第40章 さらに深刻な誤解
マコトは、無機質な石の像の前に集積されていたジャガイモの一籠を実直な動作で拾い上げた。それから、その物理オブジェクトを両手で保持したまま、宿屋の女将の個体が就いているセクターへと向かってまっすぐに歩みを進めた。
「ハンツ」
「おう、ボス。今度はその供物の山をどこへ物理移動させる気だい」
「もしこの食物リソースをこのまま放置し続けるならば、時間の経過とともに有機物の品質パラメータが著しく低下(腐食)することになります」
ハンツの論理回路に、一瞬にして最大級の不吉なアラートが点滅した。
「……あんた、一体どこへ直進するつもりだ」
「返却実務ですよ」
「……」
「不都合な手続きかね?」
マコトはわずかに首を傾げた。
「このリソースは、私の保有するインベントリのデータではありませんからね。本来の所有者の元へと差し戻されるのが、事務処理のルールとして当然のプロシージャですよ」
ハンツは口を開き、それからそれをきつく閉じた。
その仕様変更(行動)を力ずくで却下するための論理的な等式は、現在の彼のデータベースからはサルベージできなかった。マコトの中においては、何一つの綻びもない完全な正論であったからだ。
宿屋の女将は、家屋の入り口セクターにおいて、未舗装の地面のデバッグ(清掃実務)を地道に執行している最中だった。マコトの進入を検知すると、彼女は箒を止めて顔を持ち上げた。
「おや、ボスじゃないかい。どうしたんだい」
マコトは保持していたジャガイモの籠を、彼女の正面へと生真面目な動作で設置した。
「これは、村のいずれかの個体が紛失(放置)していった物資ですよ」
女将は、その籠のテクスチャを凝視し、次いでマコトを見つめた。
「それで?」
「本来の所有者を特定し、速やかにこのリソースを返還(お返し)するタスクを代行していただきたいのですがね」
「なんでだい?」
「食物というシステムの最優先の仕様定義は『他者に摂取されること』ですからね。このように無意味な座標(石の像の前)へと長期間ホールドしておく行為は、プランニングの完全な失敗ですよ」
宿屋の女将は数秒の間、完全に沈黙して彼を見つめた。
やがて、その皺の刻まれた顔を緩めると、これ以上ないほど温かい微笑みを出力した。
「ボス」
「何かね?」
「あんたは本当に、どこまでも出来た良い奴だねえ」
マコトは静かに瞬きを実行した。
「尋ねたいのですが、その感想と、私の出力した客観的なファクトとの間には、いかなる因果関係も結びつかないのだがね」
「せっかくの作物の恵みをさ、一微ミクロンも無駄にしたくないんだろ? よく分かってるさ」
「それは認めますが、単にシステム運営上のルールを述べているに過ぎませんよ」
女将は満足そうに首を縦に振った。
「あたしが責任を持って、そのリソースの分配タスク(おすそ分け)を執行しとくよ」
マコトは小さく首を縦に振った。
「完了ですね。適切な処理ですよ」
これでエラーの箇所はクリーンに修正された。少なくとも、彼自身の演算結果から見れば。
しかし不運なことに、本当のバグ(大大大不祥事)はここからキックオフされたのである。
宿屋の女将は、マコトの立ち去った直後のタイムラインにおいて、近くにいた数人の農民の個体群を自らの通信圏内へと呼び出したのだ。
「いいかい、お前ら」
女将は声を潜め、新しい上書きレギュレーションを伝達し始めた。
「これから豊穣の神様へプレゼント(供物)を差し出すときにはね、……絶対に作物の品質が低下するような放置の真真似をしちゃいけないよ」
農民たちは、熱心にその音声データを受信していた。
「そいつは筋が通るな」
「ああ、間違いねえ」
「だったらよ、像の前でお参りコマンドを実行した後のタイムラインでさ、その物資を回収して、みんなで均等に口腔へと補給(食事)し合えばいいんじゃないかね?」
「そいつは素晴らしい等式の結び方だ!」
わずか数分間の処理時間ののち、村のトランクラインを流通する文字列の内容は、完璧に書き換えられていた。
それはマコトが事務処理上の都合で物資を返却したというシンプルなファクトなどでは決してなかった。
彼らの脳内台帳に定着した新規の変更履歴は――「豊穣の神、マコトは、作物の無駄遣い(リソースの浪費)を著しく嫌う仕様である」。
夕刻のタイムラインを迎える頃。
マコトは中央広場の隅において、またしても新たな環境変化を検出していた。
