第44章 百番目の信者
その年の種蒔き期は、例年よりも遥かに早いタイミングでキックオフされた。
農民の長たるマコトの仕様変更(提案)に基づき、広大な耕作地全体のタスクが、複数の効率的な専門セクター(グループ)へと一括分配されたからだ。
水路の修繕を執行するセクター。種子オブジェクトを選別するセクター。土壌の物理掘削を代行するセクター。
住民全員がその精密な構成案の全容(理屈)を完璧にデコードできていたわけではなかった。しかし彼らは、寸分の狂いもなくその手順を実行した。昨年までの大豊作の実績ログ(ファクト)を経て、彼らの頭脳はすでにあの「ボス」の実務能力を無条件にロック(信頼)していたからだ。
「そこの区域から作業を起動してはなりませんよ」
マコトは特定の耕作地の描線を指し示し、無表情のまま音声データを出力した。
「まずは、北方の方角のセクターから実務を執行しなさい」
一人の農民が、弾かれたように身体を引きつらせた。
「なんでだい、ボス」
「北方の土壌データの方が、水分の乾燥処理が迅速に実行される仕様になっていますからね。そこのタスクが予定より前倒しで完了ログを出力すれば、次に控えているグループが待機エラーを起こすことなく即座に接続できるようになります」
農民は深く納得の首を縦に振った。
「そいつは筋の通った正論だなあ」
マコトは余計な文字列を追加しなかった。
最高管理者たる彼の論理回路によれば、それは単にシステム全体の運用効率を最大化させるための、最もクリーンな作業順序に過ぎなかったからだ。
そこから数メートル離れた座標には、レオンが直立していた。
彼の手元に保持された台帳ノートは、日々の情報のインプット(書き込み)を重ねて著しい厚みの増殖を記録していた。マコトが環境内で新しい仕様解説を発話するたびに、彼は猛烈な速度でそのパケットをテキスト化していたのだ。
そして現在、ミラもまた全く同一の防衛策を執行していたし、驚くべきことに、他の数人の若い農民の個体群までが、自らの小さな白紙のノート(インベントリ)を抱えてそのセクターへと追随し始めていた。
「ボスは今、何か新しい変更履歴(言葉)を発信したかい?」
一人の若い個体が問いかける。レオンは自らの台帳ノートの画面を開いた。
「たった今さ」
「何て言ってたんだい」
「『もし、すべての労働タスクを事前に美しく構造化できるならば、人間の脆弱な生体エネルギー(マンパワー)を無駄に浪費するエラーは皆無へと収束するでしょうね』ってさ」
若い農民は弾かれたように、自らのノートへとその文字列を強引に上書き記録していった。
ミラはその一群の生体反応を、静かにロックオン(観察)していた。
初期の段階においては、ただレオン一人をデバッグ(教育)していただけに過ぎなかったのだ。
次いで、自らの個体がそのシステムにログインした。
そして現在のタイムラインにおいては、全く誰に命令されるでもなく、数多くの新規の個体群が自発的にそのノートを抱えて集結し始めている。
なぜなら彼らの脳内回路は、あのボスの口腔から出力される管理思想が、日々の実務において極めて有益な最適化リソース(教え)であると、正確に検出していたからだ。
太陽の座標が天頂へと達する頃。
マコトが水路の物流循環システムをスキャンしていると、数人の村の幼い子供の個体群が、短い足取りで彼の方へと全力で敗走(駆け寄り)してきた。
「ボス!」
「何かね? 要求仕様を申告しなさい」
「なんで、水分は必ずこっちの経路を通過せねばならないルール(仕様)になってるんだい?」
マコトは直実な動作で膝を物理的に折り曲げ、地面へと身を沈めた。そして足元の土壌の上に、細い枝を使って一本の直線データを刻み込んだ。
「もし、水分がこちらの経路を通過するならばね」
彼が生真面目なトーンでバグ解説を流し込む。
「……東方セクターの耕作地への水分供給が途絶し、深刻な枯渇エラーが発生することになります」
子供たちは一片の不純物もない純粋な瞳で首を縦に振った。
