第54章 困惑する最高神
マコトがその書物の存在を知ったのは、事の始まりから三日も経ってからのことだった。
初夏の陽光が白々と照らす朝、彼は種籾の配分を記した帳面を携え、いつものように村の会所へと足を運んだ。目的は、村長であるモレンに次週の計画書を手渡すためである。
会所の中では、案の定、モレンが机の上に何枚もの書類を広げて熱心に検分していた。その傍らには青年レオンが控え、少し離れた席では、娘のリナが厚みのある大冊に向かって一心不乱に筆を走らせている。
マコトは足音を立てずに近づき、手にした帳面を机の空いた空間にそっと置いた。
「来週分の種籾の分配計画だ」
「おお、これは助かります、大旦那様」
モレンは顔を上げ、深い皺の刻まれた顔に安堵の笑みを浮かべて帳面を受け取った。
マコトが小さく頷き、用件を済めて帰ろうとしたその時、ふとリナの広げている書物に視線が留まった。羊皮紙の上には、驚くほど端正な文字が整然と並んでいる。一行ごとに十分な余白が取られ、まるで一文字でも書き損じることを恐れるかのような、異様なまでの緊張感と敬意がその筆跡から滲み出ていた。
「……それは、何をしているんだ?」
マコトが何気なく尋ねると、リナは弾かれたように顔を上げた。
「あっ、大旦那様。これは、その……」
「これ、ですか?」
「ああ」
「経典でございます」
マコトは一度、瞬きをした。
「経典?」
「はい」
隣からレオンが誇らしげに胸を張り、言葉を引き継いだ。
「私ども一同で、大旦那様が日々お漏らしになる尊いお言葉を、一つ残らず書き留めておくことにしたのです」
マコトは数秒の間、その分厚い本をじっと見つめた。そして、実務的な観点から得心がいったように満足げに頷いた。
「なるほど。それは効率的だな」
その言葉を聞いたレオンの顔が、ぱっと輝いた。
「やはり、そう思われますか!」
「ああ。あちこちに分散していた細かな通達や注意事項が、一つの場所に集約されていれば、後から検索するのも容易になる。事務処理の基本だな」
「は、はあ……。まさに、その通りでございます。私どもの目的も、まさにそこにございます!」
レオンは興奮気味に何度も頷いた。
マコトは心の中で彼らの成長を喜んでいた。以前のように、裏紙や端切れの羊皮紙にその都度メモを取るような雑なやり方を続けているのではないかと懸念していたが、どうやら彼らもようやく組織的な情報管理の重要性に気づき始めたらしい。実に感心な心がけであった。
「大旦那様」
レオンが恭しく、しかしどこか期待に満ちた目で書物を両手で捧げ持った。
「もしよろしければ、中身をご覧になりますか?」
「構わないよ。見せてくれ」
受け取ったマコトは、表紙をめくって最初の一ページ目に目を落とした。しかし、その最上段に大書された文字を見た瞬間、彼の指がぴたりと止まった。
そこには、金泥を思わせる見事な墨で、こう記されていたのだ。
『豊穣神の経典』
マコトは静かに本を閉じ、真顔で三人を見つめた。
「……タイトルが間違っている」
部屋の空気が一瞬で凍りついた。モレンは胃のあたりを押さえ、やはりそう来られたか、と心の中で天を仰いだ。
「あ、あの、どこに不備がございましたでしょうか……?」
レオンが冷や汗を流しながら、恐る恐る尋ねる。
マコトは本の表紙を指先で軽く叩いた。
「私は豊穣神ではない。以前から何度もそう言っているはずだ」
「は、はい。確かに拝聴しておりますが……」
「だから、直しておく」
マコトは迷いのない手つきで机の上の羽根筆を取り、インクを浸すと、誰も止める間もなく『豊穣神の経典』という五文字の真ん中に、力強く二本線を引いて抹消した。
そして、その直後に、農協の備品台帳に書くような極めて実務的で事務的な文字を、揺るぎない筆致で書き加えた。
『マコト用・業務管理手順書』
筆を置き、マコトは満足そうに頷いた。
「よし。これで中身と名称が正確に一致したな」
会所の中は、再び静まり返った。
レオンは魂の抜けたような顔でその新しい題名を見つめ、リナはあまりの衝撃に持っていた筆を落としそうになっていた。モレンもまた、困惑の極みに達していた。
(神の経典が……ただの『手順書』になってしまった……。なんという無欲。なんという徹底した正体の秘匿。これほど神威を顕現させながら、あくまで一介の農夫としての体裁を崩そうとされないとは……)
しばらくの後、レオンが震える声を絞り出した。
「大旦那様……」
「なんだ?」
「その……そのお名前ですと、少々問題がございまして」
「問題?」
「はい。その、他所の村の者や、これから我らの教えを乞う者にこれを見せた際、何が書かれているのかが、一目で伝わりにくくなってしまうのではないかと……」
マコトは不思議そうに首を傾げた。
「なぜ他所の者に読ませる必要があるんだ? これは身内のための業務記録だろう。他人に誇示するためのものではない」
「それは……その、皆がこれを見て、大旦那様の偉大さを……いえ、正しい農法を学ぶために、興味を持ってもらう必要がございまして」
マコトはしばらく腕を組んで考え込んだが、やがて静かに首を振った。
「それは本末転倒だ。書物の題名というものは、内容を正確に示すためにある。衆目を集めるための看板ではない」
