第56章 この書を記せし者は誰か
ルナ村の住人たちがいつしか『馬鈴薯の書』と呼び習わすようになったその大冊は、日を追うごとに、目に見えてその厚みを増していった。青年レオンが畑の泥にまみれ、あるいは会所の灯火の下でマコトの言葉を漏らさず書き留め、それを娘のリナが厳かな手つきで端正な文字へと清書していく。時折、村長であるモレンが老眼鏡の奥の目を細め、頁の順序に狂いがないかを確かめるように全体を読み返す。当初は単なる村の備忘録、あるいは実務的な農事の記録として始まったささやかな作業は、誰に強制されるでもなく、彼らにとって朝夕の祈りにも似た、不可欠な日常の営みへと昇華しつつあった。しかし、その記録の積み重ねが、やがてどれほど重々しい意味を持つに至るか、この時の彼らはまだ知る由もなかった。
ある晴れた朝、初夏の爽やかな風が会所の格子窓から吹き込み、開かれた頁を静かに揺らしていた。
マコトは、村の開墾計画を再確認するために、土地の区割りを示した絵図面を借りに、いつもより半刻ほど早く会所へと足を運んだ。重い木扉を押し開けて中に入ると、室内にはまだ人の気配がなく、ひんやりとした朝の空気が満ちている。レオンもリナも、まだ登庁していないようだった。ふと見ると、主を失った中央の机の上に、あの大冊がぽつんと開かれたまま置かれている。見覚えのあるその革の表紙に、マコトは自然と歩み寄った。
他に急ぎの用があるわけでもなく、彼は手持ち無沙汰にその頁を数枚、指先でめくってみた。
『種芋の選別。株間の選定。水路の差配』
整然と並ぶ文字の列を追いながら、マコトは心の中で小さく頷いた。
(ふむ、書き写しの精度はすこぶる高いな。数字の誤りも見当たらない)
彼はさらに次の頁をめくった。そこにもやはり、馬鈴薯の土寄せに関する細かな手順が記されている。もう一頁めくる。そこには肥料の施し方。さらにめくっても、一貫して馬鈴薯の栽培法に関する記述が続いていた。
「ほう」
マコトの口から、感心したような呟きが漏れた。これほど網羅的に農事の知恵が網羅されていれば、今年から新しく入植してきた新米の農夫であっても、何ら迷うことなく作業を進められるだろう。情報の共有化と平準化という意味において、この本はすでに、初期の目的を遥かに凌駕する見事な実用書としての価値を備えつつあった。
そこへ、数枚の反故紙を抱えたレオンが、息を切らせて部屋へと飛び込んできた。
「大、大旦那様!? これは失礼いたしました!」
「いや、構わないよ。おはよう、レオン」
「い、いつからこちらに……? 申し訳ありません、昨晩の記録をまだ清書し終えておらず、机の上が散らかったままで……」
レオンは、マコトが『馬鈴薯の書』を直に手にしているのを見て、見る間に顔の血の気を引かせた。彼らにとって、神の経典を未完成のまま主の眼前に晒すなど、最大の不敬に値する行為だったからだ。
しかし、マコトはただ、穏やかな目で羊皮紙の記述を見つめていた。
「いや、十分に整然としている。見やすい文字だ。ところで、少し気になったのだが」
マコトは本を机に置き、レオンの目をまっすぐに見つめて尋ねた。
「この書を記しているのは、一体誰なんだ?」
レオンは一瞬、言葉の意味が掴めずにその丸い目をしばたたかせた。
「え……? 誰、と仰いますと……」
「頁によって、文字の筆跡が微妙に異なっているだろう。ほら、この最初の数頁と、中ほどの頁、そして巻末に近い部分では、明らかに書き手の癖が違っている」
マコトに指摘され、レオンは合点がいったように安堵の笑みを浮かべた。
「ああ、そういうことでございましたか。はい、大旦那様の仰る通りです。最初の部分は不肖、私レオンが書き殴ったものでして、中ほどにある美しい文字はリナが清書したものです。そして、巻末の数頁は、村長であるモレンが自ら筆を執りました」
