第39章 再びの誤解
マコトは、村の内部に発生した極小の環境変化を正確に検出していた。
それは視覚的なパラメータとして明確に布設されたものではなかったが、地道な観察によって十分に抽出可能なデータであった。
複数の居住民が、中央広場の最外周の隅に直立する無機質な石の構造物の脇を通過する際、ピタリと歩行コマンドを停止させるようになっていたのだ。一部の個体はただ静かに首を縦に振り、また一部の個体は構造物の土台セクターの前に、一袋か二袋の収穫物を静かに設置していった。
システム上の強制ルールはなし。
納税のような義務的なレギュレーションも皆無。
誰に命令されるでもなく、彼らはただその挙動を維持していた。
だからこそマコトの論理回路にとっては、その非効率なアクションの意味を解読することが著しく困難であったのだ。
「ハンツ」
「おう、ボス。仕事は順調かい」
「尋ねたいのだが、彼らは一体どのようなタスクを執行しているのかね?」
ハンツはマコトの視線のベクトルに自らの網膜を同期させた。
「ああ。あれかい」
「ええ」
「そいつはな……」
初老の農民は自らの音声パケットを慎重に選別して出力した。
「……一種の『基本仕様』みたいなもんだよ」
「基本仕様、かね?」
「ああ。連中、あの動作を完了したタイムラインの方が、システム内部の様子(気持ち)が安全に安定するらしいのさ」
マコトは石の像を長い時間、真顔のまま精査し続けた。
「それで?」
「ただ、それだけさ」
マコトは小さく首を縦に振った。
人間という生命体には、本当に、論理的な等式で説明のつかない無駄な習性が数多く実装されているらしい。どうやらこれも、そのバグ仕様の一種であるようだった。
その日の早朝、マコトは集落の最外周セクターに暮らす老齢の女性の個体が所有する、家畜の囲いフェンスの修繕実務を地道にサポートしていた。
木製の支柱オブジェクトの一本が、経年劣化によって著しい腐食の兆候を示していたのだ。もしこのエラーを放置すれば、家畜の個体群が境界線を越えて不法侵入し、作物のデータ構造を物理的に損壊させる大不祥事を誘発することは明白だった。
マコトの見解によれば、このエラーの構造は極めて単純だった。事象が完全に破綻して致命的なバグになる手前のフェーズにおいて、速やかに原因をシステムから除外すればいい。
彼は古い木柱をインベントリから除外して新しい杭へと置き換え、周辺の土壌データを地道に踏み固め、フェンス全体の傾きパラメータが完全に正常値(真っ直ぐ)を維持していることを確認した。
「タスク、完了ですね」
マコトが無表情に告げる。
老婆の個体は、日に焼けた顔面を緩めて良好な微笑みを出力した。
「有難うよ、ボス」
マコトは一片のブレもない真顔のまま、首を横に振った。
「いいえ。このフェンスの構造強度は、いずれにせよ修正されるべき正常値から逸脱していましたからね。私は単に、執行されるべき当然の実務を代行したに過ぎませんよ」
老婆は新しい応答データを返信してこなかった。ただ、その満ち足りた表情を維持したままであった。
昼時のタイムラインを迎える頃。
その老齢の女性は、自らの家屋へと帰還するルートの途中で、広場の豊穣の神の像の前へと立ち寄った。
彼女の手元には、たった今自らの耕作地から回収したばかりのジャガイモのオブジェクトが保持されていた。
老婆は歩行コマンドを停止させた。
そしてそのうちの一一個のジャガイモを、石の像の正面へと静かに設置した。
「有難うございました」
彼女は低い声のログを吐き出した。
空間には風の音しかなく、その通信を正常に受信した知的生命体は存在しなかった。
――ただ一人、広場の境界線で遊んでいた村の幼い子供の個体を除いては。
子供はその一連の物理的挙動をじっとロックオンしていた。そして老婆の個体へと、一片の不純物もない純粋な瞳を向けた。
「おばあちゃん」
「何かな?」
「そいつ、豊穣の神様へのプレゼント(供物)かい?」
老婆は数秒、思考の処理速度を調整したのち、首を縦に振った。
