第55章 馬鈴薯の書
マコトが自らの直筆をもって書物の検印を終えてからというもの、青年レオンの熱意はとどまるところを知らなかった。
彼は夜が明けてから日が暮れるまで、寸時もその書物を手放そうとはしなかった。
土を耕す畑の中へも。
差配を行う会所へも。
そればかりか、泥にまみれて村の木柵を修繕する際でさえ、書物は腰に帯びた小袋の中に厳重に収められていた。
レオンに言わせれば、あの大旦那様が直々に目を倒され、その正当性を認められた至高の記録なのだ。一文字の誤りも、一行の脱落も許されるはずがない。これまで単なる物書きと侮っていた作業が、今や村の命運、いや世界の真理を書き写すかのような、重々しい使命へと変貌を遂げていた。
ある日の夕暮れ時。
会所にはレオンとリナ、そして『豊穣神の集い』に籍を置く若者たちが再び集結していた。
机の中央には、あの二つの題名が並ぶ大冊が恭しく据えられている。村長モレンもまた、静かにその輪に加わっていた。
「一同、これより編纂作業を再開する」
レオンの厳かな宣言に、若者たちは一様に深く頷いた。
レオンが慎重に羊皮紙をめくり、最も新しい頁を開く。
「ううむ……」
彼は筆を握ったまま、わずかに眉をひそめた。
「やはり、いささか記述が少ないな。これでは余白が目立つ」
「仕方がありませんわ」
リナが困ったように微笑みながら、墨をすった。
「大旦那様は、滅多なことでは口を開かれませんもの。私たちが無理にお言葉を絞り出すわけにはまいりませんわ」
「その通りだな」
座に連なる者たちが、一様にため息をついた。
あのお方は、寡黙を絵に描いたような人物であった。こちらから必死に問いを投げかけぬ限り、ほとんどの時間をただ黙々と、土と対話するように働いて過ごされる。
「しかし、このままお言葉を待つだけでは、一冊を埋め尽くすまでに星が何度巡るか分からんぞ」
一人の若者が不安げに口を開いた。
モレンは長い白髭をなでながら、じっくりと黙考していたが、やがて静かに一同を見回した。
「これまで、大旦那様が我らに最も多くを語り、最も深く説かれたのは、いかなる事柄であったか」
その問いが投げかけられた瞬間、会所内は堰を切ったように活気づいた。
「水路の引き方だ!」
「いや、適切な灌漑の量だろう」
「種籾の選別方法だ」
「土壌の性質についてだ」
「勘に頼らぬ計算の重要性だ」
「馬鈴薯だ」
最後の言葉が出た瞬間、一同の口がぴたりと止まった。
皆が互いに顔を見合わせる。
「馬鈴薯……」
レオンがその言葉を低く繰り返した。
リナの唇から、小さな笑みがこぼれ出た。
「言われてみれば、そうですわね。大旦那様が手取り足取り、熱心に説明してくださったのは、いつも馬鈴薯のことでしたわ」
「まさにその通りだ。我らが飢えを凌ぎ、今年こうして豊かな実りを得られたのも、すべてはあのお方がもたらした馬鈴薯のおかげではないか」
「先日の収穫祭も、実質的には馬鈴薯を讃える宴だったな」
モレンは満足げに深く首をうなずかせ、大冊の堅い表紙を指先で軽く叩いた。
「なれば、決まりだな。この書物の第一部には、大旦那様が我らに授けられた馬鈴薯に関する全ての英知を、余すところなく記録するのだ」
異議を唱える者は誰もいなかった。むしろ、若者たちの目は新たな聖戦に挑むかのように、一斉に輝きを帯びた。
その頃、村の外れにある教習用の畑では、マコトが数人の子供たちに囲まれながら、馬鈴薯の種芋を選ぶ実技指導を行っていた。
「いいか、あまりに小ぶりなものは選んではいけない」
「どうして、大旦那様?」
一人の少年が、泥のついた顔を見上げて素朴な疑問を口にした。
「蓄えられている養分が少ないからだ。芽が出ても、勢いよく育ちにくい」
「じゃあ、うんと大きいやつがいいの?」
「それも一概には言えないな」
マコトは足元の籠から、対照的な形状をした二つの馬鈴薯を拾い上げた。
「最も重要なのは――」
彼は一方の芋の表面を指し示した。
「このように、健全で力強い芽目が、しっかりと刻まれていることだ」
子供たちは一言も聞き漏らすまいと、真剣な眼差しでその芋を見つめた。
