第50章 「それではない」
新レギュレーションによる種蒔きのタイムラインは、極めて順調な数値を維持して推移していた。物流システムである細い水路は寸分の狂いもなく正常に稼動し、種子オブジェクトの一括分配実務においても不足エラーはただの一袋も検出されなかった。
例年であれば局所的なトラブルを多発させていた各セクターの耕作地は、現在は見事なまでに均一な仕様で緑の苗を群生させていた。開拓村ルーナの居住民たちは、これまでの歴史ログには存在しないほどの爆発的な熱量を以て、毎日の労働ルーチンへと同時接続していたのである。
マコトは、環境内に具現化したそれらすべての良好な変更履歴を、ただ大理石のような無表情 of まま静観していた。
彼の予測演算から逆算してみる限り、集落の農業システムはこれで完全に安全圏への最適化を完了していた。それは、初期設計の等式通りにマンパワーを投入した結果に過ぎない。起こるべくして発生した、至って当然の論理等式通りの帰結であった。
その日の早朝、交易都市の中枢セクターから立ち入った複数の商人の個体群が、再び宿屋へと進入してきた。
現在のタイムラインにおいて、外部から接続してくる個体群は、もはや宿屋の物理配置を質問する無駄な対話プロトコルを起動することはしなかった。最高統治者モーレンの執飾室の座標を検索するコストも省いていた。
彼らがゲートを跨ぐなり真っ先に出力する初期呼び出しメッセージは、いつだって寸分の狂いもなく同一の文字列にロックされていた。
「――『豊穣の神様』は、一体どちらの座標に就いているのかい?」
カウンターの奥にいた宿の女将は、日に焼けた顔面を緩め、素朴な微笑みを出力した。
「東の耕作地セクターさね」
今日という短い時間の中でも、彼女はすでに全く同一の応答メッセージを何十回とリプレイしていた。
マコトが、次回の分配に備えて種子オブジェクトの品質パラメータを冷徹に精査していると、先ほどの行商人の実務部隊が彼の作業圏内へと直進してきた。
「突然のアクセス、失礼いたします」
「ええ、構いませんよ。要求仕様を申告しなさい」
「私たちは市場のトランクラインを通じて、あなたの保有する驚異的な実績のログを数多く受信してきました。ついに直接お会いすることができて、最大級の光栄ですよ、豊穣の神様」
マコトは一片のブレもない真顔のまま、即座に首を横に振った。
「いいえ、却下ですね。違いますよ」
商人は、満足そうな微笑みのパラメータを崩さなかった。
「ハハ、私たちはすでに、その仕様を完璧に分かっていますよ」
マコトは再び首を横に振った。
「いいえ、君たちの脳内台帳は不整合を起こしている。違いますよ」
「ええ、本当に完璧に見抜いていますとも」
「――それではない」
空間の全体に、突発的な冷酷な静寂が沈み込んだ。
商人の個体群は、互いに引きつった視線を交わし合わせた。マコトは肺の底から静かに長い息を排出すると、いつも通り天気予報でも読み上げるかのような淡々とした真顔のトーンで、純度の高い事実を出力し始めた。
「私は、あなた方の言うような豊穣の世界のローカル仕様ではありません。私は宇宙のあらゆる物理法則をゼロから布設した創世神です。私の本名の識別符号はマコトであり、天界の管理事務室においてマルチバースの運行管理をワンオペで執行していた元最高管理者ですよ。私がこの下位世界へと墜落したのは、単に下位部署の事務的な不手際による偶発的な事故に過ぎません。私は現在も、元のワークスペースへと帰還するための修正プロシージャを模索している最中なのですよ」
彼は一瞬の処理の中断を置いて、条項の結びを流し込んだ。
「したがって、あなた方の脳内で処理されているそのラベルは、完璧に間違ったエラーコードです。つまり、……それではない、と言っているのですよ」
耕作地の全体に、取り返しのつかない重々しい静寂が数秒の間、維持され続けた。
すると、一人の商人がこれ以上ないほど温かい、完璧に満ち足りた敬畏の微笑みを出力したのだ。
「ええ」
男が首を縦に振った。
「……市場の流通ネットワークで耳にした記述の通りだね。本当に、何一つつまらぬ仕様変更のないお方だ」
最高神マコトは、静かに目を閉じた。
漂流生活を開始して以来初めて、彼はこれ以上の正確な仕様解説を自らの口腔から出力するための通信リソースを、完璧に失っていた。
そこから数メートル離れたセクターに直立していた第一助手のハンツは、ただ無言のまま自らの掌で顔面を完全に覆い隠していた。