「ああ、そうさね。あたしのうちのフェンスの不具合がな、完璧にデバッグ(修理)されたからさ」
子供は納得の首を縦に振った。
新しい環境データが、彼の記憶インベントリへと正常に格納された瞬間であった。
夕刻のタイムラインを迎える頃。
その子供の個体は、自宅の調理セクターにおいて、受信した出来事のログを自らの母親へと送信(共有)した。
「お母ちゃん」
「何だい?」
「さっき広場でさ、おばあちゃんが豊穣の神様に有難うってデータを送信してたよ」
「なぜだい?」
「おばあちゃんちのフェンスがね、綺麗に書き換えられた(直った)からだってさ」
母親は、素朴な微笑みを出力した。
「おやまあ。そいつはボスが早朝から実務を代行してくれたんだよ」
「うん!」
子供は首を縦に振った。
「だからおばあちゃん、有難うって言ってたんだ」
文字列自体の構造は極めて単純な事実であった。しかし悲しいかな、そのデータが個体から個体へとリレー(拡散)されるプロセスにおいて、人間という不完全な受信機のネットワークは、またしても最悪の仕様変更をキックオフしてしまったのだ。
一個体から、二個体へ。
二個体から、四个体へ。
四个体から、八個体へ。
そして太陽のオブジェクトが完全に地平線の下へとロスト(日没)する頃には、流通する噂の記述内容は全く異なるエラーコードへと書き換えられていたのである。
「――豊穣の神様が、自らの奇跡を以て老婆のフェンスを修繕されたらしいぞ」
誰一人として、悪意を以て虚偽データを申告(嘘をついた)したわけではなかった。
しかし、情報の通過プロセスにおいて、あの「ボス」という本来の識別符号は綺麗にシステムからデリート(忘却)され、残されたのは「豊穣の神」という強力なラベルのファクト(事実)だけだったのである。
夜間のタイムライン。
最高統治者モーレンは、中央集会所の入り口の木製ベンチにおいて、ハンツと並んで腰掛けていた。
両者は、宿の女将から提供された温かい熱量を口腔へと補給していた。
「また新しいエラー報告(噂)を受信したぜ、村長」
ハンツが静かに切り出した。モーレンは肺の底から重い溜息を吐き出した。
「今度は、一体どのような不具合かね?」
「ああ。豊穣の神様が、自らの神聖な魔力を以て、村の境界線のフェンスを一瞬でパッチ(修繕)したってさ」
モーレンはそっと目を閉じた。
「……そいつを執行したのは、あのボスという青年だね」
「ああ、間違いねえ」
「フェンスの杭を物理的に埋め戻しただけの実務だね」
「ああ、そいつのログも残ってるぜ」
「ならばなぜ、最終的な出力結論がそのようなオカルトへと変換されて流通するのかね?」
ハンツは頑丈な肩をすくめた。
「その方がな、村全体のネットワークにとっては情報の流通コストが低くて(話しやすくて)都合が良いからさ」
モーレンは自らのこめかみを乱暴に揉みほぐし始めた。
噂という不完全なシステムは、いつだって事象のディテールを勝手に初期化(簡略化)するものだ。問題の本質は、その簡略化のプロセスが、厳然たる現実のファクトを完璧に消去(上書き)してしまうという点にあったが。
まさにその同じ時間帯。
マコトは、集会所の執務室から借用してきた次回の種子分配計画の台帳シートを、大理石のような無表情のまま精査(監査)していた。
そして、記述された数値の配列の中に、一つの明白な不整合を発見した。
「ふむ」
彼が静かにつぶやく。そこへハンツが接近してきた。
「何か、実務上のエラーでも検出したかね、ボス」
「ええ。重大な計算バグが散見されましたよ」
「どこだい」
「北方セクターの耕作地に割り当てられる予定の種子オブジェクトの数量データが、仕様書に比べて正確に『二麻袋分』不足していますね」
ハンツはそのシートの配列を目視した。
厳然たるファクトだった。もしこのエラーを検知せずに次のタイムライン(春の種蒔き)へと突入していたなら、北方セクターの分配管理システムに深刻な機能不全が発生することは間違いなかった。
「あんた、またしても完璧なタイミングでバグ(不備)を発見しやがったな」