「じゃあ、こっちのルート(選択肢)はどうだい?」
子供の指先が、別の描線データを指し示す。
「そちらの仕様ではね、南方セクターに過剰なリソースが集積し、完全な溢水エラー(水浸し)を引き起こしますよ」
「へえー……」
子供の個体群は、キャッキャと愉快そうな音声データを放出した。
彼らは未だ、その高度な水理学的な等式の全容をデコード(理解)できてはいなかった。しかし彼らは、自らの脳内台帳において、あのボスの執行するあらゆる実務には、必ず客観的なファクトに基づいた「明確な理由」が存在しているのだと、そのプログラミングの美しさを正確に受信し始めていた。
夕刻のタイムラインを迎える頃。
最高統治者モーレンは、村の中央広場の周辺をゆっくりと巡回(監査)していた。
そして、自らの予測演算を遥かに凌駕する環境データを目撃し、その歩行コマンドをピタリと停止させた。
広場の脇に直立する、あの巨大な樹木の木陰セクターにおいて――。
十数人もの若い農民の個体群が、地面の上に円座を組んで集結していたのだ。
彼らの中心座標には、レオンが直立していた。
高位の演説を執行しているわけでは決してなかった。彼はただ真顔のまま、自らのノートに保存されたマコトの仕様解説を、等式通りに朗読していた。
「『具現化した結果をパッチ修正する手前のフェーズにおいて、必ずその根本原因をシステム内からデバッグせよ』」
複数の個体が弾かれたように、自らのノートへとその文字列を猛烈な速度で書き加えていった。
「『植物に必要な水分の最適値は、過不足のない正常値であり、過剰な投入は窒息エラーを誘発する』」
彼らは、再び一斉に入力タスクを代行し合う。
モーレンは長い時間その座標に佇み、自らの脳内回路でその空間の個体密度を正確にカウント(監査)し続けた。
一人。
二人。
五人。
十人。
二十人。
その場所に同期(集結)している人間の総数は、自らの記憶台帳の予測値を遥かに上回る膨大な桁数を記録していた。
夜間のタイムライン。
村長はその出来事のログを、集会所の木製ベンチでハンツへと世間話として送信(共有)した。
「……構成員の数量が、指数関数的な増加を記録しているよ」
モーレンが低い声を絞り出した。ハンツは重く首を縦に振る。
「ああ。あたしの環境センサーも、同じ増殖データを検出してたぜ」
「具体的には、何個体ほどかい?」
ハンツは数秒、思考の処理速度を調整したのち、これまでにマコトの座標の周辺で高頻度で観測(同期)されている居住民の名前の識別符号を、脳内インベントリからリレー(サルベージ)し始めた。
レオン。
ミラ。
村のほぼ全ての若い個体群。
いくつかの長年の労働ログを保有するベテランの農民たち。
さらには、村の宿屋セクターに未だ長期滞在を維持している二人の交易都市の行商人。
データの残高は、途切れなく自己増殖を継続していた。ハンツは途中で精査をデリートした。
「……すべてを一括して台帳に合算するなら、確実に『約百個体』の規模に達してるぜ」
モーレンは老眼の瞳を見開いた。
「百人、かね!? これほどの短スパンでそこまで肥大化したというのかい?」
ハンツは首を縦に振った。
「ああ。連中、完全にボスの思考回路の通りに実務をこなす仕様に書き換わっちまってる」
「彼らは……、あいつのことを盲目的にオカルト崇拝(神様として信仰)しているわけではないのだね?」
「違う、違う。そこが、こめかみを破壊されるバグなんだよなあ」
「なんでだい?」
「連中はな……」
初老の農民は、唇の端を釣り上げて苦笑を深めた。
「……ただ純粋に、ボスの口腔から出力される等式の通りに動いた方が、畑の出力結論が確実にアップデートされるって事実を、脳内で完璧にロック(信用)しちまってるのさ」
モーレンは無言のまま沈黙した。
そいつは、政治統治の観点から見れば、オカルトな宗教よりも遥かに合理的で、筋の通った正常値であった。