マコトはもう一度、その筆跡の違いを確かめるように頁をめくった。確かに形は三者三様であったが、そこに記されている内容の正確性と、農事に対する真摯な熱量は、驚くほど一貫している。
「なるほど、それは実に賢明な判断だ」
「はあ……賢明、でございますか?」
「ああ。このような膨大な記録を、たった一人の人間に委ねてしまっては、その書き手の負担が大きすぎる。作業の分散と複数人による相互の確認は、記録の継続性を担保するための基本だからな」
「なるほど……。モレン村長も、まさに同じようなことを申しておりました。やはり、大旦那様の見識の深さには恐れ入ります」
レオンは深く感銘を受け、マコトの「分業の重要性」を説く言葉に、至高の配慮を感じ取っていた。
そこへ、ちょうどリナが会所の敷居を跨いで入ってきた。マコトが未だに自分たちの編纂している大冊を手にしているのを見て、彼女もまた表情を強張らせ、小走りで机へと歩み寄った。
「大旦那様、おはようございます。その……書物に、何か不都合な点でもございましたでしょうか?」
「いや、不都合などないよ」
マコトは首を横に振った。
「ただ、少し気になっただけだ」
「気になった、と言いますと……?」
「この文字を、一体誰が書いたのかと思ってね」
リナは張り詰めていた肩の力を抜き、小さく笑った。
「まあ、そのようなことでございましたか。私はてっきり、何か重大な書き損じでも仕出かしてしまったのかと、肝を冷やしましたわ」
「まさか。今のところ、不備は見当たらないよ」
マコトのその「今のところ、見当たらない(まだ全てを精査したわけではない)」という、事務官特有の厳格な物言いは、レオンとリナの背筋を瞬時に正させた。すなわち、大旦那様はただの世間話ではなく、この書物の正当性を今まさに『審査』されているのだ、と彼らは解釈したのである。二人は自然と居住まいを正し、息を呑んでマコトの次の指先を見つめた。
マコトは再びパラパラと頁をめくっていき、ある一行の前でその指を止めた。
「……ここだな」
レオンが弾かれたように身を乗り出した。
「はっ! いかがいたしましたか!」
「この記述だが、いささか説明が不足している。言葉が足りないな」
レオンは生唾を飲み込んだ。神の不興を買った箇所は一体どこなのか。マコトの指先は、次の一行を冷厳に指し示していた。
『収穫せし馬鈴薯は、常に涼しき場所に保管すべし』
「はい、確かにそのように。何か間違いが……?」
「いや、間違いではない。だが、これだけでは不十分だ」
マコトはそう言うと、机の上に置かれていた羽根筆を躊躇いなく手に取った。インク壺にペン先を浸すと、美しい文字が並ぶリナの清書のすぐ真下の余白へ、実務的で一切の無駄がない彼特有の文字を書き加えた。
『ただし、過度の湿気は厳禁なり。さもなくば速やかに腐敗を招く。常に通風を意識せよ』
書き終えると、マコトは満足そうに羽根筆を台座へと戻した。
「よし。これでようやく、栽培から保管にいたる一連の手順として、完璧なものになった」
レオンとリナは、あまりの衝撃に言葉を失い、机の上の羊皮紙をただ凝視していた。
大旦那様が……神が、直々に私たちの紡いだ書物に『神託』を書き加えられた。それは、人間がどれほど智慧を絞っても至り得なかった、農事の絶対的な欠落を補うための、慈悲深き直筆の教えに他ならなかった。
「あの……大旦那様」
レオンが、震える声をどうにか絞り出した。
「何かな?」
「この……いま書き加えられたお言葉は、このまま……このまま残しておいても、本当によろしいのでしょうか?」
マコトは不思議そうに眉をひそめた。