確かに作物の山は、相変わらず石の像の正面セクターへと設置され続けていた。しかし不可解なことに、一定の処理時間が経過したのち、それらの物資は農民たちの手によって中央集会所へと物理移動され、そこですべての住民たちへと一括分配されるという、極めて高効率な流動物流が自動運行されていたのだ。
マコトはその様子を、凪いだ瞳で静観していた。
「ふむ」
彼が静かにつぶやく。
「これまでに比べて、著しく高効率で合理的なシステムへと最適化されましたね」
隣のスペースに直立していたハンツが首を巡らせた。
「あんたのシステム的には、そいつが良好な結果なのかい、ボス」
「ええ。食物リソースが過不足なく活用され、廃棄エラー(ゴミ)が皆無へと収束していますからね。美しいプロシージャですよ」
ハンツは引きつった顔のまま苦笑を出力した。
彼はもう、この素晴らしい物流改革が、他ならぬマコト自身の口腔から出た「生真面目な正論」をトリガーにして、人間側の認知フィルターが勝手に組み上げた非論理的なバグ結論の成果であるという厳然たるファクトを、正確にデコードしていた。
そして優秀な第一助手としては、そいつを今さら本人へアナウンスして脳内をフリーズさせるコストを省くため、聞こえなかったことにした。
数日間のタイムラインが迅速に経過していった。
ルーナの村の内部においては、すでに一つの新しい「基本仕様」が完全にファクト化(固定化)されていた。
居住民たちは早朝のタイムラインに像の座標へとログインし、極小の作物を設置し、数秒の間の静止コマンド(お祈り)を実行し、その直後のフェーズにおいてその物資を集会所へと物理移動させ、全員で口腔への補給タスクを代行し合う。
彼らはその一連の手続きを「儀式(儀礼)」などというオカルトな識別符号で呼称してはいなかったし、明文化された台帳のルールも存在しなかった。しかし悍ましいことに、すべての個体が、寸分の狂いもなく全く同一の手順を以てその挙動を維持し続けていたのだ。
最高統治者モーレンは、集会所の入り口セクターからその光景を長い時間、監査の瞳で見つめていた。
彼は自らのこめかみを指先できつきつと圧迫し始めた。
「……事態は、より深刻なレイヤーへと突入してしまったね」
隣に直立していたハンツが声を潜める。
「あの像オブジェクトの布設タスクの時よりも、深刻なバグかい、村長」
「ああ、間違いねえよ」
「なんでだい?」
「村の連中の中にさ、完全に共通の『作法』が確立されちまったんだよ」
ハンツもまた住民たちの動きを凝視し、村長の放った不吉な予測演算の意図を正確に解読した。
特定の行動変更履歴が、ただ一一個体の奇癖として処理されている段階においては、そいつは単なるバグに過ぎない。しかし、そのバグが群生圏の全個体によって同時に同時接続(実行)され始めたとき――。
それはシステム内部において、永続的に消去不能な『伝統(文化)』という名の強固なインフラへと完全な仕様変更を遂げてしまうからだ。
まさにその同じ時間帯。
マコトは耕作地の脇にある木陰のスペースにおいて、村の数人の子供の個体群に対して、算術の基本アルゴリズム(計算)をインプットする教育タスクを代行していた。
「もしここに、五個のジャガイモのオブジェクトが存在すると仮定します」
彼は右手に保持していた細い枝を使い、未舗装の土壌データ(地面)の上に、規則的な数式(数字)を真顔のまま刻み込んでいった。
「そこへ、さらに三個の追加パッチ(加算)を実行する。等式の出力結果(解)はいくつかべきかね?」
「――ハチ!」
子供の個体群が一斉に、高音量の音声データを排出した。
「正常終了です。ブレのない正しい数値ですね」
マコトは満足そうに首を縦に振った。
人間の幼い個体に対して算術基礎をインプットする実務は、それなりに良好で満足度の高いタスクであった。少なくとも、無機質な「数字」というものは、彼の仕様解説を歪めて解読(誤解)するような不都合なバグを、ただの一微ミクロンも発生させないからだ。
すると、一人の子供の個体が、自らの右手を物理的に持ち上げた。
「ボス!」
「何かね? 申告しなさい」
「豊穣の神様が計算を執行するときってさ、やっぱり頭の中で凄い数式が流れてるのかい?」
マコトは一片のブレもない真顔のトーンを維持したまま、即座に拒絶の応答ログを出力した。
「私は、豊穣の神格ではありませんよ」
「うん!」
子供は一片の不純物もない純粋な瞳で、元気よく首を縦に振った。
「私は、全マルチバースの因果の等式を布設した創世神だ」
「うん!」
「ならば、……」
子供の個体は、満足そうな微笑みのパラメータを出力した。
