第53章 聖典の執筆
豊穣の神の会が正式に設立されてから数日の時間が経過していた。
マコトの見解によれば、システム内に何一つとして有意な仕様変更は発生していなかった。彼は漂着初日と全く同様に、稼働時間の大部分を耕作地セクターでの肉体労働に費やしていたからだ。一日の数フェーズにおいてはモーレンの執務室へと立ち入り、村の物流台帳に含まれる極小の計算不整合を地道にデバッグする。それが完了すれば、再び種子オブジェクトの正確な一括分配実務へと帰還する。すべての処理は、これまで通り正常値の範囲内で自動運行されていた。しかし不条理なことに、集会所の中枢執務室の内部においては、事態のベクトルが再び異なるエラーレイヤーへとシフトをキックオフしていたのである。
第一弟子のレオンが、一冊の白紙の羊皮紙台帳をインベントリから取り出し、木製の机の上へと厳かに設置した。モーレンはその無機質なオブジェクトへと網膜のデータを同期させた。
「何かな? 新規の要求仕様を申告しなさい」
「新しい台帳ノートさ、村長」
「そいつは目視すれば一瞬でデコードできる事実だよ」
「あたしね、今日から本格的に、ボスの口腔から出力されるすべての音声パケットを一括してここに記録していきたいんだ」
モーレンは静かに首を縦に振った。
「ああ。そいつはそもそも、この共同組織を設立した初期目的だからね」
その隣の長椅子に就いていた高位の聖職者リナもまた、その白紙の台帳をじっと凝視していた。
「ただの書き散らしたメモデータの状態ではね……」
彼女がおだやかな音声データを出力する。
「……未来のタイムラインにおいて、情報の破片が環境内へと四散し、深刻なデータロストを発生させてしまうのではないでしょうか?」
レオンは完璧な停止を記録した。筋の通った正論だった。これまでの期間、彼らは個体ごとに異なるバラバラの端切れの羊皮紙に、ボスの言葉を非効率に書き換えて保存してきたのだ。一部のデータは自宅のインベントリに格納され、別のデータは耕作地セクターへと物理移動中に風のノイズで紛失しかけていた。もし古くなった管理体制を放置するならば、時間の経過とともに高確率で重要な仕様解説が消去されていくのは明白だった。モーレンは自らの太い指先で木製の机を規則的に打ち付けた。
「ならば、プロシージャを切り替えようじゃないか」
村長は白紙の台帳ノートをロックした。
「……すべての散らばったログファイルをね、この単一のマスターデータベースへと一括統合しなさい」
レオンの表情パラメータが一瞬にして肯定値へと跳ね上がった。
「そいつは処理コストが低くて助かるぜ! もし新しい音声パケットを受信したらさ、その瞬間のフェーズで、直接ここに書き換え登録を当てればいいだけだからな」
すべての個体群が、深く首を縦に振って合意を出力した。その一冊の台帳オブジェクトに、明確な仕様定義が布設された瞬間であった。それはもはや単なる居候のメモ帳などではなく、最高神マコトの放った全文字列を永続保存するための、絶対的な保管庫と化していたのだ。
「公式なタイトルはどうするんだい?」
リナが問いかけた。執務室の全体に、再びおだやかな静寂が沈み込んだ。レオンは数秒の間、思考の処理速度を調整した。
「ボスの記録帳、かね?」
一人の農民が即座に首を横に振って却下した。
「あまりにも常識的な普通すぎる名前だなあ」
「農業の実務マニュアル、では?」
「そいつじゃ、あのお方の持つ高度な管理思想に対して情報の容積が小さすぎるぜ」
モーレンもまた、深い思案のルーチンを回し始めた。やがて唇の端を釣り上げ、一つの不穏な等式を出力したのだ。
「――聖典とするのはどうだい?」
空間の全体に、取り書きのつかない完璧な静止が沈み込んだ。
「聖典、かね?」
レオンが、その文字列を驚きとともに復唱した。
「ああ。あの中に記述されるのはさ、ボスからあたしたち人間の生存格へ向けて送信された、絶対不変の仕様解説だろ?」
「間違いねえな」
「だったらよ……」
モーレンはその白紙の台帳を両手で物理的に持ち上げ、宣言した。
「……こいつはただのメモ帳じゃねえ。俺たちの組織の聖典さね」
この空間に就いていた誰一人として、悪意を以て新しい宗教をゼロから構築しようなどという企てを抱いていた者は存在しなかった。彼らの受信機にとっては、聖典という識別符号はね、未来のタイムラインに向けて絶対に忘却したくない尊い仕様解説の集積に対して、最も適合した相応しい名前として脳内で都合よくデコードされていたに過ぎなかったのだから。リナは、その羊皮紙の表紙を見つめた。
「ならば、……公式な正式タイトルはどう記述すべきでしょうか?」
モーレンはインベントリから羽根ペンを取り出した。長い時間、論理の等式を回したのち、ゆっくりとインクの流動リソースを羊皮紙の上へと刻み込んでいった。
豊穣の神の聖典。
レオンはその記述された文字列を、低い声のログで静かにデコードした。
「見事だ……」
「ああ、完璧だね」
「至ってシンプルで、筋の通った正常値だぜ」
