第60章 巡礼の始まり
季節の巡りは、ルナ村の景色を緩やかに塗り替えていった。
大地を包んでいた冷ややかな空気はいつしか鳴りを潜め、新緑の芽吹きが畑の各所を青々と彩り始めている。朝霧がまだ低く立ち込める時刻、馬鈴薯の葉の表面に連なる朝露が白々と光を返す中を、マコトは土を踏みしめながら静かに歩を進めていた。その手には、灌漑の水位を検分するための、数字の刻まれた小さな木札が握られている。彼は水路の分岐点の前で足を止め、じっと水面を見つめた。
「ふむ……」
マコトの口から、事務的な呟きが漏れた。
「水位が指二本分ほど低下しているな」
彼のすぐ後ろに控えていた青年ハンスが、慌てて水路を覗き込んだ。
「大旦那様、何か不都合でも生じましたでしょうか」
「いや、不都合というほどではないよ」
「では、いかにすべきでしょうか」
「単に、上流の泥を浚って(さらって)やれば済む話だ」
マコトは使い込まれた手鍬を手に取ると、それ以上の言葉を交わすことなく、水流を滞らせていた川底の堆積泥を黙々と掬い(すくい)上げ始めた。彼にとっては、今日という日もこれまでに積み重ねてきた実務の一日に過ぎず、何の特別さもない、平穏な日常の延長線上にあった。
同じ時刻、ルナ村へと続く唯一の街道筋に、一台の荷馬車がその足を止めていた。
馬車から降り立った二人の男が、旅の埃に塗れた顔を上げ、不思議そうに辺りを見回す。
「本当に、この地で間違いなかろうな」
「聞き及んだ話では、この先だ。あの飢饉を瞬く間に救った、大いなる豊穣の神が暮らしておられる村は……」
男たちは互いに頷き合い、ゆっくりと村の境界へと歩みを進めた。
しばらく行くと、畑の脇を小走りで通りかかった一人の幼い少年が、彼らの姿を見つけて足を止めた。
「おじさんたち、どこに行くの?」
「ああ、豊穣の神様がおられるという、大旦那様のお住まいを探しているのだが」
少年は、迷うことなく遠くの開墾地を指し示した。
「大旦那様なら、あそこの水路で作業をしてるよ」
「おお、かたじけない」
男たちは顔を見合わせた。どうやら、噂は真実であったらしい。神は、確かにこの地におられるのだ。
村の中央にある小さな旅籠では、女主人が朝の清掃のために庭先に箒を入れていた。そこへ、先ほどの二人の旅人が、緊張した面持ちで敷居を跨いできた。
「少々、よろしいでしょうか」
「はい、いらっしゃいませ。旅の方ですか?」
「我らはホルン村という、ここから数日離れた地から参った者でございます」
女主人は、ふむ、と頷いた。
「それは遠方から。して、我が村にどのようなご用命で?」
「この村におられると聞き及んだ、豊穣の神にお目通りを叶えたく……」
女主人の唇に、すべてを見透かしたような微かな笑みが浮かんだ。
「ああ、大旦那様のことですね。あのお方なら、今も畑に出ておられますよ」
「我らのような身分でも、お会いすることは可能でしょうか」
「構いませんとも。ただ、あのお方の作業の邪魔をすることだけは、絶対に仕出かさないでおくれよ」
男たちは、畏敬の念を込めて深く頭を下げた。
マコトが未だ水路の底から泥を掬い上げているところへ、件の(くだんの)二人の旅人が、恐る恐る畝の端から声をかけた。
「……恐れながら、大旦那様でしょうか」
マコトは作業の手を止め、怪訝そうに振り返った。
「ん? ああ、そうだが。何か用かな」
「我らはホルン村より参った者にございます。あの大いなる豊穣の神の英知を拝したく、こうして足を運びました」
マコトは、またか、というように小さく首を横に振った。
「もし、お前たちが探しているのがその『豊穣の神』とやらであるなら、完全に人違いだよ。他を当たってくれ」
男たちは、これまた噂に聞いた通りの『神の謙遜』を目の当たりにし、深く感銘を受けたように微笑んだ。
「ええ、重々承知いたしております」
マコトは小さく溜息をついた。
「分かってくれればいい。私は神ではない。ただのマコトだ」
「はい。心得ております」
マコトはそれ以上、言葉を重ねるのを止めた。彼は、以前の数々の経験から、この世界の住人たちの頑固な思い込みを一つずつ訂正していくことが、どれほど不効率であるかを痛感していたのだ。相手が明確な実務の問いを投げかけてくれば真実を答える。そうでなければ、ただ己の仕事を全うするのみである。マコトは再び腰を落とし、水路の泥浚い(どろさらい)へと意識を戻した。
二人の男は、畝の境界に直立したまま、その様子をじっと見つめていた。彼らは、声を潜めて互いに囁き交わす。
