第64章 すべては誤りなり
ルナ村の境界を越えて流れ込む人の波は、初夏の乾いた風が吹き抜けるたびに、その熱量をいや増していかった。
始まりは数人の視察者に過ぎなかったその潮流は、今や全大陸の各地から集まった多様な者たちで溢れかえっている。ある者は泥臭い農事の先進技術をこの目に焼き付けるべく、熱に浮かされたような眼差しで畝を見つめ、またある者は広場に佇む歪な石像に手を合わせ、さらにある者は交易商人の口から伝播した奇跡の噂が真実か否かを確かめるべく、長い旅路を歩んできた。彼らの目的は一様に、あの大冊――『馬鈴薯の書』に記された数々の神秘を、自らの五感で確かめることにあった。
最高神マコトは、どのような思惑を抱えた者が眼前に現れようとも、常に変わらぬ冷徹な事務主義をもって彼らを平等に迎え入れていた。実務の向上を志して教えを乞う者があれば、農業指導員としての義務を果たすべく徹底的にその原理を説き、ただの物見遊山の徒であれば、何ら感興を覚えた風もなく、いつものように淡々と自らの作業をこなす。彼にとっては、いかなる群衆の到来も、日々のルーティンワークを乱す要素にはなり得なかった。
その朝、都市の身なりをした三人の旅人が、何やら大切そうに小さな麻袋を抱えながら、東の開墾地に佇むマコトの前へと進み出た。彼らは泥の上に直に膝を突くと、至高の神聖さに平伏するかのように深く頭を下げた。
「大旦那様、マコト様! 畏れながら、はるばる遠方より参じました!」
「おはよう。他所の村の形だね」
マコトは使い込まれた手鍬を傍らに立てかけ、冷淡な、しかし静かな眼差しを向けた。
「我らは、我が故郷の土地の繁栄を願い、これを持参いたしました」
男たちが震える手で麻袋の紐を解くと、中から現れたのは、ごくありふれた乾燥した赤土であった。マコトは不思議そうに眉をひそめた。
「……ただの土壌サンプルだね。それが、実務にどう関係するんだい?」
「はっ! この我が村の不毛なる土を、あの大いなる『聖なる圃場』の土と混ぜ合わせ、奇跡の息吹を分け与えていただきたく……!」
その言葉を聞いた瞬間、マコトの脳内の「合理性監査フィルター」が作動した。彼は明快に首を横に振った。
「それはまったく無意味な行為だね。そもそも、この村にそんなオカルトじみた圃場は存在しないよ」
三人の旅人は、想定外の冷徹な否定に、弾かれたように目を丸くした。
「え……? しかし、全大陸の商人が、こここそが神の圃場であると……」
「彼らは情報の一面しか捉えていない。ここにあるのは、適切な灌漑設備と土壌管理によって生産性が最適化された、ただの生産現場だ」
マコトは平然と、眼前に広がる青々とした畝を指ししめした。
「ただの実務空間だよ。何ら神秘的なことではない。お前たちのその『聖なる圃場』という認識は、客観的事実を欠いた誤りだよ」
男たちは、その徹底された「虚飾の排除」に、激しい当惑を隠せなかった。
「ですが……皆がそのように噂しております!」
「ああ、知っているよ。だから言っているんだ」
マコトは感情の起伏を一切排した、静かな口調で告げた。
「彼らの認識は、すべて科学的な根拠を欠いた『誤り(エラー)』だ。圃場というものは、単に収穫量が多いという結果だけで神聖化されるものではない。作物の生育を決定づけるのは、土壌の栄養バランス、適切な水分管理、気象条件、種苗の品質、引いてはそれらを規則正しく運用する管理手順の有無だ。もし、その中のどれか一つのプロセスに欠陥が生じれば、収穫量は瞬く間に低下する。農事とは客観的な数値の積み重ねであり、祈りや奇跡が介入する余地など塵ほどもないのだよ」
三人の旅人は、その宗教的虚飾を完璧に削ぎ落とした、圧倒的に冷徹な合理性の論理に、言葉を失って立ち尽くした。あまりにも正論すぎて、彼らの硬直した信仰の脳髄を、直接貫くような衝撃であった。
