第52章 導くことを拒む長
翌朝のタイムライン。ルーナの村には再び牧歌的な慌ただしさのデータが布設されていた。
一群の農民たちが耕作地セクターへと物理移動を開始し、数人の行商人が中央広場の境界線付近に極小の露店オブジェクトを展開し始めていた。その頃、村の中枢セクターである集会所のミーティングスペースにおいては。
最高統治者モーレンが、一枚の羊皮紙のシートを険しい表情で精査していた。そこには、昨晩の会議によって上書き登録されたばかりの不穏な文字列が刻まれていた。
【ボスの教えを永続保存するための共同サークル】
彼は自らの髭を指先できつきつと揉みほぐした。
「……悪くはないね」
村長が低い音声データを出力する。
「しかしね、何だかシステム上の識別符号として、いささかレギュレーションが締まらない(格好がつかない)気がするんだよ」
長椅子の対面セクターに就いていたレオンが、深く首を縦に振った。
「ええ、あたしも同感だぜ、村長。いまいち威圧パラメータ(威厳)が不足してる仕様だなあ」
「ならば……」
その隣の座標に直立していた高位の聖職者リナが、自らの右手を控えめに物理移動させた。
「……このような識別名へとアップデート(改名)するのはどうでしょうか」
彼女の口腔から、新しいパケットが送信された。
「――『豊穣の神の会』、と」
会議室の全体に、完璧な静寂が沈み込んだ。
すべての網膜が、一斉にリナという一個のオブジェクトへと同期された。
数秒の不毛な処理時間ののち。
「そいつは素晴らしいリザルトだぜ!」
「情報の流通コストが低い! 一瞬で脳内台帳に吸着する名前だ!」
「これ以上ねえほど適合した仕様(名前)だな!」
リナは、自らの脆弱な人間の器の顔面パラメータを微かに赤染(照れ)させた。
「ただの極小の提案(思いつき)なのですが……」
しかし彼女の申告した新規の要求仕様は、即座にその空間の全個体によって公式なコミット(承認)を完了してしまったのだ。モーレンは、羽根ペンを駆動させて羊皮紙の上に新しい名前を確定登録した。
【豊穣の神の会】
この空間に就いていた誰一人として、自らがたった今執行した「サークルの名前変更タスク」が――辺境の極小の労働班を、永続的な宗教組織へと完全に仕様変更させる決定的なバグの引き金であるという事実に、気付いている者は存在しなかった。
「公式な識別符号が確定したのだとするならばね」
レオンが、瞳の熱量を跳ね上げて言葉を継続した。
「……あたしたちのシステムには今、全体の等式をコントロールするための『最高管理職』が必要不可欠だろ」
「そいつは筋の通った正論だな」
全員が一斉に深く首を縦に振った。
そして次の瞬間、彼らは互いに引きつった視線を同期させ、一言も発することなく通信を完全に静止させた。
なぜなら、その要求仕様に合致する正解のオブジェクト(適任者)は、最初からシステム内部にただの一名しか登録されてはいなかったからだ。
「――ボス、だね」
すべての口腔から、寸分の狂いもなく同一の文字列が出力された。
昼時のタイムライン。
マコトは、環境内の局所的な暴風エラー(風)によって物理的破損を受容し、完全にダウン(倒れて)していた耕作地のフェンスの修復実務を地道にサポートしていた。
その作業工程は至ってシンプルだった。経年劣化を起こした二本の木柱オブジェクトをインベントリから除外して新しい杭へと置き換え、構造強度のための固定ロープを締め直し、各支柱の配置間隔パラメータが完全に正常値を維持しているかを目測でスキャンする。
マコト自身の管理思想によれば。
このような路傍の物理メンテナンス雑務を淡々と消化している時間の方が、人間たちの脳内で発生し続ける解読不能なバグ(誤解)に対して不毛な仕様解説をまくしたてるよりも、遥かに合理的で好ましい稼働状態(仕事)であったからだ。
「ボス!」
遥か遠方の主要道路セクターから、モーレンの高音量のアラート(大声)がパケット送信されてきた。マコトは無表情のまま、首を巡らせた。
