第63章 聖なる堆肥
雨季の到来を告げる湿った風が、ルナ村の空へと鈍色の雨雲を頻繁に呼び寄せるようになっていた。
最高神マコトの緻密な気象予測と土壌の管理計算に言わせれば、本格的な連日の降雨が始まる前に、幾つかの開墾地に対して必要な栄養素、すなわち地力の補給を行うべき時期であった。土壌の窒素や加里の比率が低下すれば、どれほど優れた種苗を用いようとも、次期の収穫量は確実に損なわれるからだ。
その朝、マコトは畑の境界に数人の農夫たちを集め、彼らの眼前に二つの異なる堆肥の山を並べていた。一つは、時間をかけて適切に発酵・完熟させた有機堆肥。もう一つは、家畜の排泄物をただ積み上げただけの、未だ生々しい未完熟の山である。
マコトは手にした細木で、その二つの山を交互に指し示した。
「……違いが視覚的に理解できるかい?」
集まった農夫たちは、互いに顔を見合わせながら、恐る恐る頷いた。
「色、ですかね。それに、匂いも違います」
「触った感じの、きめの細かさもまるで別物です」
「その通りだ」
マコトは淡々と、しかし実務的な厳格さをもって解説を始めた。
「未完熟の有機物は、地中で分解が進行する際に、激しいガスと高熱を発生させる。それをそのまま作物の根元に投入してしまえば、根が熱とガスによって物理的な損傷を受け、最悪の場合は根腐れ(ねぐされ)を起こして株全体が破滅する。だから、十分に発酵プロセスを完了させた『完熟堆肥』を用いるのが、農事の絶対的な原則だよ」
農夫たちは一言も聞き漏らすまいと、真剣な眼差しでその言葉を魂に刻み込んでいた。
その円陣のすぐ外側では、青年レオンがすでに『馬鈴薯の書』を開き、片膝を泥に突きながら猛然と筆を走らせていた。マコトはその様子を一瞥し、情報の共有化に満足して小さく顎を引いた。
「レオン。また実務の記録を取っているのだね」
「はっ! 大旦那様の授けてくださる真理を、片時も忘れぬよう、こうして!」
「素晴らしい姿勢だ。そのまま続けなさい」
マコトは再び農夫たちへと視線を戻し、手元の一掴みの堆肥を掲げた。
「作物も人間と同じように栄養を必要とするが、過剰な摂取はかえって害を招く。原価の無駄遣いにもなるからね」
彼はしゃがみ込むと、青々と茂る株の根元へ、一掴みの堆肥をサラサラと均等に散布してみせた。
「このように、一箇所に大量に塊として置くのではなく、薄く、広範囲に、均一に撒く(まく)んだ。少しの量を正確に行き渡らせる方が、雑な大量投与よりも数倍は生産効率を高めることができるよ」
レオンは息を呑み、羽根筆の先が羊皮紙を引き裂かんばかりの勢いで、その『適量と均一の理』を書き留めていった。
農夫たちの後ろに控えていた、他所の村からやってきた一人の視察者が、畏敬の念に打たれながら恐る恐る手を挙げた。
「マコト様、恐れながら、一言お尋ねいたします」
「何かな」
「その……我ら愚鈍な民には、堆肥が『完熟』しているか否かを、いかにして見極めればよいのかが分かりませぬ。何か特別な魔術的印でもあるのでしょうか」
マコトは少しだけ呆れたように息を吐き、手元の一掴みの堆肥をその男の鼻先へと差し出した。
「匂いを嗅ぎなさい」
男は弾かれたように泥の上に身を乗り出し、その神聖なる物質へと鼻を近づけた。そこには、家畜の排泄物特有の不快な悪臭は一切なく、むしろ雨上がりの深い森を思わせる、清々しい土の香りが満ちていた。
「……これは、悪臭がまったくございません」
「そうだ。アンモニア等の不純物が分解され、匂いが『ただの健康的な土』と同じ質に変化していれば、それは微生物による発酵プロセスが完了したという明確な証拠だ。特別な技術など必要ない、ただの自然界の化学変化だよ。何ら神秘的なことではない」
しかし、その「神秘的ではない」というマコトの冷徹な言葉こそが、男の胸の内に、世界の根源を司る神の絶対的な説得力として響き渡った。
講習が終わると、農夫たちはそれぞれの担当する畝へと散り、学んだ手順に従って慎重に堆肥の散布を開始した。マコトは圃場をゆっくりと巡回し、現場の進捗状況と作業品質の検分を行っていた。ある一角の前で、彼の指先がぴたりと止まった。
「――そこまでだ。撒きすぎているな」
その区画を担当していた農夫は、心臓を直接掴まれたかのように硬直した。
「え……大旦那様、本当でしょうか。私はてっきり、多ければ多いほど、作物が大きく育つものとばかり……」
「それは誤った認識だ。地中の栄養素が過剰になれば、株は葉や茎ばかりを異常に肥大化させ、肝心の地中の実りに栄養を行き渡らせるのを止めてしまう。いわゆる『蔓ボケ(つるぼけ)』という現象だな。何事も過不足のない『最適値』を維持することが、実務の成功を担保するんだ」
