第41章 農民の長
神託の噂や巨大な作物の具現化というデータエラーが村を騒がせてから数日のタイムラインが経過し、ルーナの村には再び地道な日常の労働ルーチンが布設されていた。
次回の種蒔き期という重要な環境イベントが刻一刻と接近していたからだ。
耕作地全体の土壌データを均し、種子オブジェクトを正確に選別し、物流経路である細い水路の維持管理状況を再監査せねばならない。
マコトは早朝のタイムラインから、東方セクターの耕作地へと直進していた。
彼は一本の直線的な木材を測定デバイスとして活用し、未舗装の水路の正確な傾きパラメータを真顔のままスキャンしている最中だった。
第一助手のハンツは、その一片のブレもない実直な背中をしばらくの間、凝視し続けた。
「おい、ボス。一体どのような計算(データ処理)を執行しているんだい」
「勾配の予測演算ですよ」
マコトは網膜の数値を固定したまま淡々と回答した。
「勾配の演算、かね?」
「ええ。もしこの水路の最下部セクターを、北方の方角に向けてあと数センチメートルほど物理的に掘り下げるならば、水分の物流リソースの流動速度は全体として完全に均一化されることになります」
ハンツはマコトの指し示した座標を目視した。
彼の限定的なデータベース(経験)からは、マコトの提示した精密な数式の全容を解読することは不可能だった。しかし、これまでの短い漂流ログにおいて、この青年の算出した予測結果が、常に寸分の狂いもなく完璧な正常値(正解)を記録してきたというファクトだけは、正確に把握していた。
「よろしい。ならば、その修繕タスクを今すぐ執行しようじゃないか」
マコトは静かに首を縦に振った。
「ええ。速やかな実務のキックオフを要求します」
太陽の座標が天頂へと達する頃。
複数の農民の個体群が、彼らの作業圏内へと自然集結していた。誰に命令されるでもなく、彼らは鍬を手に取り、マコトの指示に従って土壌データの物理掘削タスクを開始した。
「そこの座標ではありませんよ」
マコトが無表情のまま、音声データを出力した。
「左の方角へ、正確に二歩分の質量移動を執行しなさい」
農民は弾かれたように身体を引きつらせ、速やかに掘削位置のパッチ(修正)を適用した。
「それから、このセクターですね」
マコトは水路の不規則な湾曲部を指し示した。
「ここの曲がり角の描線データを、あまり鋭利に加工(設計)しないように」
「なんでだい、ボス」
「水流のベクトルが衝突を起こし、流動速度に深刻なマイナス補正がかかりますからね」
農民は、深く納得の首を縦に振った。
彼らには、その高位の流体力学的な仕様解説の意味など一微ミクロンも解読できてはいなかった。しかし彼らは、社会維持の基本ルールとして一つの厳然たるファクトを共有していたのだ。
もしあの「ボス」という青年が発話した通りに実務をこなせば、等式の最終出力(結果)は、昨年までの常識を遥かに超越して良好な数値を示す、という不変のアルゴリズムを。
夕刻のタイムラインを迎える頃。
修繕の完了した水路へと、水分の物流リソースが公式に接続(放流)された。
すべての知的生命体が、その流動の様子を固唾を呑んでロックオンしていた。
これまでの歴史においては、東方の境界線付近で頻繁に溢水エラー(氾濫)を起こしていた水流が、現在は驚くほど滑らかに、凪いだ音を立ててセクター内を循環していた。それどころか、例年であれば水分の供給不足によって不毛なエラーを示していた最外周の耕作地にいたるまで、過不足なくリソースが行き渡る様子が目視された。
「……やりやがった」
ハンツが肺の底から生唾を飲み下し、ぽつりと呟いた。
マコトは小さく首を縦に振った。
「初期設計の等式通りですからね。当然の論理的帰結ですよ」
周囲の農民たちの表情パラメータには、完璧に満ち足りた肯定値が灯っていた。
そのうちの一人が、いささか緊張の様子を示しながらマコトへと向き直った。
「ボス」
「何かね? 申告しなさい」
「来たるべき次の種蒔き期がキックオフされた後のタイムラインでもさ、……あたしたちの実務を、引き続きナビゲーション(指導)してくれないかい?」
マコトは思考の処理リソースを消費することなく、即座に承認ログを出力した。
「ええ、当然です。この生存環境全体の最適化タスクが完了するまでの期間においては、私の稼働リソースを提供するルールになっていますからね」