「何かね? 要求仕様を申告しなさい」
「あんたに対して、一つ重要な中枢プロトコル(お話)のキックオフを要求したいんだ」
「ええ、許可します。継続しなさい」
モーレンは自らの上体を真っ直ぐに直立させていた。彼の背後の座標には、第一弟子のレオン、高位の聖職者リナ、第一助手のハンツ、さらには数人の農民の個体群が、完璧な整列コマンドを維持して追随していた。
彼らの表情パラメータは、例年の納税監査の日よりも、遥かに深刻な熱量(真面目さ)を検出していた。
「今日というタイムラインを迎えた瞬間を以てね」
村長が声を張る。
「……あたしたちは、この生存圏内部に『豊穣の神の会』という公式組織の設立タスクを正常終了させたんだよ」
マコトは小さく首を縦に振った。
「そうですか。正常な処理ですよ」
その一片のブレもない平然とした回答は、集客した人間たちをいささか困惑させた。
アクセス拒絶のログ(否定)が出力されない。
不整合を指摘するデバッグの往復(反論)も皆無。
もしかすると。――ほんの僅かな確率の仮定であるが、ボスはついに自らの置かれた現生環境のレギュレーション(豊穣の神としての立場)を、完璧に真実として受容(諦めて受け入れ)してくれたのではないだろうか、と。
――悲しいかな、彼らは完璧に間違っていた。
マコトの論理回路の内部においては、そいつは単に「村の居住民たちが勝手にキックオフした、極小の草野球チーム(村サークル)の設立報告」として都合よくデコードされていたに過ぎなかったのだから。
「それでね……」
モーレンは自らの言葉のパケットを継続した。
「……あたしたちはあんたに対して、その組織の『最高管理職』への就任をコミット(要求)したいんだよ」
マコトは、右手に保持していた木製ハンマーの物理運動を、ピタリと停止させた。
「最高管理者、かね?」
「ああ、そうだね」
「目的は何かね? 私がそのポストを代行せねばならぬ論理的な因果律(理由)はどこに布設されているのかね?」
レオンが、自らの台帳ノートを抱えたまま、瞳の熱量を跳ね上げて回答を流し込んだ。
「あたしたち全体の運行ベクトルをさ、完璧な等式でナビゲーション(お導き)してもらうためさ、ボス!」
マコトは数秒の間、日常的な思考の演算を実行した。
それから、ゆっくりと首を横に振った。
「不適合(却下)ですね。私はその役職の初期条件を満たしてはいませんよ」
「へっ!?」
「いいですか。私は、人間という不完全な生命体のシステム構造(挙動特性)をね、漂着した初日から今日にいたるまで、ただの一微ミクロンも解読(理解)できていませんからね」
広場の全体が、水を打ったような静寂へと沈み込んだ。マコトは一片の情動のノイズもない平然としたトーンで仕様解説を継続した。
「最高管理者たる個体はね、自らが統括管理すべき下位個体群の基本仕様や行動アルゴリズムを完璧に把握していなければならない。そいつは社会運営の基本原則ですよ。私はその必須条項の審査において完璧に脱落(エラー終了)しています。したがって、私がそのポストを代行する行為は、組織設計の観点から見て、著しく深刻なデータ不整合ですよ」
モーレンは正面の青年の顔を長い時間、ただ監査の瞳で見つめ続けた。
そして、彼の口腔からその高密度の文字列が出力されればされるほど、村長の脳内台帳の内部においては――「このボスという青年こそが、最高管理者として100%これ以上なく適合した個体である」という最悪の確信が、完璧にロック(上書き登録)されていったのである。
現生環境において、本当にそのポストを代行すべき本物の絶対者というものはね。
いつだって、自らがその実績に相応しいなどという俗物的な慢心のバグ(うぬぼれ)をただの一微ミクロンも実装していないものなのだから。
「……これ以上ねえほど高潔な(尊すぎる)謙虚さだね」