しかし悍ましいことに、客観的な正論に基づいているからこそ、そのシステムは一度布設されたら最後、外部からのいかなるアクセス拒絶(否定)を以てしても、絶対に機能停止させることが不可能な最強のインフラと化していたのだ。村長としての懐疑パラメータは、上限値を突き破って跳ね上がっていた。
翌朝のタイムライン。
マコトが実直な足取りで中央広場を通過した際、複数の住民の個体群が、一斉に彼に向けて上体を斜め下へと物理移動(お辞儀)させた。
「お疲れ様です、ボス」
「ええ、おはようございます。実務を継続しなさい」
「高密度の仕様解説を、いつも本当に有難うございます」
「応答は不要ですよ」
マコトは歩調を維持したまま、直進していった。
彼の論理回路によれば、それは単なる日常の挨拶プロトコル(正常値)に過ぎなかった。
しかし彼の背後のセクターでは、レオンが自発的に複数の若い農民の個体群へ向けて、招集コマンドを発信していた。
「おい、みんな! ログイン(集合)だ!」
レオンが声を張る。
「ボスがたった今、東方セクターの耕作地の最終監査へと出発(物理移動)を執行されたぞ!」
彼らは即座にその移動ルートへと追随した。誰に命令されるでもなく、彼らはただ、新しい実務の仕様書を脳内にインプットするために自発的に足取りを同期させていたのだ。
一個体、二個体。
時間の経過とともに、マコトの背後に直結する物理オブジェクト(人間の列)の総容積は指数関数的な肥大化を記録していった。
マコトがその異常な環境データ(気配)を検知し、無表情のまま首を後ろへと巡らせたのは、数分後のフェーズであった。
「ふむ」
彼が静かにつぶやく。
「ハンツ」
「おう、ボス。全部見えてるぜ」
「尋ねたいのだが、なぜこちらの移動コマンド(歩行)に対して、これほど大量の人間の個体群が同一の軌道で追随を維持しているのかね?」
ハンツはマコトの背後に直結している膨大な人間の波を見つめ、次いで、唇の端をわずかに釣り上げて苦笑を出力した。
「さあな……。あいつら、あんたの口腔から漏れ出る新しい数式(知識)を、一微ミクロンもロストしたくねえのさ」
マコトは納得の首を縦に振った。
「なるほど。知識というデータリソースはね、環境内の全個体に共有され、全体の成否確率を最大化させるためにこそ活用されるべきファクトですからね。彼らの実務態度(インプットへの執着)は、極めて合理的で美的価値の高い正常値ですよ」
彼は一人で論理的帰結に納得すると、一片のブレもない生真面目な足取りで、再び東方セクターへの直進を継続した。
彼らが知る由もなかったが、マコトの背後を実直に物理移動しているその人間の数量は、もはや一個体や二個体、あるいは十数人のレベルなどでは完全に死滅していた。
彼らの台帳を合算するならば、――それは寸分の狂いもなく、この開拓村ルーナのほぼ全個体を網羅する『約百番目の個体(百人の集団)』に達していたのである。
そして最高神マコト自身は、漂着以来、自らの正体を崇拝せよなどという虚偽のメッセージ(教え)を、ただの一行、ただの一単語すら発話した実績は皆無であった。
それにもかかわらず不運なことに、全宇宙の絶対者は、この脆弱な人間の世界線に墜落してわずか数週間のタイムラインにおいて――自らの「生真面目な正論」それ自体を絶対の教理として盲信し、彼のすべての行動変更履歴を完璧に固定化(ファクト化)して世界へと発送していくことになる、記念すべき『最初の百人の使徒(百番目の信者)』のシステム構築を、完璧に完了させてしまっていたのである。
最高神マコト自身は、ただ腰の空虚なインベントリを満たし、ハンツへの債務である銅貨三枚を速やかに決済するという極めて日常的な生存戦略のために、次なる過酷で、磨り減るような『組織的な信仰バグの爆発(神殿の建設シナリオ)』が、自らのタイムラインのすぐ目の前で凄まじいトルクを以て次の仕様へとアップデートを完了させたという不都合な現実に――やはり、この時点においては、まだ気付いてはいないのであった。