農民は、これ以上ないほど広範な微笑みを深めた。
「そいつは心強い! 有難うよ、ボス!」
夜間のタイムライン。
農民たちは宿屋の酒場セクターへと集結し、エールの木椀を揺らしていた。
彼らの通信プロトコルは、案の定、同一のオブジェクト(マコト)に関する情報共有へと収束していった。
「あの細い水路の最適化リザルトは、本当に凄まじい精度だぜ」
「ああ、間違いねえ。もしボスの介入がなかったら、俺たちは今年も昨年までと同じ非効率な掘削ルーチンを無駄に繰り返してただろうからな」
老齢の農民が、満足そうに深く首を縦に振った。
「俺たちの耕作地の総容積(面積)は、漂着以降に跳ね上がり続けてる。それに伴って、処理待ちの実務の分量も指数関数的に増殖を執行中だ」
「ああ、手が足りねえレベルだ」
「だからこそよ……」
老農民は長椅子の席を見回し、声をワントーン落とした。
「……あたしたちの頭脳には今、それらの膨大なタスクを一括して統括管理するための、高スペックな『管理職』が必要なんだよ」
「最高統治者のモーレン村長じゃあ不都合かい?」
「いや、村全体のレギュレーション(政治)ならあの人で間違いねえさ。だけどよ、耕作地の現場の実務(農業)に関しては……」
複数の個体が、一瞬にしてその等式の解(正解)を脳内でロックオンした。
「――ボス、かい?」
老農民が深く頷き、データを確定させた。
「ああ。あいつが最も『土壌』を理解し、『水分』をスキャンし、『労働力の分配』を最適化し、『出力結果』を正確に監査できる。システム上、これ以上適合した個体は存在しねえよ」
翌朝のタイムライン。
その書き換えられた新規の要求仕様は、最高統治者モーレンの中枢執務室へと公式にパッチされた。
「……農民の、長かね?」
村長は老眼の瞳を見開いて復唱した。
「ええ、その通りです」
老農民が実直に応答のログを送信する。
「統治レギュレーションに干渉するような公的な役職(政治)じゃありませんよ。ただ純粋に、耕作地における毎日の労働タスクを効率的にコントロールしてもらうための、現場の班長さね」
モーレンは長い時間沈黙し、深い思案の処理を実行した。
実際の歴史ログを探索してみても、このルーナの村においてそのような役職が実装された前例は一度も存在しなかった。これまでのタイムラインにおいては、すべての個体が自らの限定的なデータベース(経験)のみを頼りにして、非効率に鍬を振るってきたからだ。
しかし現在、環境の仕様は一変していた。耕作地はアップデートされ、収穫量は増殖し、処理すべき雑務の分量も肥大化を続けている。システム全体の等式を維持するためには、確かにそれらを一括してコ・オーディネート(統括)する最高管理者が不可欠だった。
問題の焦点はただ一つ。……彼らがそのポストへと指名したオブジェクトが、あのマコトという青年であるという点だった。
モーレンは自らのこめかみを指先できつきつと揉みほぐし始めた。
「あいつは……、高確率で即座に拒絶のログ(却下)を出力してくるだろうね」
「ハハ、そいつの後の展開については、そのタイムラインに突入してからデバッグすればいいだけのことさ」
老農民は、完璧に満ち足りた微笑みを浮かべて退出していった。
昼時のタイムライン。
マコトは再び、中央集会所の執務室へと呼び出されていた。
境界線を跨いで立ち入ると、そこにはハンツと、数人の農民の個体群がすでに待機状態を維持していた。
「何か、新しい処理待ちの仕事でも発生しましたかね?」
マコトが生真面目なトーンで問いかけた。
モーレンは深く息を吸い込み、上体を出力した。
「おおむね、その解釈で相違ないよ、ボス」
マコトは首を縦に振った。
「ええ、継続しなさい。仕様を精査(確認)します」
「あたしたちはね、あんたにこの村の『農民の長』という役職に就任していただきたいんだ」
マコトは数秒の間、完璧な静止を記録した。
「長、かね?」
「そうだね」
「具体的な職務のスコープ(仕事内容)は?」
「耕作地における、すべての労働タスクの統括管理(スケジュール調整)さ」
マコトは長い時間、日常的な思考の演算を巡らせた。
「……なるほど。単に現場の作業効率を最大化させるための最適化ルーチン(管理業務)を執行するだけで良いのであれば、私はすでにこれまでの期間、その実務を日常的に代行してきましたからね」
