第38章 最初の神託
豊穣の神の像の前に具現化したあの巨大な作物のオブジェクトは、それから数日間の時間が経過しても、村の主要な通信網における最優先の話題であり続けていた。
初期段階においては、その変更履歴は単にこの開拓村ルーナの境界線内部に留まっていた。しかし、交易都市へと帰還していく行商人の個体群がその現生物理データを外部の場所へと搬出し始めたことで、情報の記述内容は個体から個体へとリレーされるたびに、少しずつ、しかし確実に書き換えられていったのである。
ルーナの村の内部においては、農民たちが通常の初期設定を著しく逸脱した、不可解な容積のジャガイモが土壌から検出されたと事実を出力していた。しかし隣の集落へと情報が送信された頃には、それはこれまでの開拓地の歴史において、最も巨大な最大出力を持つ作物へと更新されていた。さらに遠く離れた別の生存圏へとデータが流通した時には――。その巨大なオブジェクトは、もはや単なる農産物ではなく、天界から布設された絶対的な恩恵として、公式な台帳に書き込まれるに至っていたのだ。
マコト自身は、自らの名前が外部の世界線でどれほど異常な増殖を執行しているかなど、ただの一微ミクロンも関知していなかった。
その日の早朝、彼は前夜の局所的な降水によって物理的な損壊を受容した、耕作地への細い水路の修繕実務を地道にサポートしていた。最高管理者たる彼の論理回路によれば、水分の物流リソースが正常に循環することの方が、確率論的な誤差によってたまたま容積を増大させた一個体のジャガイモについて不毛な通信を繰り返すよりも、システム運営の観点から見て遥かに優先順位の高い実務であったからだ。
太陽の座標が天頂へと近づく頃。レトという名の若い農民が、中央広場の隅に布設された豊穣の神の像の前へと不器用な足取りで接近してきた。石工の手によってビルドされたその無機質な構造物は、おだやかな風を浴びながら静かに佇んでいた。
この像の完成ログが出力されて以来、村の一部の個体群は、自らの第一収穫物を土台の前へと無償で設置する例外処理を、誰に命令されるでもなく自発的に実行し始めていた。システム上の強制ルールはなし。明文化された規則性も皆無。彼らはただ、脳内台帳の記述に従ってその挙動を維持していた。
レトは、自らのインベントリから取り出した三組の小ぶりなジャガイモを、像の正面へと実直に設置した。それから、日に焼けた己の頭を乱暴に掻きむしった。
「……おかしいな」
若い農民が、低い声のログを吐き出した。
「あたしの脳内回路を探索してみても、このような状況でいかなる音声データを出力(発言)すべきなのか、正確な定型句がサルベージできねえや」
彼は自嘲気味の失笑を漏らすと、マコトの外見データと完璧にそっくりに彫り上げられた石の顔面をじっと見つめた。
「もし仮にだ。もしもあんたが、本当に村の連中の言う通り豊穣の神様なんだとしたらよ……」
男は即座に首を振り、自らの理性を再起動した。
「いや、違うな。そいつは却下だ。もしその文字列を本人の前で発信したりしたら、ボスはまた大真面目な顔して拒絶アラートをまくしたてるに違いねえ」
レトの記憶には、数日前の中央広場でマコトが放ったあの冷徹な仕様解説のパケットが、完璧な精度で保存されていたのだ。
『私は、豊穣の神ではありません』
あの青年はいつだってその平然としたトーンを崩さない。だからこそ、レトは自らの言葉の選別を、極めて慎重に執行することにした。
「だったらよ……」
若い農民は数秒、思考の処理速度を調整したのち、仕様を出力した。
「……この村の労働実務を、色々と手助けしてくれて有難うよ」
彼は自らの上体を斜め下へと物理移動(一礼)させると、即座に歩調を切り替え、自らの担当する畑での耕作ルーチンへと帰還していった。それはどこにでもある、極めて日常的な実務挙動に過ぎなかった。等式はそこで完結し、何一つつまらぬ二次被害を発生させる余地など残されていないはずだったのである。
