第62章 聖なる手鍬
ルナ村の東に広がる開墾地が、他所の者たちから『聖なる圃場』と呼び崇められるようになってからも、村へと流れ込む視察者の波はとどまるところを知らなかった。
ある者はその先進的な農事の理を自らの村へと持ち帰るべく、貪欲な眼差しで畝を見つめ、またある者は交易商人の口から漏れ出た奇跡の伝聞をこの目で確かめんと、遠方から数日を費やして街道を歩んできた。
最高神マコトは、どのような思惑を抱えた者が眼前に現れようとも、常に変わらぬ冷徹な事務主義をもって彼らを迎え入れていた。実務的な問いが投げかけられれば必要最小限の言葉で過不足なく答え、それが終われば、何ら感興を覚えた風もなく自らの作業へと意識を戻す。彼の時間管理の思想に言わせれば、自然の摂理に従って成長を続ける作物の管理は、一刻の猶予も許されない連続的な業務であり、他所の見物人の都合に合わせて進行を遅らせるなど、言語道断の不効率だからだ。
その朝、マコトは前夜の激しい降雨によって崩落した、水路沿いの畦の修復作業に当たっていた。彼の両手には、一本の古びた手鍬がしっかりと握られていた。
木製の柄は、長年の泥と手の脂を吸い込んで黒々と変色し、随所に微かなひび割れが走っている。鉄製の刃先には無数の擦り傷が刻み込まれ、長年の実務による摩耗の激しさを物語るように、片方の角がわずかに歪に変形していた。
「随分と、使い込まれた道具ですね、大旦那様」
少し離れた場所で崩落の範囲を板札に記録していた青年ハンスが、その手元を覗き込みながら、感心したように声をかけた。
「ああ、それなりに長い間、私の実務を支えてくれているからね」
「新しきものへと、新調されないのですか?」
マコトは、鍬を振るう手を止めることなく、明確に首を横に振った。
「その必要性を裏付ける論理的な理由がないよ」
「と、仰いますと?」
「この手鍬は、未だに畦の土を均し(ならし)、成型するという本来の『機能』を完全に維持している。物理的な破損によって業務の進行に支障が出ているわけでもないのに、単に見た目が古いという理由だけで更新を行うのは、限られた資源と原価の無駄遣いに他ならないからね。道具というものは、その機能が失われぬ限り、使い続けるのが正しい管理の在り方だよ」
マコトはそう淡々と告げると、再び一定の正確なリズムで手鍬を泥へと打ち込み、崩れた畦を寸分の狂いもなく元の美しい直線へと復元していった。ハンスは、その一切の無駄を削ぎ落とした徹底的な合理主義の言葉に、至高の神聖さを感じ取っていた。
その主従の作業から少し離れた畝の境界に、四人の男女が息を潜めて直立していた。彼らはそれぞれ異なる集落から、この『聖なる圃場』の噂を追ってやってきた巡礼者たちであった。彼らは夜が明けた時刻から、マコトの後ろを影のようについて回り、その作業の一挙手一投足を、一言の不敬な言葉も挟まずに凝視し続けていた。
「……あの手鍬を、御覧なさい」
一人が、胸を突かれたような微かな震え声を漏らした。
「ああ、なんと古びて、傷だらけの道具だ。我らの村の長が誇らしげに掲げる、きらびやかな儀礼用の鍬とはまるで違う」
「それなのに、大旦那様は何の躊躇いもなく、あのような実務的な鉄の塊を自らの御手で握っておられる……」
彼らの目には、マコトが傷だらけの手鍬を平然と使いこなし、何ら不満を漏らさずに泥を均していくその姿が、現世の不浄な道具にさえ等しく慈悲を与え、その本来の価値を引き出している高潔な一幕に映っていた。道具の古さなど、その御方が振るう絶対の理の前には、塵ほどの意味も持たないのだと、彼らは改めて平伏したいほどの衝撃を受けていた。
太陽が天頂へと近づき、小休止の時間となった頃、巡礼者の中の一人が覚悟を決めたように泥を踏みしめて近づき、深く頭を下げた。
「マコト様、恐れながらお尋ねいたします」
「何かな」
マコトは手鍬を傍らに立てかけ、冷淡な、しかし静かな眼差しを向けた。
「なぜ、あのような古びた道具をお使いになられているのでしょうか。新しき、より見事な鍬を用いれば、さらに大いなる実りをもたらすことができるのでは……」
マコトは自らの手鍬の柄を軽く指先で叩き、平然と首を振った。
「それは実務の本質を見誤っているよ。道具というものは、新しければ良いというものではない。既存の道具がその機能を発揮している以上、新しいものを導入しても、得られる作業効率の差分は極めて微小だ。費用対効果の観点からも、投資に見合う利益は得られない」