「……なんてこった」
初老の農民は、消え入りそうな声のログを吐き出した。
「……ボスが放ったあの渾身の解説テキストすらもさ、すでに外部の世界線じゃあ、謙虚な神を定義するための定型句のデータとして完璧に組み込まれちまってるんだ」
ちょうど最新の作業報告書を持参してその座標へと立ち入ってきたモーレンもまた、その完璧な論理のすれ違いを完璧に受信していた。村長は商人の個体群を見つめ、次いでマコトを見つめ、肺の底から本日最も長い溜息を出力した。
「……あたしたち最高管理集団の保有する常識の全リソースを以てしてもね。これ以上の修正手続きを執行することはシステム上、不可能だね」
統治者としての理性は、完全な機能停止を選択せざるを得なかった。
昼時のタイムラインを迎える頃。
マコトは、耕作地の脇にある巨大な樹木の木陰セクターにおいて、一人で木製ベンチに腰掛けていた。彼の手元には、一冊の使い古された台帳ノートが保持されていた。
しかし不自然なことに、数分前のフェーズから今日にいたるまで、彼の網膜のデータはその羊皮紙のシートをただの一行も監査していなかった。
ハンツが不器用な足取りで彼のワークスペースへと接近してきた。
「ボス」
「何かね? 申告しなさい」
「あんた、珍しく脳内回路をフル稼働させて、何かの予測演算をしてるのかい?」
「ええ。自己監査を実行している最中ですよ」
「自己監査、かね?」
「はい。この人間に満ちた下位世界へと漂着してから、今日というタイムラインを迎えるまでの、正確に五十日間のスパンについてね」
ハンツは唇の端を釣り上げ、苦々しい微笑みを出力した。
「ハハ、そいつはあんたらしすぎる実務手順だなあ」
マコトは真顔のまま、首を縦に振った。
「しかし、出力された成否確率は、著しく不満足な最低値を記録していましたよ」
「なんでだい」
「私はこれまでの五十日間のすべてのタイムラインにおいて、自らの正確な仕様定義を環境内へと実直に申告し続けてきました」
「ああ、そいつは俺が一番近くで目撃し続けてきた厳然たるファクトだぜ」
「それにもかかわらず、人間たちの認知エラーを修正できた確率は、寸分の狂いもなくゼロパーセントを維持し続けています」
ハンツは喉を鳴らしてクスクスと笑い出した。
「間違いねえな。完璧な大失敗のエラー終了だ」
マコトは手元のノートをパタンと閉じた。
「客観的な成果を監査した結果ね、私は一つのシンプルな結論へと着地せざるを得なくなりましたよ」
「一体、どのような仕様変更だい、ボス」
マコトは数秒の間、完璧な口の静止を記録したのち、いつも通り完全に凪いだトーンで回答を出力した。
「今日というタイムラインを迎えた瞬間を以てね、……私は、人間たちの脳内にある不都合な認知バグを言葉によって修正しようとする一切の実務手順を、公式に完全停止することにしますよ」
第一助手は、老眼の瞳をぱちくりと瞬かせた。
「……本気かい、ボス」
「ええ。もちろん、今後他者から私の識別名について直接確認のコマンドを送信された場合にはね、私は全知の絶対者として、100%嘘偽りのない真実を実直に返信し続けますよ。そいつは規約ですからね」
「ああ、あんたは嘘をつけねえ仕様の男だなあ」
「しかし」
マコトは前方に広大に布設されているジャガイモの耕作地セクターを見つめた。
「……これ以降のすべての時間においてね、たとえ周囲の人間たちが私を豊穣の神と誤認して呼称したとしても、私はそれをいちいちエラー修正する手続きを執行しませんよ」
ハンツの生体パラメータが、一気に上限値を突き破って跳ね上がった。
「そいつは……、あんたのキャリアにとっても、尋ねたこともねえ超大型の仕様変更じゃないかい!」
「いいえ」
マコトは無表情のまま、淡々と正論を流し込んだ。
「それは決断などという非論理的な情動ではなく、単な名流動効率の判定結果ですよ」
「流動効率、かね?」
「ええ」
彼は再びノートの表紙へと指先を結置した。
「私はこれまでの五十日間の間に、完璧に同一の修正パッチを無限に環境内へと上書き送信し続けてきました。しかし出力される最終結果は、寸分の狂いもなく完璧に同一のエラーを維持し続けている。システム運営の観点から逆算してみる限りね、……いかなる内的パラメータの変更も生み出さない非効率な処理手順はね、速やかにシステムから除外されるべきであるというのが、天界の基本原則ですからね」
ハンツは腹を抱えて愉快そうに爆笑のログを轟かせた。