夕刻のタイムラインを迎える頃。レトは自らの家屋の背後にあるプライベートな耕作地において、土壌の穴掘り作業を執行していた。その最中、彼の保持していた鉄製の鍬が、地中の不可視のセクターにおいて、著しく硬度の高い無機質な障害物へと激突した。硬い衝撃音が大気に響く。
「おや?」
彼は膝を物理的に折り曲げてその座標へと身を沈めると、不器用な手つきで周辺の土壌データをかき分け始めた。数秒の処理時間ののち、地中から一つの巨大な岩石オブジェクトが具現化した。貴金属の成分は皆無。財宝のデータ構造もなし。それは単なる、ありふれた硬い石の質量に過ぎなかった。しかし不都合なことに、その物理配置は、これから成長を執行する予定であった作物の根系の拡張ルートを、完璧に妨害する位置に布設されていたのだ。
レトは安堵の溜息を出力した。
「危ねえところだったぜ。今のタイムラインでこの障害物を検出できて助かった」
彼が実直につぶやく。
「こいてを放置してたら、ジャガイモの成長システムに深刻なエラーが発生して、最大出力が著しく低下するところだった」
彼は自らの力を動員してその巨大な岩石を耕作地の圏外へと物理移動させた。タスク、正常終了。彼自身の認知能力から言えば、今日という一日は、ただのありふれた正常値の範囲内の日常データに過ぎなかった。
しかし不運なことに、太陽のオブジェクトが日没し、彼が宿屋の酒場セクターにおいてその出来事のログを周囲の農民たちへと世間話として送信した瞬間から――事象の等式は、悍ましいほどの不条理なズレへと書き換えられていったのである。
「耕作地から、その障害物を検出したのかい?」
一人の農民が、エールの木椀を揺らしながら問いかけた。
「ああ。鍬がたまたまそこに激突してさ」
「もし、今のタイミングで発見のデータが出力されていなかったら?」
「そりゃあ、作物の根が窒息して、今年の秋の収穫量データに大きなマイナス補正がかかってただろうな」
その隣の長椅子に就いていた老齢の農民が、満足そうに深く首を縦に振った。
「……おい、見たかい、お前ら」
「何がだよ」
「レト、お前、今日の早朝のタイムラインにおいて、あの神の像の前でお参りしてただろ」
レトは失笑のログを返した。
「ハハ、そいつはただの確率論的な偶然さ」
「だけどよ、お参りコマンドを実行した直後のタイムラインで、その障害物が正確にデバッグされたんだぜ?」
「それはあたしが鍬を力任せに振り下ろしたからであってさ……」
「そこが、認知バイアスの始まりなんだよ」
レトは、対話プロトコルのベクトルが著しく非論理的な方向へと暴走し始めているのを正確に検知し始めた。
「いや、違うって。あの石は最初からあそこの座標に格納されてたんだ」
「ああ、そいつは分かってるさ」
「あたしは本当に、たまたま鍬を当てただけなんだよ!」
「分かってる、分かってるって」
老農民は唇の端を釣り上げ、深い納得の微笑みを出力した。
「つまり、豊穣の神様があんたの網膜データを裏でコントロールしてさ、その障害物の埋まった正確な座標へと鍬を誘導してくれたって理屈になるだろ」
レトは、自らのこめかみを指先できつきつと圧迫し始めた。
「……あたしが出力した本音は、そういう意味じゃねえんだがなあ」
その隣のテーブルセクターにおいては。食事交代のタスクを消化中だったハンツの保持していた木製のスプーンが、ピタリと完璧なフリーズを記録していた。彼は隣のスペースに就いていた最高統治者モーレンへと、鋭い網膜のデータを同期させた。モーレンもまた、その感情を削ぎ落とした無機質な瞳で彼を見返していた。両の知的生命体は、先ほどから隣のセクターで流通している音声データを、完璧な精度で受信していたのだ。
そして両者は、寸分の狂いもなく全く同一の不吉な予測演算に達していた。
「……起動したね」
モーレンが、低い声のログを吐き出した。
ハンツは重く首を縦に振る。
「ああ」
「ついに、最悪の変更履歴が上書き登録されちまったか」
「どっちの仕様だい、村長」
