第57章 馬鈴薯の書・其の一
マコトが自らの直筆をもって至高の一文を書き加えてからというもの、ルナ村の会所の空気は、それまでとは明らかに異なる微かな緊張感を帯びるようになっていた。
誰もその変化を大声で口にすることはなかったが、青年レオンが大冊を開く際の手つきは、以前にも増して絹糸を扱うかのように慎重であり、娘のリナもまた、頁をめくるたびに息を潜めていた。村長モレンにいたっては、大冊が置かれた机に近づく前に、必ず井戸端で冷水を使って両手を清め、乾いた布で入念に水分を拭い去ってからでなければ、その羊皮紙に触れようともしなかった。百年、二百年という果てしない歳月を超えてこの記録を後世に伝えるならば、今この瞬間から、至高の神聖さを保ち続けるのは当然の務めである――老村長はただ、声なき決意をもってその実践を繰り返していたのである。
その朝も、会所にはいつもの顔ぶれが集まっていた。
机の中央には『馬鈴薯の書』が厳かに広げられ、レオンは羽根筆を握り、リナは畑の各所から集めた細かな覚え書きの束を整理していた。モレンは老眼鏡をかけ、これまでに書き連ねられた頁をじっくりと精査していたが、やがて静かに本を閉じると、深い皺の刻まれた顔を上げた。
「……少し、問題が生じたな」
その言葉に、レオンが弾かれたように顔を上げた。
「問題、でございますか? どの記述に不備がございましたでしょうか」
「いや、大旦那様のお言葉そのものに間違いがあるはずもない。問題なのは、我らの側の書き方だ。その……骨組みのな」
モレンは、堅い表紙を指先でトントンと軽く叩いた。
「記述の並びだ。このまま思いつくままに書き連ねていっては、後から目的の言葉を探し出すのが甚だ困難になる」
リナが手元の束をまとめながら、深く同意するように頷いた。
「お父様の仰る通りですわ。今の中身は、種芋の選び方のすぐ隣に水路の引き方が書かれていたり、かと思えば次の頁には保管の注意書きがあったりと、あらゆる事柄が混ざり合ってしまっていますもの」
レオンは、かつてマコトが口にした『優れた記録というものは、後からの検索が容易でなければならない』という言葉を思い出し、合点がいったように頷いた。
「なるほど、事務処理の効率化というやつですね。では、いかにしてこの難局を打開すべきでしょうか」
モレンは老練な微笑を浮かべた。
「分かつ(わかつ)のだ」
「分かつ、とは?」
「事柄ごとに、いくつかの『篇』、あるいは『章』として、明確に境界を設ける。その方が、格段に見通しが良くなる」
「それは素晴らしい意向ですわ」
リナの賛同に、レオンはすぐさま大冊の、まだ何も書かれていない新しい頁を開いた。
「では……その記念すべき『最初の一篇』には、いかなる表題を冠するべきでしょうか」
その問いに、会所の中は一瞬の静寂に包まれた。答えはすでに全員の胸の内にあったが、誰からともなく口にするのを、互いに待ち合っているかのような、奇妙な厳かさがあった。
やがて、モレンが極めて自然な口調で、その言葉を紡ぎ出した。
「馬鈴薯、以外にはあるまいな」
その瞬間、一同は一斉に深く首をうなずかせた。
「当然ですわ。それ以外は考えられません」
「ああ、我らの命を救い、この村の礎となった大いなる実り。最初を飾るに、これほどふさわしい文字は他にあるまい」
レオンは敬意を込めて羽根筆にインクを含ませると、まっさらな羊皮紙の最上段に、迷いのない美しい文字を刻み込んだ。
『最初の一篇:馬鈴薯』
彼は書き終えた文字をしばらくの間、うっとりとした表情で見つめ、満足げに笑みを浮かべた。
「見事な出来栄えです。これならば、誰が見ても一目で理解できましょう」
その頃、村の中央にある種芋の貯蔵庫では、マコトが入植してきたばかりの数人の農夫たちを前に、泥のついた馬鈴薯の種芋を手に取って検分していた。
「大旦那様、こちらの種芋はいかがでしょうか。明日にも植え付けを行おうと考えているのですが」
農夫が差し出した芋を、マコトは手の中でゆっくりと転がしながら、その切断面を凝視した。
「……いや、この個体はまだ植えては駄目だ。切り口の表面が十分に乾燥していない」
「はあ、乾燥でございますか? 乾いていないと、何か問題が……?」
「水分が残ったままの状態で土に埋めれば、土中の雑菌が傷口から侵入し、発芽する前に芋そのものが腐ってしまう確率が跳ね上がる。基本中の基本だな」
農夫は、まるで天啓を受けたかのように、何度も激しく頭を下げた。
「では、いかにすべきでしょうか」
「あと二日ほど、風通しの良い日陰で寝かせておきなさい。切り口がしっかりと乾き、薄い皮のような組織が形成されてから植え付けるんだ」
「ははっ! 仰せの通りにいたします!」
そのやり取りの最中、少し離れた柱の陰から、レオンが滑り込むようにして現れ、腰の小袋から大冊を取り出して素早く筆を走らせていた。
マコトはその様子に気づき、呆れたような、しかしどこか満足げな視線を向けた。
「レオン。また私の実務的なやり取りを記録しているのか」
「はい! 大旦那様の尊き教えを一文字も漏らさぬよう、こうして!」
「熱心なのは良いことだが、一つ注意しておこう」
マコトは種芋を籠に戻し、真面目な顔でレオンを見据えた。
「ただ『二日待て』とだけ書くのは止めなさい。必ず、その背後にある『理由』を併記するんだ」
レオンは動かしていた筆をぴたりと止めた。
「……理由、でございますか?」
「そうだ。なぜ二日待つのか、その理由が書かれていなければ、後から読んだ人間はただの『暗記』としてしかそれを捉えられない。それでは応用が利かなくなる。大切なのは、現象の原因を理解し、自ら考える力を養うことだ。それが、正しい技術伝承というものだよ」
レオンは、雷に打たれたかのように目を見開いた。
(……ただの行動の指示ではない。大旦那様は、我ら凡愚の民が『自ら思考し、世界の理を解き明かす智慧』を持つことを望まれているのだ。これこそが、盲目的な信仰を超えた、真の導き……!)