その光景から少し離れた畝の陰で、レオンが物陰に隠れるようにして大冊を広げていた。彼は興奮に震える手で、素早く筆を走らせる。
『最上の種芋は、健全なる芽目を有するものなり。全体の大きさのみをもって、その価値を測るべからず』
書き終えると、彼はまだ濡れている黒々とした墨に向けて、そっと息を吹きかけた。
その気配に気づいたマコトが、不審そうに視線を向けた。
「レオン。また何か書き留めているのか」
「は、はい! 大旦那様の尊いお言葉を、片時も忘れぬよう!」
「それは感心だな」
マコトは、自らの知識が村に定着していく実感を得て、薄く微笑んだ。
「それだけ熱心に記録してくれれば、後から同じ質問を繰り返さずに済む。効率的で良いことだ」
レオンは勢いよく頭を下げた。
「ははっ! 仰せの通りにございます!」
彼の脳内では、そのマコトの言葉が『我が教えを余すところなく世に留めよ』という、神聖なる編纂の許可証として書き換えられていた。
夜の帳が降りる頃。
会所の机の上の書物は、見違えるほどにその厚みを増していた。
灯火の下で、レオンが新しく書き加えられた頁を朗々と読み上げる。
「種芋の選別法。種芋の切断法。保管の秘訣。定植の心得。株間の規則。灌漑の要領。そして、収穫の時期」
モレンはその言葉を一つずつ噛みしめるように聞き入り、やがて相好を崩した。
「ふむ。このままいけば、この書の半分以上が馬鈴薯の記述で埋め尽くされるな」
レオンは誇らしげに小さく笑った。
「それが現実というものにございます」
リナもまた、楽しげに同意した。
「大旦那様が最も熱を込めて語られるのが馬鈴薯なのですから、当然の結果ですわ。私たちの暮らしの大部分は、あの丸いお芋に支えられているのですもの」
集まった者たちは一様に頷き、その構成に何の不自然さも抱かなかった。彼らにとって、馬鈴薯こそが神の奇跡そのものであったからだ。
翌朝、マコトは再び会所を訪れた。
手には、実験用の畑から得られた試作収穫量の詳細な計算書が握られている。扉を開けて中に入ると、案の定、レオンが寝食を忘れたような顔で、凄まじい集中力を発揮して筆を動かしていた。
「熱心だな。今度は何を記述しているんだ?」
マコトが声をかけると、レオンは恐縮しながらも、今しがた書き終えたばかりの頁を両手で差し出した。
「新しき章にございます、大旦那様」
マコトは差し出された羊皮紙を上から順に読み下していった。
「ふむ……」
彼は少しだけ感心したように声を漏らした。
「なるほど、見事に馬鈴薯の事ばかりだな」
「はい。あのお方の……いえ、大旦那様が最も深く我らに示された真理にございますれば」
マコトは満足げに小さく頷いた。
「理にかなっている。この村が今、最も注力し、発展させようとしているのは馬鈴薯の栽培だからな。現状に即した極めて正しい選択だ」
レオンの顔に、言葉に尽くせぬほどの喜びが走った。
「では……間違いではございませんか?」
「ああ、間違っていないとも」
マコトは書物をレオンの手へと戻した。
「農業の技術伝承を目的とする実務の記録ならば、退屈な神話や出所不明の英雄譚などより、こうした泥臭い栽培の手順が細かく書かれている方が、後世の人間にとって数倍は役に立つ」
レオンはその言葉を聞くや否や、神の啓示を直に受けたかのように目を見開き、今しがたマコトが口にした言葉をその場で即座に余白へと書き留め始めた。
マコトはその様子を眺めながら、心の中で彼らの合理的な姿勢を賞賛していた。
(また書いているな……。だが、素晴らしいことだ。記録が緻密であればあるほど、知識の散逸を防ぐことができる。実に見事な判断だ)
マコトは自身の事務主義が完璧に共有されていると確信し、満足して会所を去った。
しかし、彼は夢にも思っていなかった。
この日を境に、ルナ村の住人たちが、その尊き大冊を別の名で呼び始めることになろうとは。
それはもはや。
『豊穣神の経典』でもなければ。
『業務管理手順書』でもなかった。
人々は畏敬と親しみを込め、その書物をこう呼んだ。
『馬鈴薯の書』
何も知らない最高神マコトは、今日も爽やかな初夏の風を受けながら、農協の指導員さながらの足取りで、ただただ真っ直ぐに、愛する畑へと歩みを進めるのだった。