ハンツが声を潜めて問いかける。モーレンは、宿屋の木製の窓枠の向こう側にうっすらと目視できる、あの無機質な石の構造物へと視線のベクトルを固定した。
「――神託さ」
初oldの農民は肺の底から、本日最も重い溜息を排出した。実際の客観的な事実を検証するならば、そこには高位のメッセージなどただの一微ミクロンも存在していなかったのだ。単に一介の農民が、自らの耕作地からありふれた岩石オブジェクトを掘り起こしたという、極めて日常的なデータに過ぎない。しかし嫌なことに、人間たちの共同幻想のネットワーク内部においては、そのデータはすでに強力な変形を開始していた。少しずつ、しかし修復不能な規模まで。
そんな村中の通信網で最悪の大不祥事として処理されているマコト自身は、自分が新たなる誤解のシナリオの中心オブジェクトになっている事実など、ただの一微ミクロンも関知していなかった。
彼は宿屋の木製ベンチの上において、先ほどモーレンの執務室から無償で借用してきた、過去数年間の収穫台帳のシートを真顔のまま精査していた。
「ふむ」
彼が静かにつぶやく。そこへ、ハンツがカウンターの奥から一椀の温かいスープを満たした木椀を保持して立ち入ってきた。
「ボス、まだその不毛なデータ精査を継続しているのかい」
「ええ。この収穫台帳の変更履歴の中に、極めて興味深い規則性を検出しましたよ」
「規則性、かね?」
「はい」
マコトは、台帳に刻まれた数値の配列を指し示した。
「もし、東方セクターの耕作地に布設されている細い水路の容積を、次回の雨季がキックオフされる手前のタイムラインにおいて数階層上の桁まで拡張しておくならば……」
彼は大真面目な真顔のトーンを維持したまま、言葉を継続した。
「……作物全体の生存成否確率は、指数関数的な向上を記録するはずですがね」
ハンツは日に焼けた顔面を引きつらせ、素朴な微笑みを出力した。
「あんたは本当に、一一分一秒の稼働時間をすべて畑の仕様変更のために割く男だなあ、ボス」
「現在の私の置かれた現生環境においては、あの無機質な石の構造物の存在理由を脳内で演算するよりも、そちらの物流の最適化の方が遥かに優先順位の高い実務ですからね」
ハンツは喉を鳴らして大笑いした。
「ハハハ! そいつはまさに、あんたらしい等式の結び方だぜ」
マコトは台帳のシートをパタンと閉じ、天井のない漆黒の夜空の運行システムを見つめた。無数の恒星データが燦然と輝き、夏の夜特有の冷気が空間を満たしている。この異世界の物理法則は、彼が悠久の過去、黎明のデスクの前で敷いた初期設定のレギュレーション通りに、完璧な精度で運行を維持していた。水分のリソースは、物理的な高度パラメータに従って高い座標から低い座標へと流動する。種子オブジェクトは、土壌、水分、光熱エネルギー、そして時間の経過という四つの等式が結ばれることで、正常に発芽を執行する。ジャガイモの容積が増大したのは、外的要因のパラメータが完全に最適化された結果に過ぎない。すべての事象には、明確な原因が存在する。すべての処理には、明確なプロセスが存在する。システムは何一つ仕様変更を起こしていない。極めて美的価値の高い、クリーンな世界であった。
しかし最高神マコトの知る由もないところで――。
村の別のセクターのトランクラインにおいては、一人の農民が「神の像の前にログインした直後、全知の目による正確なお導きを受信した」という、完璧に間違ったエラーコードが、凄まじいトルクを以て自己増殖を開始していた。そのデータは個体から個体へとリレーされ、その通過プロセスにおいて内容が緩やかに、しかし深刻に変形を執行していった。極小のお導きのログ。それは瞬く間に、強力な予兆のデータへと書き換わり、次いで、声を潜めた「神の囁き」のレベルへとアップデートされ、そして緩やかに、この開拓村全体のシステムを根底から書き換えることになる、過去最大級の大大大大不祥事、――最初の神託へと、完璧なファクト化を遂げつつあるのであった。