ハンツが感嘆のログを出力した。
「ええ、客観的な事実ですからね」
マコトは羽根ペンを手にとった。
そして、台帳の数式を正しい正常値へと速やかに書き換え(デバッグ)した。
最高管理者たる彼の論理回路によれば、このような書類上の極小のエラー修正実務こそが、社会全体の成否確率を維持する上で何よりも優先順位の高い切実なタスクであったのだ。初期段階で放置された極小のバグは、時間の経過とともに指数関数的な大不祥事へと増殖を執行するものだからだ。
その管理思想は、かつて天界の運行管理事務室で数億年間稼働させていた絶対原則であり、そしてこの辺境の極小の開拓村においても、完璧な精度で適合する仕様であった。
翌朝のタイムライン。
マコトが実直な足取りで中央広場を通過した際、彼は直立する石の像の前に、新たな物理オブジェクトの集積(変化)を検知した。
ジャガイモの山。
小麦の一束。
野生の草花。
さらには、小さな編み籠に格納された新鮮なリンゴの固体群。
設置されているリソースの総容積は、昨日のタイムラインに比べて明らかに数階層上の桁数まで跳ね上がっていた。
マコトは歩行コマンドを停止させた。そして、隣のスペースに直立していたハンツへと視線を同期させた。
「ハンツ」
「おう、ボス。どうしたんだい」
「尋ねたいのだが、この空間に就いている人間たちは、自らの回収した収穫物のデータを自宅のインベントリ(倉庫)へと搬入するタスクを完璧に忘却してしまったのかね?」
ハンツはエールの呼気を吐き出し、激しく咳き込み(エラー終了し)かけた。
「違う、違う! 忘れたわけじゃねえよ!」
「ならば、なぜこの土壌の上に物資を放置しているのかね?」
「そいつはな……」
初老の農民は重い瞼を閉じ、諦念の溜息を出力した。
「……あの像へのプレゼント(供物)だよ、ボス」
マコトは再び、地面へと集積された作物の山を真顔のまま精査し続けた。
彼は数秒の間、深い日常的な思案を巡らせたのち、自らのデータベースから導き出された最も合理的な等式を出力した。
「――著しく非効率なリソースの浪費ですね」
「ん?」
「食物というシステムの最優先の仕様定義は『他者に摂取(消費)されること』ですよ。このように何一つつまらぬ物理的な高度(地面の上)へ長期間放置する行為は、物資の腐食エラーを誘発するだけの完璧なプランニングの失敗ですがね。速やかに口腔へと補給されるべきだ」
ハンツは反論のログを返せなかった。
最高管理者の視点から見れば……その指摘はどこまでもクリーンで、何一つ歪みのない「完全な正論」であったからだ。
しかし不運なことに……。
その座標の脇をたまたま通りかかった数人の農民の個体群が、マコトの発したその冷徹な仕様解説を、完璧に受信してしまったのだ。
一人の農民が、感動のあまりその瞳を輝かせながら、低い声を潜めた。
「……おい、見たかい」
「どこをだよ」
「お方様はな、あたしたちが像の前に並べたあの食物のデータ構造まで、全知の目で心配してくださってるんだ」
「ああ……」
「『せっかくの恵みを無駄にするんじゃないよ、お前たちの腹の中にちゃんと格納しなさい』ってさ、大真面目な顔で俺たちの生存格を気遣ってくれやがったんだよ」
「間違いねえ。どこまでも俺たちの生活を最優先に考えてくれる、有難い神様だ……!」
マコトは正面の個体群を真顔のまま凝視した。
それからゆっくりと首を巡らせ、隣のハンツの顔を見た。
「ハンツ」
「おう、ボス。全部聞こえてたぜ」
「……またしても、人間側のシステムが非論理的な等式を自動生成して、私が致命的な誤解を受容する羽目になりましたね」
ハンツは日に焼けた顔面を引きつらせ、ゆっくりと首を横に振った。
「いや、違うぜ、ボス」
「ならば、一体どのような処理結果かね?」
「今回はな……」
初老の農民は、完璧に満ち足りた表情で崇拝のログを出力し続けている農民たちの姿を見つめ、苦々しい微笑みを出力した。
「……あんたじゃなくて、あいつらの方が勝手に『再びの誤解』を上書き登録しちまったのさ」




