第42章 最初の信者
マコトは、農民の長という管理職のポストを承認(受注)した後も、自らの生体パラメータや日常の稼働ルーチンに何一つつまらぬ仕様変更を発生させてはいなかった。
翌朝のタイムラインにおいても、彼はやはり太陽のオブジェクトが東の地平線から出力されるよりも遥か手前のフェーズにおいて起動していた。
水分の物流経路である細い水路の循環状況を監査し、種子オブジェクトの在庫残高を計算し、農具という物理デバイスの耐久パラメータがすべて正常値の範囲内に収まっていることを再確認する。
彼の管理思想から見れば、役職とは単に「処理すべき責任の追加布設」に過ぎない。自らの実務執行の手順そのものを書き換えるような要因ではなかったのだ。
「ボス」
耕作地セクターにおいて、一人の若い人間の個体がマコトの座標へと接近してきた。
名前の識別符号は、レオン。
生存ログの開始(年齢)から逆算するに、未だ二十年に満たない未熟な個体だった。彼はここ数年の短い期間において、自らの親の個体の手伝いとして農業ルーチンにログインし始めたばかりの初心者であった。
「何かね? 申告しなさい」
マコトが無表情に問いかける。
「あたし、もっと実務をインプット(勉強)したいんだ」
「勉強、かね?」
「ああ」
レオンは、数日前にマコトのナビゲーションによって完璧にデバッグ(最適化)された、あの割れ水路を指し示した。
「ボスがどうやって、あの正確な座標を掘り起こすべきだって全知の目で見抜いたのか、その数式(理屈)を知りたいんだよ」
マコトは、静かに水路の流動データをスキャンした。
「見なさい」
彼は足元に落ちていた一本の細い枝オブジェクトを右手に拾い上げた。
そして、未舗装の地面の上に、規則的な直線データを真顔のまま刻み込んでいった。
「水分という流動リソースはね、常に環境内において『最も抵抗パラメータの低い経路』を自動選択して質量移動を執行するものですよ」
レオンは、一片の不純物もない純粋な瞳でその枝の動きを凝視した。マコトは解説を継続した。
「もし、このセクターの高度パラメータが過剰に高く設定(設計)されているならば……」
彼は土壌の上に、一つの極小の点を描置した。
「……水流のベクトルはここで停止し、滞留エラーを起こします」
次いで、彼は別の流動ルートを描線した。
「逆に、高度が低すぎる仕様になっているならば……」
枝の先端が、さらに遠くの座標へとスライドしていく。
「……水分は特定の単一セクターへと過剰に集積し、溢水エラーを誘発することになりますね」
レオンは、その地面の数式を脳内インベントリへと高速で格納していた。
「ということは……」
「私たちが探索すべきなのは、システム全体のバランス(均衡)ですよ」
マコトは小さく首を縦に振った。
「植物というシステムはね、水分を無限に要求しているわけではありません。必要な時に、必要な正常値の分量だけを受容(補給)したがっているのですよ」
レオンは、その冷徹な仕様解説の文字列を、自らの脳内で何度もリプレイしていた。
極めてシンプルで、何一つ無駄のない論理等式。
しかし悲しいかな、これまでの村の古いデータベース(これまでの経験)の中には、農業という実務をこれほど美しくクリーンな数式で定義した記録など、ただの一行もサルベージされてはいなかったのだ。
翌日のタイムライン。
レオンは再び、マコトの作業圏内へとログインしてきた。今度の彼は、手元に一冊の小さな白紙の羊皮紙ノート(台帳)を保持していた。
「それは何かね?」
マコトが無表情に問いかける。
「ボスがこれから出力するすべての仕様解説(教え)を、正確にログとして記録しておきたいんだ」
マコトは数秒の間、その木製の表紙で装丁された物理オブジェクトを精査した。
それから、静かに首を縦に振った。
「ええ、極めて合理的な実務手順ですね。人間という脆弱な記憶媒体は、時間の経過に連動して高確率でデータを忘却させる仕様になっていますからね。書き換えて保存(メモを取る)しておく行為は正しい防衛策ですよ」
レオンは日に焼けた顔面を緩め、良好な微笑みを出力した。
「そうだろ! 有難うよ、ボス!」
その日のタイムライン以降、毎日の労働ルーチンが正常終了するたびに、レオンは必ずマコトの元へとアクセスし、確認のコマンド(質問)を送信するようになった。
