生において直面するあらゆる苦難は、神の気まぐれによる怒りなどではなく、すべて我ら自身の内面にある『歪み』が引き起こした結果なのだという意味に他ならない!」
「否!あのお方の真意はそこではない。『世界の法則に、不条理などない』という御言葉こそが核心だ。あのお方は、世界のすべてを完璧な秩序をもって統治されており、我らが絶望するのは、ただその神聖なる大いなる計画を理解できぬ無知ゆえなのだ!」
「どちらも違う!あのお方は『迷うのを止め、データの精査に戻れ』と仰った。これは、目先の絶望に涙を流す時間を捨て、愚直に神の示された律法を学び続けよという、不屈の精神修養の命令なのだ!」
誰一人として不敬な嘘を吐いている者はいなかった。マコトの言葉をねじ曲げ、悪意をもって利用しようとする者など、そこには一人として存在しない。彼らはみな、魂の底からあの大いなる御方の真意を理解しようと、死に物狂いで自らの器というフィルターを通して解釈を深めていたのだ。
問題なのは――彼らが各自の導き出した結論に対して、一分の疑念も抱かず、「これこそが唯一の正統なる理解である」と、熱狂的な自負を深めてしまっていることだった。マコトの語る極めてドライな「業務改善命令」は、人間の歪な鏡によって無限に屈折し、それぞれが独自の絶対的正義を掲げる、前代未聞の思想的混沌を招きつつあった。
同じ頃、村の会所では、青年レオンが昼間の実務Q&Aの記録を、大冊『馬鈴薯の書』の余白へと克明に書き写す実務に没頭していた。
リナはその清書されたばかりの一行を厳格な目で点検していたが、ふと指先を止め、小さく溜息をついた。
「レオン……最近、村の境界の外で起きている変化に、気づいていますか?」
「変化、と言いますと?」
「村にやってくる人の数が増えれば増えるほど、誰もが大旦那様のお言葉を自らの都合の良いように解釈し、私こそが最も完璧に理解していると、誇らしげに周囲へ触れ回るようになっていますの。何だか、あのお方の純粋な御言葉が、人間の身勝手な熱狂によって汚されていくようで、少し怖いのですわ」
レオンは、手元の大冊を神聖な器の如くなぞりながら、静かに首を横に振った。
「いや、リナ。それは仕方のないことだよ。モレン村長も仰っていたが、人々はみな、自らの生きてきた背景というフィルターを通してしか、神の理を受け止めることができないのだからね。だが、だからこそ――」
レオンの瞳に、不気味なほどの確信の光が宿った。
「我らが紡ぐこの『馬鈴薯の書』の価値は、日に日に重みを増していくのだ。人々が自らの都合の良い解釈で迷走した時、何が一分の狂いもない『正しい原典』であるかを示すための、絶対的な基準として、この書物が機能せねばならんのだよ。我らは、一文字の書き損じも許されない、絶対の防波堤なのだ」
それまで静かに帳簿の最終監査を行っていた村長モレンが、老眼鏡を外し、重々しい声音で対話を締めくくった。
「……レオンの言う通りだよ、リナ。外の無知なる民は、もはや大旦那様のお言葉をただ『聴く』段階を終え、それを人生の絶対的な指標として『引用』し、議論を交わす段階へと移行しておる。この書物は、もはやただの村の記録ではない。世界を律する至高の『聖典』としての役割を、自ずと背負わされつつあるのだ」
会所内は、再び押し潰されるような神聖な静寂に包まれた。
その時、会所の重い木扉が弾かれたように開き、一人の若い巡礼の若者が、息を切らせて室内に滑り込んできた。
「……筆頭編纂者、レオン様!モレン村長!大変なことが起きております!」
「騒々しいな。業務の監査中だ、手短に報告しなさい」
「はっ!我が隣村の集落において……先ほどルナ村を去った者たちが、夜な夜な広場へと集まり始めております!」
レオンは眉をひそめた。
「夜集まって、何をしているんだ?」
「我らが窓口で彼らに授けた『馬鈴薯の書』の写本を、皆で囲むようにして朗読し合っているのです!そして、あの大いなる御方が示された『エラーの修正』や『初期条件の観察』という御言葉の真意について、一字一句を検証し、独自の教えを構築し始めております!」
会所内は、凍りついたような静寂に包まれた。
モレンは長いため息をつき、格子窓の向こうに広がる、夕闇に染まる街道を見つめた。
(……ついに、動き始めてしまったか。我らルナ村の『豊穣神の集い』の手を離れ、外の世界の民が、自発的に大旦那様の教えを組織化し始めておる。あのお方の垂れ流した正論が、彼らの地において、独自の『教会』としての産声を上げつつあるのだ……)
レオンはただ、手元の大冊をじっと見つめ、その背筋を不気味なほど真っ直ぐに正すのだった。
そんな大陸全土を揺るがす劇的な思想の乱立と、自発的な教団の発生など、当の最高神マコトは、これっぽっちも知る由はなかった。
彼はその夜、ハンスの家の庭先に腰掛け、膝の上に開いた板札へ、次期の生産性向上計画に向けた種苗の必要原価の計算式を、猛然と書き込んでいた。
家の中から、湯気の立つ温茶を二つの木坏に注いでハンスが出てきた。
「大旦那様、夜遅くまで、いかなる計算を行われているのですか?」
「ああ、次期の定植プロセスに向けた、安全在庫の必要数量の算出(計算)だよ。もし、この原価計算の数値に一桁の狂いでも生じれば、村の全農家が中長期的な物資不足という『不具合』に直面することになるからね。非常に厳密さを要求される監査業務だよ」
マコトは羽根筆の先を整えながら、極めてマクロな経済合理性に基づいてその職務の重みを述べた。ハンスはただ、その世界のすべての民を飢えから救わんとする、大いなる神の絶対的な「配慮」に胸を熱くし、しみじみとした笑みを浮かべた。
「大旦那様は、本当にいついかなる時も、我ら民のためにその智慧を削ってくださるのですね」
「いや、ただの合理的な在庫管理だよ」
マコトは再び板札の計算式へと意識を戻した。彼にとっては、自らの言葉も、あの『馬鈴薯の書』も、すべては効率的に実務を回すための『マニュアル(手順書)』に過ぎず、それ以上の意味など塵ほども考えていなかった。
しかし、あのお方がただの『実務効率論』として垂れ流した正論は、すでに人間の無知というフィルターによって完璧に屈折し、世界を律する絶対のドグマへと変貌を遂げていた。
ルナ村の外の世界の人々は、もはやマコトをただの偉大な指導者として尊敬する段階を遥かに超えていた。彼らは、あのお方の発するすべての言葉を、一分の疑念も挟むことが許されない、絶対的な「聖句」として崇め奉り、その解釈を巡って命を賭せるほどの熱狂を深めていたのだ。
最高神マコトのあずかり知らぬところで。
ルナ村の境界を越え、大陸全土へとその狂信的な根を張り巡らせつつあった「収穫物」――。
それは、土の底で眠る丸い馬鈴薯などではなかった。
一分の狂いも許さぬ原典の崇拝と、各自の解釈の正当性を掲げて互いを異端と呼び合わんとする、人間の制御不能なまでの「盲信の加速」そのものであった。
何も知らないマコトは、今日も初夏の美しい星空の下、安全在庫の計算が計画通りに収束したことに深い満足感を覚え、ただただ真っ直ぐに、愛する日常の平穏の中を歩み続けるのだった。




