おまけ 天界の管理実務
四日間。
天界の転生管理事務室の悠久の歴史において、過去最悪にして最大規模の事務処理エラーがキックオフされてから、すでに正確に四日間の時間が経過していた。
少なくとも――天界の公的な時間運行システム(タイムライン)の記録上においては、そのように記述されていた。
しかしあいにく、最高補佐官セリアの体感パラメータから逆算してみる限りね、その時間は果てしないほど永遠に近く感じられていた。なぜならその四日間のすべてのフェーズにおいて、彼女はただの一分一秒たりともプライベートな居住エリアへの退去コマンド(帰宅)を実行した実績を残していなかったからだ。
彼女のデスクの上は、処理待ちの大量の報告書オブジェクトによって埋め尽くされていた。
インシデント報告書。調査状況の仕様書。監査要求のシート。そして、詳細な説明を求めるパケットの山。
おまけに――漂着初日のタイムラインから、頑なに彼女のワークスペースのど真ん中を占拠し続けている、一冊の不吉な赤い台帳ノートが存在していた。
表紙のセクターには、高音量のアラートを想起させる巨大な描線でこのように記述されている。
【最優先重大エラー・インシデント】
ケース番号:〇〇〇〇〇〇〇〇〇1
対象オブジェクト:マコト様
セリアは焦点の失った虚ろな網膜のデータをその表紙へと同期させ、ゆっくりと一ページ目をスキャン(開封)した。
現在のステータス:未検出。
彼女は台帳をパタンと閉じ、数秒の処理時間ののち、再び中身を開いた。記述されたステータスデータに、何一つの仕様変更はなかった。
「……当たり前だよね」
彼女は低い声のログを吐き出した。
「……同じファイルを二回連続でロードしたからってさ、中身のデータが勝手に正常値へと書き換わるような都合の良い自動アップデート(パッチ)なんて、このシステムに実装されてるわけがないもん」
「セリア」
背後の座標から、一人の女性の個体による突発的な音声データが割り込んできた。
彼女は弾かれたように生体パラメータを緊張値へと跳ね上げ、直立のコマンドを実行した。
「室長!」
銀髪の外見データを布設したその女性は、ゆっくりとした足取りでワークスペースへと立ち入ってきた。
その表情パラメータはいつでも大理石のように完璧に凪いでいたが、両の網膜の最下部セクターに刻み込まれた悍ましいほどのクマのテクスチャデータが、彼女自身もまた長時間の処理過負荷(寝不足)を受容している厳然たる物証となっていた。
「検索プロシージャの進捗(進み具合)はどうかな?」
セリアは、項を斜め下へと物理移動させた。
「未検出、です」
「捜索班からの報告ログは?」
「現在も継続して循環処理を代行中ですが、応答データは返ってきていません」
「次元の追跡は?」
「システムエラーによる失敗(エラー終了)です」
「座標データのサルベージは?」
「完璧にロスト(紛失)しています」
室長は肺の底から静かに、重い溜息を排出した。
事務室の全体に、再び無機質な静寂が沈み込んでいった。
間もなくして、臨時の緊急対策会議がキックオフされた。
中枢会議室の全座標は、高スペックな数十人の事務神の個体群によって埋め尽くされ、空間の熱量は上限値へと近づいていた。
正面の巨大な表示主画面には、単一の識別符号が固定表示されていた。
【マコト様】
そしてその最下部セクターには、一本の冷酷なエラーコード(文字列)がパッチされていた。
【現在位置ステータス:解読不能】
室長が公式に会議のキックオフをアナウンスした。
「現生データの報告(業務報告)を要求します」
一人の事務神の個体が、長椅子から直立した。
「マコト様が質量移動(墜落)を執行した可能性のある、すべての下位世界線のデータベースを網羅的に監査しました」
「リザルト(結果)は?」
「一致データ、皆無です」
「第二のメソッド(代替案)は?」
「因果律の等式から逆算する、軌道の追跡です」
「リザルトは?」
「システム過負荷による演算不能(計算エラー)です」
「不具合の根本原因(理由)を申告しなさい」