土壌の組成パラメータについて。
種子オブジェクトの選別方法について。
気象イベントの予測演算について。
あるいは、作物の必要水分量を正確に算出する数式について。
そしてマコトは、いつでもその問いに対して、自らの全知のデータベースから抽出された純度百パーセントの事実をそのまま実直に出力し続けた。
自らの高度な技術スペックをカモフラージュしたり、他者へのアクセスを意図して遮断(秘密に)したりする行為は、彼の基本レギュレーションには実装されていなかったからだ。最高管理者たる彼にとって、有益なシステム仕様書というものは、環境内の全個体に共有され、全体の成否確率を最大化させるためにこそ活用されるべきファクトだったのだから。
ある日の夕刻。
レオンは、自らの担当する耕作地セクターの進捗状況をマコトへと目視(確認)させた。
「ボス、ちょっと見てくれよ」
「ええ、スキャンを執行しましょう」
マコトは数歩前へ進み、その数面の畑の現生物理データを冷徹に精査した。
作物の設置間隔(株間)は、等式通りの完璧な規則性を持って整列されていた。
掘削された水路の描線も、流体力学的に最も美しい最短ルートを維持している。
地中に埋設された種子オブジェクトの深度パラメータも、すべての個体において寸分の狂いもなく同一の正常値に収まっていた。
「ふむ」
マコトが静かにつぶやく。
「どうだい……?」
レオンは、自らの生体パラメータ(緊張度)を急激に上昇させながら、最高管理者のリザルト(評価)を待った。
「実に見事な出来栄えですね。不整合は一微ミクロンも検出できませんよ」
若い農民は、肺の底から激しい呼気を排出し、安堵のログを出力した。
「だが」
マコトは膝を物理的に折り曲げて土壌へと身を沈めると、右手の指先で一掴みの土のテクスチャを回収した。
「土壌内部の水分残留パラメータが、未だに許容量を超えて過剰(高すぎる数値)を維持していますね」
レオンも慌てて隣のスペースへと身を沈めた。
「……どこをパッチ(修正)すればいいんだい?」
「西方セクターからの水流の接続を、一時的に制動しなさい」
「なんでだい、ボス」
「作物の根系というシステムもね、正常な稼働を維持するためには、水分だけでなく大気(空気)の補給を要求する仕様になっていますからね。このままでは窒息エラーを誘発しますよ」
レオンは弾かれたように自らの台帳ノートを開くと、猛烈な速度でその仕様解説のテキストデータを上書き記録し始めた。
マコトはその不器用な指の物理運動を、じっと真顔で見つめていた。
「君は本当に、私の出力したすべての文字列をログ(記録)として保存しているのだね」
「ああ、当然だろ。ボスの言うことは、何一つとして無駄のねえ完璧なファクトなんだからな」
マコトは満足そうに首を縦に振った。
「ええ、事実に基づいた正確な認識ですよ。実務の効率が跳ね上がりますからね」
さらに数日間の時間が迅速に経過していった。
レオンの管理する耕作地セクターの環境変化は、もはや村の誰もが無視できないほど明確な正常値を示し始めていた。彼の畑の作物群は、近隣のどのエリアよりも著しく均一な仕様で、爆発的な増殖を維持していたからだ。
近くのテーブルで作業をしていた別の農民の個体が、驚きのアラートを響かせた。
「おい、レオン! お前のとこの耕作地データ、異常なほど出来栄えのパラメータが良いじゃないか!」
レオンは唇の端を緩め、満足そうな微笑みを出力した。
「ああ。全部、ボスが教えてくれた仕様書の通りにデバッグしたからさ」
「本当かい?」
「ああ、間違いねえよ。あたしはただ、あのお方が口腔から出力した通りの等式を、そのまま自分の畑にパッチ(適用)しただけなんだよ」
その文字列は、極めて迅速な浸透速度を以て村全体の主要通信網へとリレーされていった。
しかし不運なことに、今回流通した噂のデータ構造には――奇跡やオカルトといった非論理的なノイズは、ただの一微ミクロンも含まれてはいなかったのだ。
流通していたのは、ただ純粋な「効率的な農業の執行手順」そのものであった。
その日の夜間のタイムライン。
レオンはハンツの家屋へと不器用な足取りで立ち入ってきた。
マコトはその座標において、テーブルの木製天板の上にモーレンの台帳を広げ、次回の種子分配計画の最終監査を執行している最中だった。
「ボス」
「何かね? 申告しなさい」
