第58章 馬鈴薯の書・其の二
記念すべき『最初の一篇:馬鈴薯』がその大冊に刻まれてからも、青年レオンの執筆への渇きが癒えることはなかった。それどころか、日を追うごとにその熱意は狂気にも似た速度で膨れ上がっていく。
朝霧がまだ畑を白く包む時刻、彼は会所の机で最初の一篇をはじめから終わりまで、幾度も指先でなぞりながら読み返していた。種芋の選別、切断、保管、定植、灌漑、そして収穫――。
「完璧だ。非の打ち所がない」
レオンは満足げに深く頷いた。しかし、彼の視線が机の脇に山積みにされた、未だ整理のつかない無数の反故紙や端切れの羊皮紙へと移った瞬間、その眉間には再び深い皺が刻まれた。そこには、大旦那様が日々ふと口にされる、さらに細かな農事の知恵が、雑多な落書きのように散乱したまま遺されていたからだ。土壌の性質、肥料の配合、害なす雑草の駆除、そして葉を蝕む病の兆候。それらは未だ体系化されず、ただの断片として眠っている。一篇が完成したからといって、作業が終わったわけではない。むしろ、本当の編纂はここから始まるのだと、彼は身震いするような使命感を覚えていた。
そこへ、朝の涼風を連れてリナが部屋に入ってきた。レオンの前の山のような紙片を見て、彼女は小さく眉を上げた。
「まだ、これほどの記述が遺されていますの?」
「ああ。大旦那様の英知は、我らの想像を遥かに超えて底が浅くない。これらをこのまま放置しておくわけにはいかないだろう。だが、最初の一篇にはもう収まりきらないんだ」
リナは紙片のいくつかを手に取り、そこに記された文字を追いながら、唇に微かな笑みを浮かべた。
「なれば、迷う必要はありませんわ。次の一篇をお作りなさいな」
「次の一篇……『第二篇』か」
「ええ、そうですわ」
「しかし、その……中身がな」
二人は同時に沈黙した。紙片に記された内容をいかに分類しようとも、その根底にある主題は、驚くほど一貫していたのだ。角度こそ違えど、それはやはり、あの丸い土の恵みに関する記述に他ならない。
レオンは困ったように、しかしどこか楽しげに首を振った。
「妙なこともあるものだな」
「何がですの?」
「最初の一篇の主題は馬鈴薯だった。そして、この第二篇に収めるべき事柄もまた……すべて馬鈴薯のことばかりだ」
リナは堪えきれずに、鈴を転がすような笑い声を上げた。
「仕方がありませんわ。それが現実なのですもの」
ちょうどそこへ、朝の巡回を終えた村長モレンが、杖を突きながら入ってきた。二人の若者の妙な笑い声を耳にし、老村長は不審げに白髭を揺らした。
「朝から何をそんなに愉しそうにしているのだ」
「モレン村長、実は第二篇の編纂を始めようとしているのですが……」
レオンが困惑の混じった顔で、整理された紙片の束を差し出した。
「中身を精査したところ、やはりどれも大旦那様が説かれた馬鈴薯の事柄ばかりなのです。これでは表題をいかにすべきか」
モレンは老眼鏡をかけ、それらの記述を一つずつ、慈しむように読み下していった。土の圧迫を防ぐ方法、黄色く変色した葉の対処法、栄養を奪う雑草の見分け方。すべてを読み終えると、老村長は深く、厳かに首をうなずかせた。
「ふむ、間違いなく馬鈴薯だな」
「では、やはり……」
「そのまま記すがよい」
「表題はいかがいたしますか?」
モレンは一分の迷いもなく、至極当然の如く言い放った。
「『第二篇』だ」
「その、副題は……」
「馬鈴薯、以外に何がある」
会所の中は、一瞬の静寂ののち、温かな笑い声で満たされた。それは決して、大旦那様の教えを軽んじる不敬な笑いではない。ただ、世界のすべてがその一つの丸い芋の理の中に収まっているという、あまりにも圧倒的な現実に直面した者が抱く、畏敬の混じった愉悦の笑いであった。レオンはすぐに羽根筆をインクに浸し、新たな頁の最上段に、誇らしげにその文字を刻んだ。
『第二篇:馬鈴薯』
その頃、村の中央の開墾地では、マコトが青々と茂り始めた苗の間にしゃがみ込み、土の湿り気を確認していた。そこへ、一人の若い農夫が、不安げな面持ちで駆け寄ってきた。
「大旦那様、少々よろしいでしょうか。こちらの畝の、この数株だけ、葉の先が妙に黄色く変色しておりまして。病の前兆でしょうか」
マコトは腰を落とし、その株の根元をじっと観察した。さらに周囲の土壌を指先で軽く掘り返し、そこから生えていた、目立たない小さな雑草を一株、根こそぎ引き抜いて見せた。
「原因はこれだ」
「え……雑草、でございますか?」
「ああ。この種の野草は根を深く張り、地中の養分を他の作物から強引に奪い取ってしまう性質がある。葉が黄色くなっているのは、病気ではなく、単なる栄養失調だな」
「では、いかにすべきでしょうか」
「見つけ次第、すべて根から引き抜きなさい。それだけで十分だ」
「ははっ! それだけで!」