彼らがその衝撃から立ち直るよりも早く、圃場の奥から一人の若い農夫が、一本の鍬を両手で掲げながら、必死の形相で駆け寄ってきた。
「大旦那様! マコト様! お助けください!」
「ん? 何かな、騒々しい」
「私は、大旦那様がお使いのあの道具を克明に模倣し、全く同じ形状の手鍬を鍛冶屋に作らせました! これで我が家の畑も奇跡の実りで満たされると信じて疑わなかったのですが……なぜか、収穫量が以前と全く変わらないのです!」
マコトはその差し出された鍬を一瞥し、ふむ、と溜息をついた。
「それは原因の特定を誤っているね。問題は道具の形状ではないよ」
「え……道具、ではない……?」
「鍬というものは、作業効率を補助するための単なる『デバイス(道具)』に過ぎない。成果を決定づけるのは、それを振るう人間の『運用手順』だ。刃を打ち込む角度、土を均す際の筆致、メンテナンスの頻度。それらの実務が乱れていれば、たとえ新品の鍬を百本用意したところで、生産性のグラフは何の変動も見せないよ。つまり、その鍬が奇跡を起こすという考えもまた、明確な誤りだ」
農夫は、まるで天を仰ぐように硬直した。
「そんな……道具の形だけでは、駄目なのですか……」
「当然の事実だよ」
その混乱に拍車をかけるように、今度は一人の老婆が、小さな布袋を両手で恭しく捧げ持ちながら進み出てきた。
「大旦那様……私は、家畜の糞を乾かした堆肥を持参いたしました。これを、あの大いなる『聖なる堆肥』とほんの少しでも混ぜ合わせれば、すべての病が癒え、豊かな実りが約束されると聞き及んだのですが……」
マコトは再び数秒の間、深い沈黙に沈んだ。彼の胃のあたりに、不効率な誤解に対する微かな疲労感が蓄積されていく。
「……『聖なる堆肥』など、この世のどこを探しても存在しないよ。老婆、お前の認識もまたエラーだ」
「え……神の堆肥では、ないのですか……?」
「堆肥は、どこまで行ってもただの有機物の塊だ。微生物による発酵プロセスが完了していなければ、地中でガスと熱を発生させて作物を内側から物理的に破壊する。逆に、発酵が完全に終了していれば、適切な栄養素として機能する。その物理的な法則は、世界中のどの土地であっても一貫して平等に適用されるんだ。オカルト的な奇跡など、そこには存在しない。お前たちが崇めるその呼び名は、すべて本質から外れた誤りだよ」
老婆は、その力強い言葉の重みに、ただただ唖然として立ち尽くした。
「では……本当に、何も、ないのですか……?」
「ないよ」
マコトは揺るぎない口調で、迷いのない断定を下した。
「あるのは、管理手順が『正しい堆肥』か、あるいはプロセスを怠った『誤った堆肥』か、その二つの客観的な事実だけだ」
圃場の周囲を満たしていた、ざわざわとした雑音が、一瞬にして凍りついたような静寂へと変わった。マコトは集まった群衆を一人ずつ、冷徹な監査官の目で検分するように見つめた。
「お前たちが妄信する『聖なる圃場』は、誤りだ」
「神が宿ると囁かれる『聖なる手鍬』も、誤りだ」
「奇跡を起こすと触れ回る『聖なる堆肥』も、すべては客観的根拠を欠いた誤りに過ぎない」
彼は開墾地の全土を見据え、その言葉を楔のように打ち込んだ。
「生産性を向上させるのは、適切なプロセスに基づいた『正しい労働』の積み重ねだ。その書物に書かれたような物質そのものに、崇拝すべき価値など塵ほどもないのだよ」
あまりにも圧倒的な、一切の宗教を否定するような実務至上主義の宣言。圃場には、ただ初夏の風の音だけが、虚しく響き渡っていた。
少し離れた場所でその一幕を板札に記録していた青年ハンスは、その神聖なる光景に、唇の両端をわずかに吊り上げて微笑んでいた。