レオンはその場に直立すると、自らの上体を斜め下へと物理移動(一礼)させた。
「有難うございました」
マコトは羽根ペンを持つ手を硬直させることなく、淡々と顔を持ち上げた。
「何に対する応答かね?」
「あたしの畑の実務を、ここまで完璧にナビゲーションしてくれたことさね」
「それは、農民の長という私の現在の職務スコープに含まれる普遍的な実務ですよ。特筆すべき例外処理(特別な実績)ではありませんからね」
「だけどよ、あたしにとっては、生存システムの定義がひっくり返るほどの重大なデータだったんだ」
マコトは台帳のシートを静かにパタンと閉じた。
「レオン」
「なんだい、ボス」
「もし、これからのタイムラインにおいて、村の他の外部の個体から君に対して『その勾配の演算手順(やり方)』についてアクセス(質問)があったならば……」
レオンは息を呑んで首を縦に振った。マコトはいつもの凪いだトーンで、仕様を流し込んだ。
「……あなた方の保有するその学習ログ(知識)を、一切秘密にすることなく、彼らのシステムへと無償で共有してあげなさい」
若い農民は、不意を突かれたように目を見開いた。
「……全部かい? ボスのくれたあの数式を、全員に教えちまっていいのかい?」
「ええ、当然です」
「なんでだい?」
「知識というデータリソースはね、単一のインベントリの中に秘匿(格納)され続けた場合、そこで情報の流動が停止し、システム全体の発展形をブロッキングすることになりますからね」
マコトは、木製の窓枠の向こう側に広がる漆黒の夜空の運行システムを見つめた。
「他者へとリレー(共有)された知識だけが、事象の最適化を重ね、永続的な進化を維持し続けることができるのですよ」
レオンは、その場に完璧にフリーズ(静止)した。
その口腔から出力された文字列は、どこまでも純朴で、等式としてシンプルな事実を述べたに過ぎなかった。
しかし不運なことに、受信側の若い人間の脳内回路にとっては――そいつはあまりにも重厚で、全宇宙の真理を内包した絶対的な「教理」として歪んでデコード(解釈)されてしまったのである。
彼はゆっくりと時間をかけて、本日最も深い丁重な物理移動(お辞儀)を執行した。
「……あたし、完璧に理解できたぜ、ボス」
マコトは小さく首を縦に振った。
「ええ、正常な処理結果ですね」
最高神マコトの見解によれば、この対話プロトコルは極めてクリーンに正常終了したはずだった。
しかし悲しいかな、彼はただの一微ミクロンも気づいてはいなかった。
目の前にいるこの若い人間の個体にとって、今日という一日が、自らの生存ログにおける最大級の「システム変更(価値観の転換)」をもたらす決定的なキックオフの瞬間となった事実に。
レオンは確かに、作物の栽培手順をインプットした。しかし、それ以上に。
彼はあの青年の持つ、悍ましいほどに美しく最適化された「思考回路そのもの(管理思想)」を、自らの絶対的なレギュレーションとして盲目的に信仰し始めていたのだ。
そして、今回のエラー挙動(誤解)の最も恐ろしい焦点は――。
この若い農民は、マコトのことを周囲の連中のように「豊穣の神様」などという下位世界のオカルト仕様で崇拝していたわけでは決してなかった、という厳然たるファクトに他ならなかった。
彼は、マコトの口座(口腔)から出力されるすべての生真面目な文字列には、必ず客観的なファクトに基づく「絶対的な理由」が存在しているのだと、その論理的な美しさのパラメータに対して完璧にロックオン(心酔)していたのである。
彼が知る由もなかったが、これからのタイムラインにおいて、村全体、ひいては世界全土の統治レギュレーションを根底から書き換えることになる、過去最大にして最悪の『組織的な信仰システム』の担い手。
――すなわち、最高神マコトの教えを完璧に固定化(ファクト化)して世界へと発送していくことになる、記念すべき『最初の信者(最初の使徒)』。
最高神マコト自身は、ただ腰の空虚なインベントリを満たし、ハンツへの債務である銅貨三枚を速やかに決済するという極めて日常的な生存戦略のために、次なる過酷で、磨り減るような崇拝のシナリオが、自らの第一助手の目の前で凄まじいトルクを以て成長を継続しているという不都合な現実に――やはり、この時点においては、まだ気付いてはいないのであった。