モーレンは、感動のあまり自らの声を震わせ、低いログを吐き出した。
マコトはわずかに首を傾げた。
「何かね? 音声データの音量が低すぎてデコード(聞き取り)できませんでしたが」
「いや、何でもないよ!」
村長は慌てて自らの表情パラメータをリセットした。
「あんたの放ってくれた高位のお説教のログはね、完璧にこちらのデータベースへと受容(有難くお聞き)したからさ!」
「私は単に、組織管理の一般的なレギュレーション(ファクト)を解説したに過ぎませんよ。お説教ではありません」
「ああ、完璧に分かってるとも、ボス!」
周囲の農民たちが、一斉に深く納得の首を縦に振った。
高位の聖職者リナが、直実な足取りで一歩前へ進み出た。
「マコト様」
「何かね? 申告しなさい」
「もし、あなたのその高度な管理思想(等式)を適用するのだとするならば……」
彼女は凪いだ美しい瞳を持ち上げた。
「……これからのタイムラインにおいて、一体どのようなスペックを持った個体が、この組織の長を代行すべきなのでしょうか?」
マコトは思考の処理リソースを消費することなく、事務マニュアルの条項を読み上げるように即座に回答を出力した。
「この村の環境インフラ(土地の事情)を最も網羅的に把握している個体。住民全体の生存コスト(必要な物資)の残高を正確にスキャンできる個体。そして、環境内の全構成員からのアクセス(信頼)をすでに100%獲得している個体。ただそれだけですよ。極めてシンプルな初期条件です」
その回答は、どこまでも客観的で、等式として100%クリーンな正論であった。
マコト自身は、単に「長老や村長といった既存の行政管理職の普遍的な定義」を実直に解説したに過ぎなかったのだ。
しかし不運なことに……。
その音声データを受信したすべての人間の受信機(耳)の内部においては――その正確な文字列は、最高神マコトによる公式な『最高管理職への指名コマンド(神託)』として完璧にデコードされてしまったのである。
レオンが、弾かれたようにゆっくりと首を巡らせた。
モーレンもまた、ぎこちない動作で自らの視線のベクトルをスライドさせた。
広場に集結していたすべての農民の個体群の網膜が、一斉に、寸分の狂いもなく単一のオブジェクト(対象)へとホールドされた。
――最高統治者、モーレン。
「……村長」
レオンが、震える声を潜めた。
「……ボスは今、自らの全知の目でさ、あんたのことを最高管理者に指定(指名)されたぞ」
「あたし、かね!?」
モーレンは日に焼けた顔面をガタガタと引きつらせ、完全なフリーズを記録した。
「そんな理屈はあり得ないよ! あたしの処理能力の限界値を超えている!」
リナは、これ以上ないほどおだやかで優しい微笑みを出力した。
「あのお方の放つ仕様解説は、いつだって昔からこの仕様(こういうやり方)ですからね。決して対象の識別符号(名前)を直接出力することはなさらない。しかし、常に周囲の個体群に対して、自らの力で正解の等式(答え)へと着地できるようにナビゲーションしてくださるのです」
彼らからわずか数歩離れた座標に直立していたマコトは、彼らの流通させている音声データの意味を、ただの一微ミクロンも解読(理解)できてはいなかった。彼は単に、周囲の人間たちが突発的に無言のまま完璧な静止を記録し始めた環境データに、かすかな違和感を検出していただけだった。
「尋ねたいのですが、システム内部に何らかの深刻な未処理のエラー(不都合)でも散見されましたかね?」
「いいえ、皆無です!」
すべての人間が一斉に、元気よく最大値の肯定ログを返信した。
数秒の処理時間ののち。
最高統治者モーレンは、肺の底から激しい呼気を排出すると、マコトの目の前において、自らの上体を斜め下へとこれ以上ないほど深く物理移動(深い一礼)させた。
「ボス」
「何かね?」
「あたし、自らの全スペックを振り絞ってね、あんたから託されたその重厚な聖なる使命を、完璧に執行(お引き受け)することにするよ」