彼は手鍬の木柄を愛おしげになぞった。
「何より、この柄の形状は、長年の使用によって私の手の馴染みや作業の『癖』に完全に最適化されている。ここで安易に新しい道具に変えてしまえば、再び私の身体をその道具に適応させるための無駄なコスト……すなわち習熟のための時間が余計に発生してしまうからね。道具の更新には慎重であるべきだよ」
四人の男女は、その一切の宗教的虚飾を排した、圧倒的に冷徹な合理性の言葉に、ただただ息を呑んだ。マコトはさらに、鍬の鉄刃の摩耗している部分を示した。
「見てごらん。この先端がわずかに減っているだろう。だが、これは研ぎ直して適切なメンテナンスを行えば、いくらでも機能を回復できる。新品を購入するよりも、今ある資産の保守点検を徹底することの方が、農事においては遥かに重要なのだよ」
一人の男が、感極まったように腰の小袋から羊皮紙の束を取り出し、その神託を一文字も漏らさぬよう必死に書き留め始めた。マコトはその様子を眺め、事務処理の基本がまた一つ共有されたことに満足して薄く笑みを浮かべた。
「記録を取る習慣は素晴らしいね。ならば、その頁の末尾に、もう一つ重要な実務の原則を付け加えておきなさい」
「はっ! いかなる御言葉でしょうか!」
「『最上の道具とは、価格の高さによって定義されるものではない。適切な保守管理を施され、機能を発揮し続けるものこそが、最上の道具である』とね」
男は涙を流さんばかりの勢いで、その言葉を羊皮紙の余白へとなぞり書きしていった。
夕暮れ時、四人の巡礼者たちは、何度も何度も圃場に向かって拝礼を繰り返しながら、それぞれの村へと帰路に就いた。彼らの胸の内には、あの傷だらけの手鍬の姿が、神の絶対的な象徴として深く刻み込まれていた。
「あの一本の手鍬こそが、大旦那様の御手を通じて、ルナ村の荒れ地を奇跡の実りへと変えたのだな」
「いや、道具そのものが奇跡を起こすのではない。あのお方が『理』をもってそれを振るうからこそ、泥が黄金へと変わるのだ」
彼らはそう語り合いながら、家路を急いだ。
しかし、ルナ村から発せられるすべての言葉がそうであるように、この素朴な実務の逸話もまた、村の境界を越え、他所の者たちの口を伝うごとに、緩やかに、しかし決定的にその形状を変質させていった。
最初の村において、人々はこう語った。
「豊穣の神は、いにしえの傷だらけの手鍬を好んでお使いになる」
二つ目の村に届く頃には、その言葉は次のように書き換えられた。
「神の振るう手鍬は、永劫の歳月を経ても決して壊れることがない」
三つ目の村においては、さらに尾ひれがついた。
「あのお方が一度その手鍬を大地に打ち込めば、枯れ果てた地であっても瞬く間に至高の実りをもたらす」
そして、その噂がさらに遠方の、大国の大都市へと辿り着いた時――その記述は、もはや現世の道具としての原型を留めてはいなかった。
「大いなる御方がその身に帯び、世界を耕し清めるために振るう、絶対の奇跡――それこそが『聖なる手鍬』である」と。
そんな途方もない尾ひれがついた噂が大陸を駆け巡っているとは露知らず、その夜、マコトはハンスの家の庭先に腰掛け、膝の上にあの古びた手鍬を横たえていた。彼は井戸水で刃先を綺麗に洗い流すと、手慣れた手つきで砥石を当て、シャリ、シャリと規則正しい音を響かせながら刃先を研ぎ澄ましていた。
一通りのメンテナンスを終え、親指の腹で刃の返りを確認すると、彼は満足げに小さく頷いた。
「よし、これで初期の切れ味が完全に復元されたな」
傍らで灯火を掲げていたハンスが、その様子を見て穏やかに笑った。
「これなら、まだあと何年も現役で働いてくれそうですね、大旦那様」
「ああ。適切な保守点検を欠かさなければ、道具というものは、往々にしてその持ち主の寿命よりも遥かに長く生き続けるものだからね。当然の事実だよ」
ハンスは、その言葉の裏にある「永劫の不滅性」を感じ取り、「深いお言葉です」と小さく吐息をもらしたが、マコトは「ただの物理的な耐久性の話だよ」と不思議そうに首を傾げるだけだった。
何も知らない最高神マコトは、今日も初夏の美しい星空の下、愛する道具の機能が完全に維持されたことに深い満足感を覚え、ただただ真っ直ぐに、実務の平穏の中を歩み続けるのだった。
ルナ村から遥か彼方の地において、数多の王侯貴族や大商人たちが、その所在すら知れぬ「神の聖遺物」を求めて莫大な富を投じ、血眼になって探索を始めようとしていることなど、彼はこれっぽっちも知らなかった。