「この世界線に残留している、マコト様の存在理由のログ(気配)の総容積が大きすぎます」
対策会議室の全体に、完璧なフリーズ(沈寂)が沈み込んだ。
そいつは至って当然の論理的帰結であった。
マコトは、その因果律という数式システムそのものをゼロから設計・布設した張本人(最高管理者)なのだ。
自らが創り上げた下位世界のルール(法則)を以て、その設計者の正確な座標をデバッグ(逆探知)しようと企てる行為は――一滴の水の分子データを頼りにして、広大な海洋全体の物理配置をハッキング(探索)しようとするのと同じくらい、著しく非効率で不可能な手順に他ならなかったからだ。
別の事務神の個体が、自発的に発言権を要求した。
「私たちは、天界の公式な行政手続き(通知プロトコル)を介して、ご本人への直接通信の呼び出しも試みました」
「システム応答は?」
「皆無です」
「メッセージの送信パケットは、正常終了(送信完了)したかね?」
「ええ、100%完了しています」
「デコード(既読)の形跡は?」
「検出されませんでした」
セリアは再び、項を斜め下へと物理移動させた。
彼女には、その通信エラーの根本原因が正確にデコードできていた。
マコトは下位の人間という脆弱な乗り物(器)にログインしている期間においては、天界からの公的な行政パケットを受信できない仕様の防衛レギュレーションを敷いている。システムは最初からそのようにプログラミングされているのだ。
そして極めて不条理なことに……、その強固なセキュリティ(ルール)を黎明のデスクの前で設計した張本人こそが、他ならぬマコト自身であったのだが。
「捜索実務の専門部隊(現地派遣チーム)の状況は?」
室長が鋭い網膜のデータを同期させた。
一人の若い神の個体が直立した。
「予定通りのタイムラインで、現地セクターへと発送(派遣)されました」
「リザルトは?」
「……」
「リザルトを、速やかに出力(申告)しなさい」
若い個体は生唾を飲み下し、自らの音声パケットを震わせた。
「――専門部隊の全体が、システムから消失(行方不明)しました」
対策会議室の熱量が、一瞬にして完璧な氷点下へと脱落した。
「消失……? 一体どのような操作ミスかね?」
「ええ。初期の物理移動(ゲートの跨ぎ方)において、不整合な世界線へと誤ってログインしてしまいまして」
「……」
「その直後のフェーズにおいて……、迷子バグ(遭難)を発生させた模様です」
室長は自らのこめかみを指先できつきつと圧迫し始めた。
セリアは感動(情動エラー)のあまり、網膜の最下部から涙の流動リソースを放出しそうになっていた。
空間全体の処理効率が最下限値(お通夜ムード)へと達した、まさにそのタイミングだった。
会議室の木製の扉が、乱暴な物理衝撃によって押し開かれた。
「遅延アクセス、申し訳ありません!」
一人の末端の個体が、新しい手書きの報告書シートの山を抱えて、全力で室内へと敗走(乱入)してきたのだ。
「最新の環境変化を検出しました!」
寸分の狂いもなく、会議室に就いていた数十組の知的生命体が同時に直立のコマンドを実行した。
「報告パケットを送信(話し)しなさい」
末端の個体は、羊皮紙のシートをハイスピードで押し開いた。
「特定の極小の下位世界線において、著しい『環境アノマリー(異常現象)』が発生しているのを確認しました」
セリアが声をからした。
「マコト様の位置データを特定できたの!?」
「いいえ、違います」
「だったら何が起きたというんだい?」
「ある辺境の開拓村セクターにおいて、作物の最大出力パラメータ(大豊作)を無限に跳ね上げ続けている、奇妙な若い個体に関する噂のデータ増殖が記録されているのです」
神々の脳内台帳は、未だ静寂を保っていた。個体は仕様解説を継続した。
「そのエリアの居住民(人間)たちは……、あのお方のことを、新しく上書きされた識別符号で処理し始めています」
男は一瞬の処理の中断を置いて、ラベルを出力した。
「――『豊穣の神様』、と」