(やはり、大旦那様はどこまでも高潔な御方だ……。我ら凡夫が目先の『物質』に囚われ、あの『馬鈴薯の書』に記された記述を盲目的な偶像崇拝に陥らせるのを、こうして自ら厳しい言葉をもって訂正しておられる。だが、あのお方がその『誤り』を説けば説くほど、そのお姿は、我らににとって、これ以上ないほどの『真実の神』として映り込むのだということに、あのお方ご自身だけが気づいておられない……)
ハンスは、マコトの冷徹な事務主義の背後に、全人類を盲執から救おうとする至高の教育的慈悲を感じ取り、独り敬虔な吐息をもらすのだった。
三人の旅人は、ようやく自らの過ちを悟ったかのように、泥の上に深く、深く頭を垂れた。
「……寛大なる教え、恐悦至極にございます。マコト様」
「ああ、分かってくれればいいよ。実務に役立ててくれ」
「最後に……最後に、一つだけお尋ねしてもよろしいでしょうか」
先頭の男が、去り際にその目を輝かせながら尋ねた。
「すべてが誤りであるとするならば、我ら無知なる民にとって、一体何が『正しい道』なのでしょうか」
マコトは、羽根筆の先を整えながら、一分の迷いもなく答えた。
「学ぶこと、ただそれだけだよ」
「学ぶ……でございますか」
「そうだ。知識がなければプロセスを構築し、学びなさい。もし実務にエラーがあれば、その都度原因を特定して修正しなさい。失敗に直面したなら、その背後にある論理的な因果関係を解き明かしなさい。農事とは、その終わりのない『品質改善』の連続だよ。それ以外に、正しい結果へ至る道など存在しない」
男たちは、その「終わりのない学び」という、果てしない精神修養の如き言葉に、平伏したいほどの衝撃を受けながら、何度も拝礼を繰り返して村を去っていった。
その日の夕暮れ時、それぞれの村へと続く街道の帰路において、三人の旅人は未だ興奮の冷めやらぬ面持ちで、先ほどの対話を幾度も反芻していた。
「……聞いたか。大旦那様は、すべてを『誤り』だと切り捨てられた」
「ああ。だが、それによって我らが目指すべき真の光が何であるかを、明確に示してくださった」
初老の農夫が、涙ぐむように深く首をうなずかせた。
「考えてもみろ。あのお方は、我らがただの畑や手鍬や堆肥といった、あの書物に記された『物質』を崇めるだけの矮小な(わいしょうな)信徒になることを拒まれたのだ。物質ではなく、その背後にある大いなる『理』を理解し、魂を高めよと仰っているのだ」
「なんと高潔な、これぞ真の豊穣神の教えではないか……!」
彼らの脳内では、マコトの極めてドライな「業務改善命令」が、物質主義を脱却して世界の真理へと至る、至高の哲学体系へと美しく昇華されていた。
その頃、ルナ村のハンスの家の庭先では、マコトが暮れなずむ夕日を浴びながら、自らの古びた手鍬の刃先を、乾いた布で丁寧に拭い去っていた。
(……今日は、実務外の対応が多くて随分と不効率な一日だったな。どうして他所の人間は、こうも非論理的な結論をでっち上げて持ってくるのだろうか。まあ、しかし、今日で圃場や道具、堆肥に関する数々のエラー(誤解)は、現場の段階で完全に修正できたはずだ。これで、これからは誰もあの『馬鈴薯の書』の記述を変なオカルト話に結びつけなくなるだろう。実に見事なリスク管理だ)
マコトは、自らの徹底された論理的訂正によって、全ての誤解が跡形もなく消滅したと、100%の自信を持って確信していた。
何も知らない最高神マコトは、今日も初夏の美しい夜風を浴びながら、計画通りの『エラー修正』が完了したことに深い満足感を覚え、ただただ平穏な日常の中を歩み続けるのだった。
彼のその徹底された「全否定の教え」が、数日後、大陸全土の神学者たちの間で、「神は目に見える偶像の崇拝を全面的に禁止された。真の信仰とは、物質を排し、神の示された『理』を学ぶことにある」という、前代未聞の厳格なる『脱偶像崇拝論』の聖典として『馬鈴薯の書』に大書され、熱狂的な大論争を巻き起こすことになろうとは、彼はこれっぽっちも知らなかった。