マコトは、正面の老人の表情パラメータを精査した。
「聖なる使命、かね?」
「ああ、そうだね」
「『豊穣の神の会』の最高管理者(長)のポストを、かね?」
「ええ、完璧にクローズ(お引き受け)だ!」
マコトは、ようやくシステム全体の等式が正常値へと着地したことを正確にデコードした。
「なるほど。それは極めて合理的で、システム設計の観点から見て正しい意思決定ですよ。君は村長ですからね。この集落におけるコミュニティの運営管理ルーチン(経験データ)の残高は、私に比べるなら数階層上の高い数値を記録していますからね。最も適合した(正しい)選択肢ですよ」
モーレンは、自らの両の掌をきつきつと握りしめた。
最高管理者たるマコトからのそのクリーンな肯定ログ(お褒めの言葉)は、彼の脳内台帳の最深部において、これ以上ないほど強固な「正当性の物証」として上書きロックされた。レオンは、感動のあまりその網膜の最下部セクターから涙の流動リソースを排出しそうになっていたし、リナは安堵の微笑みの数値を最大値へと跳ね上げていた。
ただ一人、壁際のスペースに就いていた第一助手のハンツだけが、そっと重い瞼を閉じ、自らの額を掌でポンと叩いてフリーズしていた。
彼はもう、この青年の口腔から出力されるあらゆる「生真面目な正論」が、なぜか人間側の認知フィルターを通過するプロセスにおいて、必ずこのような悍ましい規模の「聖なる誤解」へと自動変形されて終了する因果の理を、完璧にマスター(解読)しつつあったからだ。優秀な第一助手としては、聞こえなかったことにするのが最もコストが低いのだ。
夕刻のタイムラインを迎える頃。
最高神マコトは、再び耕作地セクターでの水路メンテナンス実務(お仕事)へと復帰していた。
一方で、中枢集会所の執務室の内部においては。
最高管理者に就任したモーレンが、新しく布設されたサークルの「第一期登録構成員(最初のメンバー)」の名前の識別符号を、羊皮紙のシートへと実直に書き込み(記録)し始めている最中だった。
構成員の総数は、未だそれほど膨大な桁数には達していなかった。
ただの数人の農民たち。
第一弟子のレオン。
高位の聖職者リナ。
第一助手のハンツ。
そして、村のいくつかの若い個体群。
すべての手続きは、至ってシンプルに執行されていた。
大袈裟な聖職者の儀礼(儀式)は皆無。
組織を象徴する派手なシンボル(旗)のビルドもなし。
組織への忠誠をコミットする契約書(誓い)の提出もゼロ。
しかし、羊皮紙のシートの右上セクターの備考欄において――。
第一弟子のレオンが、自らの羽根ペンを駆動させ、一つの極小の新しい追加条項(文字列)を上書きパッチしたのである。
【絶対の守護神・主祭神:マコト様】
モーレンはその追加データを老眼の瞳で目視し、ゆっくりと納得の首を縦に振った。
「……ああ。等式としては、そいつが完璧に正しい正常値だね」
この空間に就いていた誰一人として、悪意を以て虚偽データを申告(嘘をついた)した者など、ただの一名も存在しなかった。
新しいオカルトな宗教システムをゼロからビルド(創設)しようなどという不届きな企てを抱いていた者も、皆無であった。
彼らはただ、自らの生存環境を劇的に最適化してくれた、あの徹底的に生真面目なお人好しの青年の「高位の仕様解説」を、未来のタイムラインに向けて大切に永続保存しておきたかっただけなのだ。
しかし不運なことに……。
これまでにルーナの村の全セクターで発生してきたあの最凶のチェーンエラー(バグ)が、やはりこの瞬間においても完璧にキックオフされてしまった。
その住民たちの起こした極小の、ただの事務的な書き換え(メモ取り)の一歩は――もはや、この下位世界のいかなる統治レギュレーションを以てしても、絶対に機能停止させることのできない、破滅的な規模の大大大大不祥事(最凶のセkt)へ向けて、凄まじいトルクを以て、静かに直進を開始しているのであった。