モレンは深くため息をつき、自らの額を押さえた。
大旦那様の仰る論理は、どこまでも正論であり、一分の隙もない。ただ、正論すぎて、信仰に生きる凡人にはあまりにも眩しすぎるのだ。
見かねたモレンが、決死の覚悟で進み出た。
「大旦那様、恐れながら、私に少々妙案がございます」
モレンは羽根筆を取ると、マコトの手によって二本線で消された『豊穣神の経典』の文字を、さらにその上から丁寧に、しかし消さないように縁取る形で書き直した。そして、マコトが書いた『業務管理手順書』の文字もそのまま残した。
結果として、表紙には二つの題名が並ぶこととなった。
『豊穣神の経典』
(マコト用・業務管理手順書)
レオンがほっとしたように胸をなでおろした。
「これであれば、双方の面目が立ちます」
マコトは出来上がった表紙を怪訝そうに見つめた。
「なぜ一つの本に二つもタイトルが必要なんだ? これでは目録を作る際に不便だろう」
「これはいわば……皆の心の平穏を守り、かつ実務を円滑に進めるための、世俗的な知恵でございます」
マコトにはその『世俗的な知恵』の必要性が今ひとつ理解できなかったが、題名がどうあれ、中身の数値や手順が変わるわけではないと思い直した。
「……まあ、中身に影響がないのであれば、好きにするといい」
「寛大な御心、感謝いたします」
マコトは再び一ページ目を開き、そこに記された最初の行を読み上げた。
『常に正確な数量を把握し、曖昧な勘に頼るべからず』
マコトは深く頷いた。
「その通りだ。勘に頼った配分は必ず破綻を招く」
次のページをめくる。
『結果を繕う前に、まずその原因を究明せよ』
「ふむ、実に見事な要約だ。問題の本質を捉えている」
さらに次のページ。
『道具の清掃と保管の徹底は、作業の効率を倍にする』
「素晴らしい。基本がよく行き届いているな」
レオンは緊張のあまり呼吸を止めていたが、マコトの肯定的な言葉を聞くたびに、少しずつ肩の力を抜いていった。
「では……内容に間違いはございませんでしたか?」
マコトはパタンと音を立てて本を閉じた。
「ああ、完璧に正確だ。実務の指針として非の打ち所がない」
三人が同時に安堵の息を漏らした瞬間、マコトは真剣な眼差しで彼らを見据えた。
「ただし、これらを『教え』や『教典』などと呼ぶのは金弁してくれ。これは単なる効率的な『作業手順』に過ぎない。精神的な救いや奇跡を求める者が読んでも、何の役にも端にもかからないぞ」
部屋は再び静寂に包まれた。レオンはただ、深く深く首をうなずかせた。
「は、はい……重々承知いたしております」
(……これこそが、大旦那様が本物の神たる証なのだ。他の偽りの神々は、甘い言葉や奇跡で人を惑わす。だが、大旦那様は『正しく生き、正しく働くこと』そのものを、生きる上での絶対の法則として示される。奇跡に頼らず、自らの手で土を耕し、正しく数えることこそが最大の救いなのだと……。これ以上の高潔な教えが、他にあるだろうか)
レオンの脳内では、マコトの極めて現実的な事務主義が、至高の精神修養論へと華麗に昇華されていた。
帰る間際、マコトは書物をレオンの手にしっかりと戻した。
「その調子で、記録を続けてくれ」
レオンは目を見開いた。
「……よろしいのですか?」
「ああ。情報の属人化を防ぎ、組織として共有するためには、このようなドキュメント化が不可欠だからな。ただし、書き写す際は、数字の一桁、助詞の一文字にいたるまで、絶対に書き損じのないよう細心の注意を払うんだぞ」
レオンは深く頭を下げ、その本を神聖な儀礼の器のように恭しく受け取った。
「この命に代えましても、一文字の狂いもなく伝承してまいります」
「いや、命をかける必要はないが……まあ、それほどの覚悟で正確性を期してくれるなら安心だ。では、私は畑に戻る」
マコトは満足そうに頷き、会所を後にした。村人たちがようやく事務作業の重要性を理解し、真面目に帳簿をつけ始めたことに、彼は深い達成感を覚えていた。
マコトの姿が完全に外の街道へと消えたのを見届けてから、リナが震える手で本を抱きしめ、潜めた声で呟いた。
「……見た? レオン」
「ああ……。大旦那様は、ただの抜き打ち検査ではなく、この書物の全ページに目を通された」
モレンが、畏敬の念に満ちた静かな微笑を浮かべる。
「それだけではない。大旦那様はご自身の御名をもって、この書物を我らの公式な指針として認められたのだ。あの二本線で消された文字の下に、確かに神の直筆が残されておる」
レオンはごくりと唾を飲み込み、表紙の『マコト用・業務管理手順書』という文字を見つめた。
「これは……もはやただの記録ではない。神が直々に検印を授けられた、真の『聖書』だ」
誰もその事実を大声で触れ回る者はなかった。しかし、会所の中にいる全員の胸の内に、鋼のような確信が刻み込まれた。
あの無欲で至高なる神は、自らの教えが民の手によって永遠に編纂されることを、確かに許諾されたのだと――。
何も知らないマコトは、今日も初夏の爽やかな風を受けながら、種籾の計算が狂わなかったことに満足し、ただただ真っ直ぐに畑へと歩みを進めるのだった。