彼は興奮に震える手で、今しがたマコトが口にした理由を、羊皮紙の余白へとなぞるように書き加えていった。
『切り口を乾燥させ、土中の害悪を防ぐべし。これ、単なる作業の型にあらず、土の理を理解するための大いなる一歩なり』
マコトはその記述を横から一瞥し、心の中で満足げに頷いた。
(よし。これでただの手順書ではなく、なぜその作業が必要なのかが論理的に伝わる優れた教材になった。彼らの理解力も、日に日に増しているな)
マコトは自身の事務主義と合理的思考が村に浸透しつつあることに、深い達成感を覚えていた。
昼下がり、会所へと戻ったレオンは、持ち帰った新しい記述をリナに手渡した。羊皮紙に走る文字を追いながら、リナの美しい瞳が次第に驚愕に染まっていく。
「レオン……これは、一体……」
「大旦那様が直々に授けてくださった、新しい教えだ」
「大旦那様は、私たちが何をすべきかという結果だけでなく、常にその根底にある『理』を説いてくださるのね……」
レオンは深く息を吐き出し、自らの椅子に腰掛けた。
「ああ。それを正確に言葉にするのが、何よりも難しく、同時に何よりも尊い作業なのだと感じるよ」
それまで静かに二人のやり取りを見守っていた村長モレンが、慈愛に満ちた微笑を浮かべながら、ゆっくりと口を開いた。
「それこそが、凡人と大いなる御方との決定的な違いなのだよ、お前たち」
「違い、と言いますと?」
「並の者は、ただ過去の『習わし』をそのまま盲目的に引き継ぐ。だが、あのお方は、物事の根源にある『考え方』そのものを我らに遺そうとされているのだ。我らをただ従わせるのではなく、智慧ある存在へと引き上げようとされている。なんと底知れぬ慈悲深さであろうか」
会所内は、再び厳かな静寂に包まれた。モレンの言葉は、集まった若者たちの胸の奥深くに、至高の真理として染み渡っていった。だからこそ、マコトの語る実務的な言葉のすべてが、彼らにとって世界の法則そのものとして、完璧な説得力をもって響くのだった。
その日の夕暮れ時、畑からの帰り道に会所の前を通りかかったマコトは、窓辺にいたレオンに呼び止められた。
「大旦那様!」
「やあ、レオン。まだ作業をしていたのか」
「はい! 大旦那様の仰せの通り、この書物をいくつかの『篇』に分類し、整理いたしました!」
マコトは足を止め、興味深そうに眉を上げた。
「ほう、それは実に見事な判断だ。分量が増えた文書は、あらかじめ性質ごとに分類しておかねば、後からの実務で使い物にならなくなるからな。素晴らしい効率化だ」
レオンの顔が、これ以上ないほどの歓喜に満たされる。
「お褒めに預かり、恐悦至極にございます!」
「それで……その記念すべき『最初の一篇』には、一体何を据えたんだ?」
マコトの問いに、レオンは誇らしげに、しかし最も敬虔な声を響かせた。
「馬鈴薯にございます」
マコトは数秒の間、その答えを頭の中で咀嚼し、やがて得心がいったように小さく頷いた。
「ふむ、至極真っ当な選択だ。この村の経済と農業の根幹を支えているのは、間違いなく馬鈴薯だからな。現状の優先順位を正確に把握している証拠だ。その調子で頼むよ」
「ははっ! ありがたき幸せにございます!」
マコトは満足そうに微笑むと、そのまま夕闇に染まる街道を、のんびりとした足取りで我が家へと帰っていった。彼の頭の中は、村の事務能力の向上と、来週の肥料の配合計画のことで満たされており、それ以上の意味など塵ほども考えていなかった。
しかし、会所に残された若者たち、そして彼らが紡ぎ出した『馬鈴薯の書』の行く末を、彼は知る由もなかった。
この日、大冊の巻頭に刻まれたその極めて素朴な一文――。
『最初の一篇:馬鈴薯』
これが、数十年、数百年という果てしない未来において、大陸全土の巡礼者たちが、涙を流しながら一字一句を暗唱し、世界の創世を讃える絶対の聖句として崇め奉られることになろうとは。
何も知らない最高神マコトは、今日も爽やかな夜風を浴びながら、種芋の乾燥具合に満足し、ただただ平穏な日常の中を歩み続けるのだった。