嘲笑していたのでは決してなかった。この最高神の放った諦念の結論の背景にある理由が、あまりにも歪みがなく、どこまでも彼らしい徹底的なクリーンな設計思想そのものだったからだ。
その日の夕刻のタイムライン。
マコトが生真面目な足取りで村の中央広場を通過した際、主要道路の境界線から、数人の村の子供の個体群が短い足取りで彼の方へと全力で敗走してきた。
「豊穣の神様!」
子供たちが、歓喜の音声データを大気へと一斉に排出した。
マコトの歩行コマンドが、ピタリと停止した。
広場の周辺に就いていた多数の居住民たちが、ドミノ倒しのように次々と彼の方へと視線のベクトルを同期させ始めた。第一助手のハンツもまた、その座標で息を呑んだ。中央集会所の入り口セクターの傍らで農民と対話中であった最高統治者モーレンもまた、すべての通信を一時凍結させて彼を見つめた。
空間の全体が、完全に静止していた。
彼ら開拓村ルーナの全居住民は、待機していたのだ。これからあの黒髪の青年が発話するであろう、彼らがすでに脳内台帳の予測演算に組み込み済みの、あの耳馴染みのあるお約束の拒絶ログの送信を。
しかし……。
最高神マコトは、ただ凪いだ瞳のまま、その幼い子供たちを見つめ返した。
それからゆっくりと、唇の端をわずかに釣り上げ、極空の微笑みのパラメータを出力したのだ。
「――ええ、こんばんは。労働実務を継続しなさい」
彼が生真面目なトーンで挨拶プロトコルを返信した。
次の瞬間、子供の個体群から、本日最大音量の歓喜の暴風が沸き起こった。
「やったあ! お方様が返信をくれたぞ!」
「神様が、俺たちの通信を承認してくれたんだ!」
子供たちは満足そうにキャッキャと爆笑のログを響かせながら、再び広場の最外周へと全力で敗走していった。
ハンツは焦点の失った瞳のまま、マコトの正面へと不器用な足取りで詰め寄った。
「……おい、ボス。あんた、今一微ミクロンも反論のパッチを当てなかったな」
「ええ、実行しませんでしたよ」
「なんでだよ」
マコトは、広場の隅にひっそりと直立している、あの無機質な石の構造物へと視線のベクトルを同期させた。それから、肺の底から静かに、短い溜息を出力した。
「なぜならばね、……」
彼は、この下位世界の辺境の集落へと漂着した最初の日からの、すべての出来事の変更履歴を脳内インベントリから一括リプレイしていた。
見知らぬ不毛な荒野のセクター。
宿屋の物理配置。
集会所での実務面接。
冒険者ギルドという名の機構。
ジャガイモの大豊作。
無機質な石の像の完成ログ。
...
今日というタイムラインにいたるまで、寸分の狂いもない同一のエラー結論を叩き出し続けてきた、完璧に最適化された五十日間のすべての工程表。
「……私は全力を以て、このバグのデバッグを試みてきました」
最高神は完全に凪いだトーンで、仕様を出力した。
「しかし客観的なファクトが証明している通りね。この事象のエラーは、単なる言葉による数式の提示だけでは、絶対に修復不能な領域に脱落している絶対的なバグ仕様ですからね」
ハンツは日に焼けた顔面を緩め、どこまでも温かい受容のログを返した。
漂流ログの開始以来初めて、彼はこの目の前の最高神マコトという個体が、人間という生命体の持つ不完全なシステム特性を完璧にデコードし、客観的な事実として承認したのだと、そう正確に理解したからだ。それは真実からの逃避などでは決してない。人間という乗り物の持つ限界値を正確にスキャンした上での、プロフェッショナルとしての冷徹な業務手順の最適化に他ならなかった。
遥か遠くのセクターにおいては、太陽のオブジェクトが緩やかにジャガイモの耕作地の彼方へと没していく最中だった。夏の夜特有のおだやかな風が空間を通過し、広場の隅の素朴なモニュメントのテクスチャを静かに撫でていった。
開拓村ルーナの描く、美しい夕暮れの画面の下において――。
宇宙の絶対者たる創世神マコトは、この瞬間を以て、自らの正体を人間へと解説するすべての通信プロトコルを完全に機能停止させたのである。
彼の口腔から出力される文字列の内容が、ただの一微ミクロンも仕様変更されたわけでは決してなかった。
ただ、最高管理者たる彼には完璧にデコードできていたからだ。
たとえ彼らが自らの脳内台帳の記述を歪めて解読し続けようとも。
客観的な真実のログは、どこまでも真実の等式を保ち続けて直立しているのだという、全マルチバースの絶対的な理を。