広大な中枢会議室の全体に、完璧な静寂が沈み込んだ。
数秒の処理時間ののち、一人の長年の実務ログを保有する老齢の神の個体が、自らの右手を物理的に持ち上げた。
「一つ、データの検証(質問)を要求したいのだが」
「ええ、許可します。申告しなさい」
「マコト様は、存在の定義(本質)として最初から絶対的な『神』そのものだろ?」
「ええ、100%のファクト(事実)です」
「ならば、そのあだ名の何がシステム上のエラー(不都合)なんだい?」
報告書を保持していた個体は、いささか引きつった顔面のまま、ぎこちない音声データを出力した。
「……マコト様の本来の仕様定義(役職)は、豊穣の神などという下位のローカル仕様ではありませんからね」
会議室には再び、水を打ったような静寂が戻ってきた。
補佐官セリアは、両の掌で自らの顔面を完全に覆い隠した。
「あたし……、」
彼女は、消え入りそうな声のログを吐き出した。
「……本当に、天界の行政管理の不手際を猛省します……!」
最高統治者の室長は、ただ肺の底から本日最も長い溜息を排出した。
「もし仮に、その環境アノマリー(大豊作)の中心にいるオブジェクトが本当にマコト様なのだとしたらね……」
彼女は羊皮紙のデータを見つめた。
「……あたしには、現在のその座標で一体どのようなシステムエラー(すれ違い)が発生しているか、完璧に予測演算ができるよ」
「一体、どのような処理内容(事態)でしょうか?」
一人の事務員が問いかける。室長は淡々とリザルト(解)を出力した。
「あのお方は100%の確率でさ、大真面目な真顔を崩さないまま『私は創世神ですよ』って正確な仕様解説を出力し続けてるよ」
「それで?」
「人間たちの受信機(頭脳)は、ただの一名もその真実をデコード(信用)していないってことさ」
寸分の狂いもなく、会議室に集結していた数十人の神々の個体群が一斉に、納得の首を縦に振った。
「ああ」
「完璧に、あのお方の行動ルーチン(性格)と一致(同期)しているね」
「マコト様が、自らの記述データに虚偽(嘘)を混入させるような真似は絶対に執行しないからね」
「同時に、下位世界の不完全な生命体が、その高位の全知のロジックを一瞬で理解できるわけもないからな」
四日間の過酷な処理過負荷を経て初めて、対策会議室の空気パラメータは、ほんのわずかだけ良好な安堵の数値を示して緩和された。
一方で、彼ら天界の中枢ネットワークのノイズをただの一微ミクロンも受信していない世界線においては。
最高神マコトが、黄金色に染まる夕暮れの耕作地セクターのど真ん中に、一片のブレもない実直な背中で直立していた。
「ハンツ」
「おう、ボス。仕事は順調かい」
「ええ。私の予測演算の等式から逆算してみる限りね」
「また何かの仕様変更(ダメ出し)かい?」
「もし、こちらの割れ水路の容積データを、大人の指の横幅二本分(二指分)ほど物理的にワイド化しておくならば……」
「結果はどうなるんだい?」
「水分の物流流動が完璧に均一化され、秋の収穫量データはさらに指数関数的な向上を記録することになりますよ」
ハンツは日に焼けた顔面を緩め、完璧に満ち足りた微笑みを出力した。
「ハハ! あんたがその大真面目な顔でそう言ってくれるならさ、……そいつは等式として100%間違いねえ正常値(正解)だなあ、ボス」
マコトは満足そうに首を縦に振った。
「ええ、客観的な事実に基づいた正確なデータ分析ですからね。当然のファクト(事実)ですよ」
彼らが知る由もなかったが。
遥か天井のない漆黒の夜空の運行システムの彼方(雲の上)においては、天界の管理事務室のインフラ全体が、血眼になって最高管理者の位置データをサルベージ(大捜索)している最中だった。
自分たちの必死に探索を継続している絶対の存在が――今まさに辺境の極小の開拓村において、大真面目な真顔のまま、細い水路の傾きパラメータをミリ単位で地道に計算(雑務を消化)しているという不都合な現実に、――やはり、この時点においては、まだ誰も気付いてはいなかったのであった。