「当然だろう。せっかく補足した重要な実務情報を、なぜ消す必要があるんだ? そんなことをすれば、情報の価値が著しく損なわれる。極めて不効率な行為だ」
レオンは壊れた人形のように、何度も激しく首を縦に振った。
「は、はい! 決して、決して消すようなことはいたしません! 我が一族の命に代えましても、このまま守り抜きます!」
「いや、だから命をかけるような大層な話じゃないんだが……。まあ、記録の正確性を保ってくれるならそれでいい。では、私は畑の区割りを見てくるよ」
マコトは穏やかに微笑むと、満足げに会所を後にした。彼は、村の指導層が自身の事務的な補足を素直に受け入れ、記録の価値を理解してくれたことに、深い達成感を覚えていた。
マコトの足音が完全に街道の彼方へと消え去った後も、会所の中には、押し潰されるような沈黙が延々と支配していた。
レオンは、未だインクの黒々とした光沢を放つその一文を、凝固したように見つめ続けていた。リナは、その頁の端に触れることさえ恐れるかのように、指先を小さく震わせている。
そこへ、朝の巡回を終えた村長モレンが、のんびりとした足取りで入ってきた。二人の若者が彫像のように硬直しているのを見て、老村長は不審げに眉を上げた。
「お前たち、一体どうしたというのだ。そんな顔をして」
レオンは言葉を返す代わりに、ただ黙って、机の上のその一頁を震える指先で指し示した。
「モレン村長……大旦那様が……」
「大旦那様が、いかがなされた?」
「大旦那様が今、この書物に……直々に御手を触れられ、ご自身の直筆を書き残していかれたのです……!」
「何だと……!?」
モレンは老体らしからぬ素早さで机へと歩み寄り、大冊を両手で恭しく持ち上げた。その老眼が、レオンの文字でも、リナの文字でも、そして自分自身の文字でもない、全く異なる『第四の筆跡』を捉えた瞬間、彼の全身を激しい震えが襲った。
それは、実務的でありながらも、どこか現世の理を超越したような、揺るぎない絶対の説得力を持つ文字の列であった。
モレンは、涙の滲む目を何度も瞬かせながら、その神聖なる一文を指先でなぞった。そして、厳かな、しかし確固たる決意を秘めた声で告げた。
「……レオン、リナ。よく聞きなさい」
「は、はい」
「これより、この頁、この一文に関しては、未来永劫、いかなる理由があろうとも、他の羊皮紙への『清書』や『書き直し』を一切禁じます」
レオンが怪訝そうに目を丸くした。
「なぜですか、村長? リナの綺麗な文字で書き直した方が、後世の者が読む際に……」
「愚か者め」
モレンは静かに、しかし重々しく首を振った。
「その必要はまったくない。なぜなら、この一文こそは、大旦那様がこの現世に現れ、我らルナ村の民のために直々に書き記された、最初の『神なる指の奇跡』そのものだからだ。この文字の掠れ、インクの滲み、そのすべてが、我が村の至宝であり、神の現れに他ならんのだ。この頁は、このままの形で、永劫に伝承せねばならん」
会所の中は、再び静寂に包まれた。誰もその決定に異を唱える者はいなかった。ただ、彼らの胸の内に、言葉に尽くせぬほどの激しい高揚感と、鋼のような信仰の楔が打ち込まれた。
この『馬鈴薯の書』は、もはや人間が神の言葉を追うための単なる記録ではない。神と人とが共に紡ぎ出した、真の聖典へと昇華したのだ――。
そんな騒ぎが起きているとは露知らず、畑へと戻ったマコトは、すでにその一件を頭から完全に消し去っていた。彼にとっては、マニュアルの不備を現場の人間として一言付け足した、ただそれだけの日常の一コマに過ぎなかった。
初夏の豊かな陽光を浴びながら、マコトは愛する緑の苗木に向かって、今日も真っ直ぐに歩みを進めるのだった。




