第59章 馬鈴薯尽くし
ルナ村の民が畏敬を込めて『馬鈴薯の書』と呼び倣すその大冊は、すでに二つの篇をその内に宿していた。
青年レオンは、まだ黒々としたインクの光沢が残る最新の頁を愛おしげになぞり、それからゆっくりと本を閉じた。しかし、彼の視線が机の脇に向かった瞬間、その肩がわずかに落とされる。そこには、未だ清書を終えていない無数の覚え書きや、端切れの羊皮紙の山が、まるで減ることを知らない泉のように積み上がったままであったからだ。それらの多くは彼自身が畑の畝陰で必死に書き殴ったものであり、一部は娘のリナが整えたもの、そして数枚は村長モレンが老眼を凝らして書き残した、貴重な実務の断片であった。
「不思議なこともあるものだな……」
レオンが筆を置いたままぽつりと呟くと、傍らで墨をすっていたリナが顔を上げた。
「何が不思議なのです、レオン?」
「いくら書き写しても、大旦那様のお言葉の山が一向に減る気配がないんだ。書き終えたと思えば、また新しい知恵の断片が畑から運ばれてくる」
モレンが白髭をなでながら、慈愛に満ちた深い笑みを浮かべた。
「それはお前、大旦那様が日々、我らに常に新しき理を説き続けておられるからに他ならんよ。あのお方の英知には、底というものがないのだからな」
「まさにその通りですね」
レオンは深く首をうなずかせ、再び紙片の束を整理する作業へと没頭した。
三人は、散乱する知恵の断片を体系化すべく、事柄ごとの分類を再開した。土壌の性質、水の巡らせ方、日の光の遮り方、収穫物の貯蔵法、手入れの行き届いた農具の選定にいたるまで、あらゆる実務の情報が机の上に整然と並べられていく。しかし、それらの記述を幾度も読み返していたレオンの手が、ある数枚の羊皮紙を前にしてぴたりと止まった。
「モレン村長、少々よろしいでしょうか」
「いかがした、レオン」
「この数枚の記述なのですが……これは一体、何篇に組み込むべきでしょうか」
彼が差し出した紙片を、モレンは老眼鏡の奥の目を細めて読み下していった。
『馬鈴薯に最上の土壌について。馬鈴薯の貯蔵手順。種芋の切断法。馬鈴薯の病を防ぐ心得』
老村長は読むのを止め、しばらくの間、奇妙な沈黙に包まれた。それから、堪えきれずにクツクツと低い笑い声を漏らした。
「……『第三篇』だな」
「表題はいかがいたしますか?」
「馬鈴薯、以外にあるまい」
会所の中は、再び一瞬の静寂ののち、三人の和やかな笑い声に包まれた。レオンはリナと顔を見合わせ、それからモレンを見つめて、可笑しそうに肩を揺らした。
「そんな馬鹿な、と思わず言いたくなりますね」
レオンは笑い涙を指先で拭いながら、別の紙片の束を引き寄せた。
「どこをめくっても、本当に馬鈴薯のことばかりだ。ほら、この頁もそうだ」
リナも楽しげに、手元の覚え書きを読み上げる。
「適切な肥料の選定法……馬鈴薯のための、ですわね」
レオンが次の紙片を掲げる。
「植え付けの株間の規則……これも馬鈴薯だ」
さらに次の紙片。
「収穫に最適な時期の見極め……やはり馬鈴薯だな」
もう一枚。
「余剰作物の長期保管法……これも、あの丸いお芋のことばかりですわ」
レオンはついに両手で顔を覆い、呆れと畏敬の混じった声を漏らした。
「なぜ、この書物はこれほどまでに馬鈴薯だけで満たされているんだ……」
モレンは白髭の下の口元を緩め、しみじみとした口調で語りかけた。
「それこそが、大旦那様が我らに最も熱を込め、最も深く授けてくださった慈悲の現れではないか。我らの暮らしのすべてが、あの土の中の実りに宿っておるのだからな」
笑い声が引いた後、室内に満ちたのは、底知れない畏敬の念であった。この書物が奇妙なのではない。あの大いなる御方――最高神マコトが、このルナ村という地において、一貫して馬鈴薯という一つの存在を通じて、世界のすべてを説こうとされている。その徹底された姿勢に、彼らは改めて平伏したいほどの神聖さを感じていた。
その頃、陽光が燦々と降り注ぐ教習畑では、マコトが数人の子供たちを前に、作物の健康状態を見極める実技指導を行っていた。
「いいか、まずは葉の色をよく観察するんだ。もし全体の緑が薄く、黄色っぽく見えるなら、まずはその根元の土壌を疑いなさい」
一人の少女が、泥のついた小さな手を挙げて素朴に尋ねた。
「大旦那様、それって、お芋の時も一緒?」
マコトは優しく頷いた。
「ああ、馬鈴薯の時も全く同じだ。もし地上に出ている茎の伸びが著しく悪いなら、地中の根や芋そのものに何らかの不具合が生じている可能性が高い。基本はすべて繋がっているんだよ」