農夫は冷や汗を流しながら、大急ぎで撒きすぎた堆肥を丁寧に間引いて(まびいて)いった。
「大旦那様、これくらいで……いかがでしょうか」
「ふむ、十分に合格点だ。美しい均一性だよ」
マコトは満足げに小さく頷いた。初期の小さな過誤を発見し、現場の段階で即座に修正することこそが、中長期的な欠陥の発生を未然に防ぐ最上の手段である。彼の監査官としての視線は、寸分の狂いもなく機能していた。
その様子を、圃場の境界線から覗き込んでいた数人の他所の巡礼者たちが、声を潜めて激しく囁き合っていた。
「……御覧なさい。大旦那様は、土の上に散らばる堆肥の粒の数まで、一目で正確に見抜いてしまわれた」
「ああ、ただ地表を歩むだけで、どの土地にどれだけの生命の息吹が必要かを、すべて把握しておられるのだ」
「なんと恐るべき眼力か。あの御方が通り過ぎた後の畝は、まるで天上の庭園のように整然と並んでいく……」
彼らの目には、マコトのただの『現場の品質管理』が、大地の栄養の均衡を司る神聖なる調停の儀礼に映っていた。
陽光が天頂を過ぎ、小休止の時間となった頃、一人の視察者がレオンの背後に忍び寄り、その手元の大冊を覗き込んだ。
「……そこの若き御方、一体何を書かれているのだ?」
レオンは誇らしげに、しかし最も敬虔な声を響かせた。
「大旦那様が直々に示された、世界の理の記録。すなわち『馬鈴薯の書』にございます」
男は、開かれた頁に整然と並ぶ文字の列を食い入るように見つめた。そこには、種芋の選び方、水路の引き方、そして今まさに書き加えられたばかりの、堆肥を均一に撒くための微細な手順が、一切の無駄を排した筆致で刻まれていた。
「……堆肥を撒く、その一挙手一投足にまで、これほどの深遠なる規則が存在するのか」
男は深く、深く頭を垂れ、遠くの畝で静かに作業を続けるマコトの背中を、拝礼の姿勢のまま見つめ続けた。
夕暮れ時、視察者たちは、魂を揺さぶられるほどの衝撃を胸に抱きながら、それぞれの村へと帰路に就いた。そして、彼らが村の境界を越え、他所の民へとその体験を語るごとに、あの泥臭い堆肥の逸話は、恐るべき速度で神秘的な神話へと昇華されていった。
最初の村において、人々はこう語った。
「ルナ村の神は、大地の底から湧き出る悪臭を、森の香気へと変える秘術を農夫たちに授けた」
二つ目の村に届く頃には、その言葉はさらに書き換えられた。
「神の調合した土をほんの一掴み撒くだけで、枯れ果てた荒れ地であっても、一晩にして奇跡の実りで満たされる」
そして、その噂が山を越え、北方の交易都市へと辿り着いた時――その言葉は、もはや現世の土としての原型を完全に失っていた。
「大いなる豊穣の神が自らの指先で調停し、世界に無尽蔵の実りをもたらす絶対の聖遺物――それこそが『聖なる堆肥』である」と。
そんな途もない誤解が大陸を駆け巡っているとは夢にも思わない最高神マコトは、その日の夕刻、ハンスの家の裏手にある堆肥舎の中で、木製の肥叉を両手に握り締め、山積みにされた腐葉土の塊を黙々と裏返していた。
「大旦那様、その堆肥の山も、定期的に裏返さねばならないのですか?」
手伝いにやってきたハンスが尋ねると、マコトは額の汗を拭いながら、明快な口調で答えた。
「ああ。定期的に切り返しを行って、堆肥の内部に十分な酸素を供給してやる必要があるんだ。これを怠ると、微生物の嫌気性発酵が進行し、有機物の分解スピードが著しく低下して、原価効率が悪くなってしまうからね」
「なるほど。では、明日もまた同じように切り返しを行うのですね」
「いや、次は四日後で構わないよ」
マコトは肥叉を壁に立てかけ、きっぱりと言い放った。
「あまりに頻繁に切り返しを行うと、堆肥の内部温度が一定に保たれず、発酵を司る微生物の活動をかえって阻害してしまう。何事も規則的な『周期』を守ることが、製造効率を高めるための基本だよ」
ハンスは、その完璧な「周期」の思想に、「またしても深いお言葉を……」と敬虔な吐息をもらしたが、マコトは「ただの微生物学的な効率論だよ」と不思議そうに首を傾げるだけだった。
何も知らない最高神マコトは、今日も雨雲の隙間から覗く美しい月光を浴びながら、計画通りの発酵プロセスが維持されていることに満足し、ただただ真っ直ぐに、実務の平穏の中を歩み続けるのだった。
ルナ村の外の世界において、数多の大商人や大貴族たちが、「一掴みで国を潤す奇跡の聖なる調合粉」を求め、血眼になってその流通ルートを探索し始めようとしていることなど、彼はこれっぽっちも知らなかった。