「……本当だ。神ともあろう御方が、あのように自らの手を泥に染めて働いておられる」
「ああ、想像していた姿とはまるで違う。私はてっきり、高い玉座に腰掛け、大勢の信徒に傅かれ(かしずかれ)ているものとばかり思っていたが……」
「なんと高潔で、瑞々しい(みずみずしい)お姿か。文句一つ零さず、ただ静かに、土の理と向き合っておられる……」
男たちの脳内では、マコトのただの『定期メンテナンス作業』が、現世の不浄を自らの手で清める至高の儀礼へと、華麗に変換されていた。
しばらくの後、マコトは腰を上げて額の汗を拭った。川底の泥は綺麗に取り除かれ、水流は再びサラサラと心地よい音を立てて流れ始めている。
「よし。これで終わりだな」
その隙を見計らい、男の一人が決死の覚悟で一歩を踏み出し、深く頭を下げた。
「マコト様」
「なんだい?」
「我らホルン村の民に、どうかその深遠なる教えを授けてはいただけないでしょうか。我らの土地でも、この村のような豊かな実りを得たいのです」
マコトはしばらく腕を組んで考え込んでいたが、農業指導員としての実務的なスイッチが入り、明快な口調で答えた。
「ならば、まずは種苗の質を疑う前に、自らの足元の『土壌』を徹底的に検分しなさい」
「土壌、でございますか」
「そうだ。作物の育ちが悪いからといって、すぐに種のせいにしてはいけない。水の巡りは適切か、日当たりを遮る雑草は放置されていないか、葉を蝕む害虫の兆候を見落としていないか。問題が生じた際は、まずその『原因』を一つずつ精査し、特定してから適切な対処を行う。それが農事の基本だよ」
二人の男は、その一切の宗教的虚飾を排した、圧倒的に合理的な言葉の列に、平伏したいほどの衝撃を受けていた。
「……寛大なるお言葉、魂に刻み込みました」
マコトは小さく頷いた。
「ああ、役立ててくれ」
彼にとっては、新米の農夫に基本のトラブルシューティングを教えただけの、極めて平凡な会話であった。
男たちは村を去る前、広場に佇む素朴な石像の前で足を止めた。彼らは、その歪な形状の偶像を、畏敬の念に満ちた眼差しでじっと見つめていた。
「見ろ……やはり、伝聞の通りだ」
「ああ、あのお方は本当にこの地に現れ、我らと同じ地平で呼吸をしておられる。この旅は、決して無駄ではなかった」
その日の夕暮れ時、会所にいたモレンは、他所の村の住人が大旦那様への拝謁のためだけにルナ村を訪れたという報せを受け取った。彼は、傍らに立つハンスに視線を向けた。
「その者たちは、すでに立ち去ったのだな」
「はい。大旦那様にいくつかの問いを投げかけ、お言葉を賜ると、すぐに引き返していきました」
モレンは老髭をなで、深く黙考した。
「交易のためでもなく、移住の相談でもなく……ただ、あのお方にお会いするためだけに、わざわざホルン村から参ったというのか」
「はっ。間違いありません」
老村長は長いため息をつき、格子窓の向こうに広がる、夕闇に染まる街道を見つめた。
「一つの村が動き始めたということは、遠からず、周辺の全ての地がそれに続くということだ。この村の平穏も、これからは形を変えていくかもしれんな……」
ハンスは言葉を返さなかった。なぜなら、彼の胸の内にも、それと同じだけの重々しい予感が刻まれていたからだ。
翌朝、ルナ村の境界に、一台の行商の馬車が滑り込んってきた。しかし、その馬車の荷台の後ろからは、商人の従者ではない、身なりの異なる三人の男女が、敬虔な足取りで続いていた。彼らは農夫でもなければ、交易を目的とする者でもなかった。ただ、一人の存在――最高神マコトに近づくためだけに、遠き地より歩みを進めてきた者たちであった。
その歩みは、まだ小さく、ささやかなものに過ぎない。
旅の道のりも、ほんの数日を費やす程度のものであった。
しかし、誰もその重要性に気づかぬうちに、その素朴な一歩は、やがて全大陸を揺るがす巨大な潮流の始まりの鐘となった。人々は、富を求めるためでもなく、土地を奪うためでもなく、ただ一人の御方に拝謁し、その言葉を『馬鈴薯の書』に書き加えるためだけに、ルナ村を目指し始めたのだ。
誰が名付けたわけでもなく。
いかなる布告があったわけでもない。
しかし、世界の歴史において、最も泥臭く、そして最も高潔なる『最初の一歩』――最初の巡礼が、静かにその産声を上げたのである。
何も知らない最高神マコトは、今日も夕闇に染まる貯蔵庫の中で、水路の補修が完璧に終わったことに満足し、ただただ平穏な日常の中を歩み続けるのだった。