「……つまり、創世神様は、算術の計算スペックもめちゃくちゃ高いお方なんだね!」
マコトは首を縦に振った。
「ええ、当然です。全知のデータベースの保守業務をワンオペで執行していましたからね。事実に基づいた正確な申告ですよ」
マコトにとっては、何一つ嘘偽りのない純度百パーセントのファクトであった。しかし、その音声データを受信した子供たちは、キャッキャと愉快そうな爆笑の暴風を響かせ始めた。
彼らの認知フィルターにおいては、目の前の超インテリなボスが、またしても大真面目な真顔を崩さないまま、最高に洗練された「創世神ジョーク」を上書き出力して自分たちをエンターテイン(楽しませて)くれているのだと、都合よく処理されたようだった。
太陽のオブジェクトが西へと沈む頃。
隣のセクターの集落から立ち入っていた一人の行商人の個体が、ルーナの村からの退去コマンド(出発)を執行する準備を進めていた。
荷馬車のセッティングを終えた御者台の脇において、彼はたまたま通りかかったハンツへと、通信を繋いできた。
「いやあ、一つだけ脳内台帳の検証(気になること)を要求したくてさ」
「何かな? 申告しなさい」
「村の連中がさ、あの石の像の前で一括して物資の移動(お供え)を行った後、すぐに回収して全員で均等に口腔へと補給し合ってるだろ。あれは、一体どのようなレギュレーションなんだい?」
ハンツは無言のまま静止した。
彼は自らの脳内回路から、外部の個体に対して最も流通コストの低い、正常な返信メッセージの構築(言い訳)を模索した。
やがて、低い声を絞り出した。
「……あれはな、あのボスの命令で稼働してるわけじゃねえんだよ」
「知ってるさ」
「ボスはな、作物の品質低下(リソースの浪費)を著しく却下する仕様なんだよ。恵みを絶対にゴミにするんじゃないってさ」
行商人は、ゆっくりと納得の首を縦に振った。
「それで?」
「だからこそ、お参りタスクの完了した後のフェーズにおいて、全部全員でありがたく胃の中に格納する手順へと変更(最適化)されたのさ」
商人は唇の端を緩め、畏怖の混ざった深い微笑みを出力した。
「なるほどな……。そいつは実に興味深い仕様だ」
ハンツは首を縦に振った。自らの出力した仕様解説は、客観的には何一つ間違っていない完璧なファクト(事実)であると、そう安ッドの処理を行っていた。
しかし不運なことに、その行商人の個体が荷馬車の手綱を握り、集落のゲートを跨いで外部の世界線へと物理移動を執行するプロセスにおいて――彼の口腔からは、完璧に間違った、しかし彼にとっては最高に美的価値の高い、新たなる非論理的な等式(誤解)が独り言として漏れ出していたのである。
「……実に見事な等式の結び方だぜ」
「何がですか?」
隣の御者台に就いていた手下の個体が問いかける。
商人は、急速に背景データ(遠ざかる村の景色)へとシフトしていくルーナの村を、どこか畏怖の混ざった瞳で見つめ続けていた。
「あの村の、新しい豊穣の神様はな、……」
「はあ」
「……ただ奇跡をもたらすだけの下位の存在じゃねえ。民たちに対して、大地の恵みを一微ミクロンも無駄(リソースの浪費)にしてはならぬという、高位の管理思想(教え)を直接インプット(伝道)してやがるんだよ」
ハンツはその音声データを受信していなかった。
マコト自身もまた、その不都合なリーク(噂の拡散)をただの一微ミクロンも関知していなかった。
しかし不運なことに、その完璧に間違った、しかし悍ましいほどにドラマチックで美しい新規のラベル(あだ名)は、荷馬車の車輪が放つ規則的な振動音と連動しながら、確実に村の境界線の外部へと発送されていったのである。
未舗装の主要道路を直進し、まだ見ぬ別の広大なセクター(他の村々)へと向けて。
そして過去のすべての変更履歴がそうであったように――。
客観的な真実のログは、人間という生命体の共同幻想のネットワークを通過するたびに、自らの正確なデータ構造(形)を少しずつロストし、消去され、代わりに彼らにとってこれ以上ないほど「都合が良くて美しい神話」へと、完璧な仕様変更を重ねていくのであった。
最高神マコト自身は、ただ目の前にある算術の教育雑務を完璧に片付け、自らの財布の残高を安定させるという極めて日常的な生存戦略のために、次なる過酷で、磨り減るような大豊穣の崇拝シナリオが、村全体のネットワーク圏外において凄まじいトルクを以て自己増殖を開始したという不都合な事実に――やはり、この時点においては、まだ気付いてはいなかったのである。