子供たちは一言も聞き漏らすまいと、持っていた枯れ枝を使い、地面の乾いた土の上にその手順を素早く書き留めていった。マコトはその様子を眺め、少しだけ意外そうに目を細めた。
「お前たち、最近はよくメモを取るようになったな」
「うん!」
少年の一人が、自慢げに胸を張った。
「文字にして書いておくと、後から思い出すのがずっと楽になるんだって、レオン兄ちゃんが言ってた!」
「それは実に見事な心がけだ。記録は記憶を補う最上の道具だからな」
マコトは、自らが提唱する事務処理の基本が、村の幼い世代にまで確実に浸透しつつあることに、深い満足感を覚えていた。
昼下がり、会所の重い木扉が開き、レオンが大冊を両手で恭しく抱えながら入ってきた。
「大旦那様、今お時間を少々よろしいでしょうか」
「やあ、レオン。何かな」
「はっ。実は、新しき篇の編纂について、少々お耳に入れたきことがございまして」
レオンは机の上に『馬鈴薯の書』を広げ、すでに完成している二つの篇の表紙を示した。
『最初の一篇:馬鈴薯』
『第二篇:馬鈴薯』
マコトはそれを見下ろし、静かに頷いた。
「ああ、それなら以前に確認した通り、実務に即した正しい構成だ。それで?」
レオンは少しだけ極まり悪そうに、しかし真剣な眼差しを向けた。
「実は、これより『第三篇』の執筆に移行しようと考えているのですが……その、中身がやはり、すべて馬鈴薯に関わる事柄ばかりなのです」
マコトはレオンの顔をじっと見つめた。
「……それが、どうかしたのか?」
レオンはその揺るぎない眼光に、思わず言葉を詰まらせた。
「え……その、三つの篇がすべて同じ表題で並ぶというのは、書物として少々、奇妙に映るのではないかと懸念いたしまして……」
マコトはしばらく腕を組んで考え込んでいたが、やがて明快に首を横に振った。
「いや、まったく奇妙ではないな」
「と、仰いますと?」
「記録の本質は、情報の正確な分類にある。もし、この村が今まさに注力している実務のすべてが馬鈴薯に関するものであるならば、その記録が馬鈴薯だけで満たされるのは、むしろ必然だ。ここで体裁を気にして、無理に他の作物の話を混ぜたり、存在しない英雄譚をでっち上げたりすれば、それこそ読者を混乱させるだけの無価値な書物になり下がる」
マコトは本を閉じ、レオンの肩を軽く叩いた。
「中身が馬鈴薯であるなら、表題も馬鈴薯で通すべきだ。一切の虚飾を排し、現状を正確に写し取る。それこそが、正しいドキュメント化というものだよ。迷わず、そのまま続けなさい」
レオンはその言葉の重みに、震えるほどに感動していた。
(……一切の虚飾を排し、現状を写し取る。大旦那様は、この『馬鈴薯』という極めて素朴な存在の中にこそ、この世の混じり気のない純粋な真理が宿っていると仰っているのだ。これぞ、真の神の意志……!)
彼は深く頭を下げ、その本を神聖な器の如く受け取った。
「ははっ! このレオン、迷いを捨て、愚直にその道を邁進いたします!」
「ああ、その調子で頼むよ」
マコトは満足そうに微笑むと、そのまま畑の巡回へと戻っていった。
会所へと戻ったレオンの顔には、もはや一分の迷いも残されていなかった。
「レオン、大旦那様は何と……?」
待ち構えていたリナが駆け寄ると、レオンは力強く頷いて見せた。
「大旦那様は『迷わず、そのまま続けよ』と仰ってくださった。虚飾を排したその姿こそが、あるべき形なのだと」
モレンが白髭をなでながら、我が意を得たりとばかりに笑んだ。
「やはりな。あのお方の御心に、現世のつまらぬ形式美など通用せぬ。なれば、書くがよい」
レオンは新たな頁の最上段に、いささかの躊躇いもなく筆を走らせた。
『第三篇:馬鈴薯』
彼は筆を置き、モレンを見つめた。
「モレン村長。しかし、このまま大旦那様のお言葉をすべて書き留めていけば……本当に、この一冊のすべてが馬鈴薯の文字で埋め尽くされてしまいますね」
老村長は、愛おしげにその堅い表紙を撫でまわした。
「……それが世界の真理であるならば、そうなるのが当然であろうな」
会所の中は、再び穏やかな、しかし確固たる決意に満ちた笑い声で満たされた。
そんな騒ぎが起きているとは夢にも思わない最高神マコトは、今日も一籠の種芋を肩に担ぎながら、初夏の爽やかな風を受け、ただただ真っ直ぐに畑へと歩みを進めるのだった。彼が心血を注いでいる『農業マニュアル』が、数百年後の未来において、全大陸の知識人たちが「この世のあらゆる真理が馬鈴薯の中に暗号化されている」と大真面目に議論を交わす、前代未聞の神秘なる聖典へと変貌していくことを、彼はまだ、これっぽっちも知らなかった。