彼は小さく首を縦に振った。
「システム上の整合性は取れています。引き受け(受注)しましょう」
「そいつは話が早くて助かるよ、ボス!」
モーレンの顔に、ようやく人間らしい安堵の光が宿る。立ち会っていた農民たちも一斉に良好な微笑みのパラメータを出力した。彼らは、これほど高難易度と思われた交渉プロシージャが、まさかこれほどスムーズに正常終了するとは予測できていなかったからだ。
マコトは彼らの表情を一人ずつ冷徹にスキャンした。
「ただし、一つだけ絶対に譲れない前提条件がありますよ」
「条件、かね?」
「ええ」
「何かな? 申告しなさい」
「この役職への就任と引き換えに、私はこれ以降、あの不整合な『豊穣の神』という識別符号の付着を一切拒絶します。私は創世神であり、豊穣の神ではありません。この二つの仕様が脳内で直結せぬよう、公式な規約としての処理(ルール化)を要求しますよ」
執務室の全体に、完璧な静寂が沈み込んだ。
複数の農民が互いに、引きつった視線をリレーさせた。モーレンはそっと重い瞼を閉じ、ハンツは押し寄せる笑いのパラメータを、これ以上ないほどきつきつと噛み殺していた。
「ボス」
モーレンが力なく、消え入りそうな声を出力した。
「この現場の役職の定義にはね、……そのような高位のオカルト仕様はただの一微ミクロンも実装(関係)されてはいないよ」
「ならば、何一つの矛盾もありませんね。契約、成立です」
その最終回答は、一片の躊躇のノイズもなく実直に出力された。
すべての人間が一斉に、肺の底から安堵の呼気を排出した。
マコトは、彼らの様子を淡々とスキャンした。
「では、実務のキックオフ(稼働)に先立ち、いくつかの必須タスクの変更履歴を仕様書へと書き加えますよ」
「仕様変更、かね?」
「ええ」
「何かな?」
「第一に、すべての水路の物流システム(灌漑)を最優先で拡張・修繕します」
「ふむ」
「第二に、個体ごとの詳細な労働スケジュール(シフト表)をビルドします」
「ほう」
「第三に、種子オブジェクトの投入量と消費コストを正確に台帳へと記録します」
「なるほど」
「第四に、各耕作地の土壌データを水分補給の必要度に応じて複数のセクターへと分類し、効率的な分配管理を執行します」
すべての農民が、口を開けてその高密度の文字列をただ受信(傾聴)していた。
マコトは真顔のまま、これからの工程表を淡々と出力し続けた。
最高管理者たる彼にとって、「農民の長」というポストは、他者から与えられた名誉ある称号などでは決してなかった。単なる、新しく発生した「事務処理の実務(お仕事)」に過ぎないのだ。そしていかなる職務であっても、それを運行するためには、完璧に最適化された正確な手順が必要不可欠なのだから。
最高統治者モーレンは、その若者が平然と言い放つ驚異のオフィススペックを目の当たりにしながら、自らの脳内台帳の片隅に、これまでただの一度として導き出したことのない、奇妙な等式(思考)を組み立てていた。
もしかすると。――ほんの僅かな確率の仮定であるが。
村の居住民たちが、この青年の正体を「豊穣の神」と呼称して崇拝しているその認知エラーは、客観的なファクトとしては完璧なバグ(間違い)なのかもしれない。
しかし、……。
彼ら人間が、この村の農業という名のシステム運営の全権を、この生真面目な若者に対して一括して委ねる(コミットする)と決定したその意思決定それ自体は――。
社会運営の観点から逆算してみる限り、何一つとして間違ってはいない、これ以上ないほど「正常な解(正解)」だったのではないだろうか、と。
なぜなら、この広大な開拓村ルーナの全生存圏において。
マコトという一個体以上に、耕作地という複雑なシステムをこれほど高効率に、美しく稼働させることのできる高スペックな頭脳を持った担い手など、最初からただの一名も存在してはいなかったのだから。
最高神マコト自身は、ただ腰の空虚なインベントリを満たし、ハンツへの債務を速やかに決済するという極めて日常的な生存戦略のために、新しく獲得した管理職の権限を以て、次なる過酷で、磨り減るような『崇拝と信仰の大大大大不祥事』が、村全体のネットワーク内部で凄まじいトルクを以て次の仕様へとアップデートされたという不都合な現実に――やはり、この時点においては、まだ気付いてはいないのであった。