農夫は安堵の表情を浮かべ、すぐさま周囲の雑草を丁寧に毟り(むしり)始めた。マコトはその手際の良さをしばらく眺め、満足げに頷いた。
「余計な雑草さえ取り除いてやれば、地中の馬鈴薯は自ずと健やかに育つ。作物の声に耳を傾けるのが、農事の基本だからな」
その言葉が発せられた瞬間、畝の影からガサゴソと音がして、レオンが獲物を見つけた野獣のような鋭い目で大冊を広げ、猛然と筆を走らせ始めた。マコトはもはや突っ込む気力もなく、自らの言葉がまた一つ『マニュアル』に蓄積されていくのを静かに見守るのだった。
昼下がり、会所の机の上で、新たに書き加えられた頁をリナが朗々と読み上げていた。
「雑草駆除の要領。健全なる葉の識別。土壌の過密を防ぐ手法」
モレンは目を閉じ、その言葉の響きを一つずつ、魂に刻み込むように聞き入っていた。記述が増えるたびに、この書物は単なる農作業の手順書という枠組みを完全に超越していく。それは、土に生きる民が何世代にもわたって守るべき、生活の、そして生命の『指針』そのものであった。
「大旦那様は……我らに、これほどまでに膨大な理を授けてくださっていたのだな」
モレンの呟きに、レオンがしみじみとした笑みを浮かべた。
「ええ。しかも恐ろしいことに、あのお方ご自身は、それをごく当然の日常の営みとして、何ら誇ることもなく実践されているのです。ご自分がどれほど偉大な真理を垂れておられるか、おそらく自覚すらされていないのでしょう」
リナもまた、敬虔な眼差しで表紙を見つめた。彼らにとって、マコトのその「無自覚な偉大さ」こそが、現世のあらゆる権力者や偽りの神々を遥かに凌駕する、本物の神格の証に他ならなかった。
その日の夕暮れ時、試作肥料の配合表を届けるために会所を訪れたマコトは、入るや否や、レオンから弾議するような勢いで出迎えられた。
「大旦那様! お待ちしておりました!」
「やあ、レオン。熱心なのはいいが、少し落ち着きなさい」
「ははっ! 実は、先ほどの教えをもとに、新しき篇を立ち上げました。もしよろしければ、ご確認を!」
「ほう、もう次の分類に進んだのか。作業が早くて助かるよ」
マコトは差し出された大冊を受け取り、開かれた頁に目を落とした。そこには、前頁の清らかな筆跡に続いて、太々とこう大書されていた。
『第二篇:馬鈴薯』
マコトは数秒の間、その文字をじっと見つめた。それからゆっくりと顔を上げ、怪訝そうな眼差しを三人に向けた。
「……なぜ、第二篇の表題も馬鈴薯なんだ? これでは最初の一篇と区別がつかないだろう」
レオンは一瞬、神の叱責を受けたかのように身体を硬直させたが、意を決したように声を絞り出した。
「それは……その、中身がどこをめくっても、大旦那様の授けてくださった馬鈴薯の真理ばかりでございまして。他の言葉を冠することが、どうしても出来なかったのです」
マコトは再び頁をめくり、そこに記された雑草の駆除や土壌の管理の手順を素早く精査した。確かに、どれもこれも馬鈴薯の栽培における重要な実務情報ばかりである。
「なるほど……。いや、お前の言う通りだ。私が悪かった」
マコトの口から出た想定外の謝罪に、三人は一斉に息を呑んだ。
「実務の記録というものは、中身を正確に示すことが何よりも優先される。もしここで、見栄えを気にして無理に別の表題を捏造してしまえば、それは記録としての正確性を著しく損なう行為だ。情報の検索性を担保するという目的において、中身が馬鈴薯である以上、表題も馬鈴薯とする。これは極めて合理的で、正しい判断だよ」
マコトは満足げに頷き、大冊をレオンの手へと戻した。彼らの、形にとらわれず実務の本質を見抜く姿勢に、深い感銘を覚えていた。
「その調子で、実務に即した正確な記録を続けてくれ。期待しているよ」
「は、ははっ! 身に余る光栄にございます!」
マコトは穏やかに微笑むと、用件を済ませてそのまま夜闇の街道へと去っていった。彼の頭の中は、明日の苗木の生育状況のことで満たされており、これっぽっちの疑念も抱いていなかった。
しかし、会所に残された三人の胸の内には、マコトの去った後も、静かな、しかし底知れない衝撃の余波が広がり続けていた。
一篇が丸ごと馬鈴薯に捧げられるのは、まだ理解できた。
二篇が続けて馬鈴薯に費やされるのも、辛うじて納得はできた。
だが、彼らはふと、恐ろしいほどの予感に身震いせずにはいられなかった。
あの大いなる御方は。
ただ一つの、あの泥臭く丸い『馬鈴薯』という存在だけを用いて。
一体どれほどの、世界の真理と深遠なる英知を、これからも我らに説き明かされるおつもりなのだろうか、と――。
何も知らない最高神マコトは、今日も初夏の美しい月光を浴びながら、明日の草むしりの手順を頭の中で完璧に組み立て、ただただ平穏な日常の中を歩み続けるのだった。