すべての人間が、完璧に満ち足りた表情で納得の首を縦に振った。彼らはただの一名も気づいてはいなかった。そのただの無機質な一冊の書籍オブジェクトが、近いうちに、この開拓村ルーナの境界線を完全に超越して、世界全土の統治レギュレーションを震撼させることになる最凶の物証として固定化を完了したという事実に。
まさにその同じ時間帯。マコトは耕作地セクターの脇にある巨大な樹木の木陰において、無機質な岩石の上に腰掛けていた。彼の正面の座標には、数人の村の子供の個体群が整然と整列していた。
「今日というタイムラインにおいてはね、……」
彼が一片の抑揚もない淡々としたトーンで、授業の開始を出力した。
「……あなた方の脳内回路に対して、算術の基本アルゴリズムのインプット処理を執行しますよ」
子供の個体群は、即座に姿勢の傾きパラメータを正常値を維持した状態へと同期させ、待機状態に入った。マコトは右手に細い枝オブジェクトを保持すると、未舗装の地面データの上に、美しく規則的な数式を刻み込み始めた。
「もしここに、十個の種子オブジェクトが存在すると仮定します」
「うん!」
「そこから、初期不良のエラーを起こしている二個の個体を除外する」
「うん!」
「等式の最終出力として、実際に耕作地へと配置可能な正常データの残高はいくつかべきかね?」
「――ハチ!」
子供たちが一斉に、高音量の音声データを排出した。
「正常終了です。ブレのない正しい数値ですね」
マコトは小さく首を縦に振った。
「どんな実務を執行する場合においてもね、常に事象の正確な残高を計算しなさい。不確実な憶測を以てシステムを稼働させてはなりませんよ。初期段階で放置された極小のズレは、高確率で将来的に破滅的な大不祥事を誘発する原因になりますからね」
子供の個体群は元気よく首を縦に振った。彼らは未だ、その高位のバグ管理思想の本当の恐ろしさを完璧にデコードできてはいなかった。しかし彼らは、その言葉の配列を、自らの記憶インベントリの最深部へと、消去不能なログとして格納していた。
その座標から数メートル離れた主要道路セクターにおいて。集会所でのミーティングを完了させて歩行移動中だったレオンが、たまたまその仕様解説のパケットを完璧な精度で受信していた。彼の両の網膜の輝きパラメータが、一瞬にして爆発的な上限値へと跳ね上がった。男は弾かれたように自らの抱えていた白紙の聖典を押し開くと、未だインクの流動が完了していない羽根ペンを猛烈な速度で駆動させ、その文字列を上書きパッチしていった。
事象の実務を執行する際は、常に客観的な残高を精査せねばならない。不確実な憶測を以てシステムを稼働させてはならぬ。初期段階の極小のバグを放置する行為は、将来的に破滅的な大不祥事を誘発する。
レオンはすべての文字列を入力し終えたのち、羊皮紙の表面に残された流動インクの水分に対して、口腔からそっとおだやかな風を放って乾燥処理を代行した。
「……記念すべき、第一番目の公式ログだぜ」
男が、完璧に満ち足りた表情で満足そうな呟きを出力した。
マコトは、数メートル先でレオンが猛烈な速度でペンを駆動させている物理運動をスキャンした。
「尋ねたいのだが、システム内部に何らかの不整合でも発見しましたかね?」
最高神が実直に問いかけた。レオンは弾かれたように首を横に振ってエラーをデリートした。
「いいえ、皆無です、ボス! 何一つのバグもねえです! 私は単に、記述実務を執行している最中なだけですからね」
「そうですか。書き換えて保存しておく行為は、システム運営の観点から見て極めて合理的な防衛策ですからね。良い習慣ですよ」
マコトが無表情のまま、客観的な評価シートを提示した。レオンは唇の端をこれ以上ないほど広範に釣り上げ、微笑んだ。
「ああ、間違いねえ! だからこそ、あたしはこれからも無限にあんたの言葉をログとして上書き保存し続けるぜ、ボス!」
「ええ、許可します。継続しなさい」
最高管理者たる彼の論理回路の中においては、環境内の個体群が記述台帳のメモ取りの稼働率を跳ね上げる行為はね、将来的な書類上の管理エラーを未然にブロッキングするための、極めて健全で美的価値の高い正常値であると、そう処理されていたのだ。それは何一つとして綻びのない、百パーセント正しい判断であった。
しかし嫌なことに、宇宙の絶対者たる彼は、ただの一微ミクロンも気づいてはいなかった。自らの抱えていたその白紙の台帳ノートには、すでに豊穣の神の聖典という最凶の識別符号が固定ロックされており、そして今日というタイムラインを迎えた瞬間から――。自らの人間の器の口腔から漏れ出た、ただのありふれた算術の授業ノイズの全パケットがね、人間たちの共同幻想のネットワーク内部を通過するプロセスにおいて、完璧に絶対不変の神聖な経典の第一条として完全なファクト化を完了してしまったという、取り返しのつかない破滅的な大大大不祥事の現実に――やはり、この時点においては、まだ気付いてはいないのであった。




