第31章 芋の祭り
ルーナの村には、もともと祝祭を執り行う風習があまり残されてはいなかった。
大地から得られる成果に生存システムを百パーセント依存させている極小の集落にとって、住民たちのタイムラインの大部分は日々の労働ルーチンによって消費されるのが常だったからだ。
種蒔きの時期。耕作地の管理期間。そして、刈り入れの工程。
それらが完了すれば、再び初期値へと戻って同じ手順を繰り返す。
だからこそ、今年の大収穫が事前の予測数値を遥かに超越した結果を叩き出したとき、数週間前から村の主要道路を満たしていた農民たちの疲弊した表情は、次々と良好な安堵の微笑みへと上書きされていった。
いつもは書類の監査と村の納税計画にこめかみを痛めていたモーレンでさえ、ようやく肺の底から重い溜息を吐き出して、自らの理性を休息させることができた。
「これほどの出力結果が出せるならば……」
村長は収穫台帳のシートをパタンと閉じ、静かに呟いた。
「……今年の冬は、住民全体の生存コストをそれほど心配せずに乗り切ることができそうだね」
コン、コン、と彼の執務机の前で物理的な振動音が響いた。
「入りなさい」
モーレンが声を張ると、ハンツが不器用な足取りで立ち入ってきた。
「村長、少し実務の手を止めて申し訳ねえ」
「何かな? 継続しなさい」
ハンツは日に焼けた顎を擦りながら、いささか躊躇の様子を見せた。
「いや、さっきまで耕作地で農民たちが一群集結してな、ある新規の要求仕様を提出してきたんだ」
「仕様変更(提案)かね?」
「連中、祝祭(祭り)をキックオフしたいって言い張ってやがる」
執務室の中に、一瞬の短い静寂が沈み込んだ。
祭り。
ルーナの村においても、過去の歴史ログにその執行記録は存在していた。しかし、それは著しく古い変更履歴だ。通常、そのようなリソースの無駄遣いは、収穫のデータが完璧に黒字を示したタイムラインにおいてのみ許される贅沢な例外処理だったからだ。ここ数年の環境パラメータは、お世辞にも祝祭のコストを決済できるほど良好な数値を記録していなかった。
「今年の大収穫のファクトを前にしてな……」
ハンツは低い声を絞り出すように言葉を継続した。
「……村の連中全員が、一度システムを停止させて、純粋な娯楽セクターでリフレッシュしたいって考えてるのさ」
モーレンは頑丈な椅子の背もたれに体重を預け、机の上で開かれたままの収穫台帳へと視線を同期させた。記述された数字にブレはない。大豊作は厳然たるファクトだった。
備蓄倉庫の容量は上限値。生存に必要なリソースの備蓄は安全圏。領主への納税決済も問題なし。統治者として、この要求を却下(エラー終了)する正当な理由はどこにも存在しなかった。
「よろしい」
村長は静かに首を縦に振った。
「その祝祭タスクの執行を許可します」
ハンツの表情に、明らかな肯定のパラメータが灯った。
「そいつはありがてえ! すぐに村のネットワークに共有してくるぜ!」
「待ち切りなさい、ハンツ」
背を向けかけた農民を、モーレンの声が呼び止める。村長は窓の外の耕作地を見つめていた。
「リソースの過剰な浪費は認めませんよ。規模は最小限に留めなさい」
「分かってるさ」
「私たちは、あくまで辺境の極小の集落なのだからね」
ハンツは満足そうに笑った。
「だからこそ、連中はみんな、この場所で祭りをやりたがってるんだよ」
その決定のログが村の中を流通するスピードは、事前の予測値を遥かに上回っていた。太陽の座標が天頂へと達するよりも早く、集落のほぼ全個体がその変更履歴を受信していたのだ。
収穫祭の開催が、正式に確定した。
子供の個体群が主要道路を大声で敗走(駆け回り)しながら歓喜の音声データを排出し、母親たちは調理セクターで提供すべき食物のレシピについて熱心な情報交換を始めた。農民たちも互いにマンパワーを提供し合い、中央広場の環境整備(会場作り)を開始した。これほど村全体の流通密度が跳ね上がったのは、本当に久しぶりのことであった。
マコトは備蓄倉庫の前から、その一連の慌ただしい物理運動を無表情のまま観察していた。
「ハンツ」
「おう、ボス。どうしたんだい」
「周囲の人間たちが、著しく非効率な物理移動を繰り返しているが。一体どのようなエラーが発生しているのかね?」
「祭りさ」
「何のためのタスクかね?」
ハンツは素朴な微笑みを出力した。
「収穫の完了を喜ぶためのルーチンワークだよ」
マコトは数秒の間、論理的な等式を組み立てた。
「作物の刈り入れタスクは、すでに一昨日を以て完了ログが出力されていますがね」
「だからこそ、終わったからやるんだよ」
「その祝祭を執行したところで、今年の収穫量の数値がさらに跳ね上がるような二次的な恩恵は皆無ですが」
「そんな実務的な結果のためにやるんじゃねえよ」
「ならば、目的は何かね?」
ハンツは夕暮れの光熱を浴びて黄金色に染まる耕作地へと視線を向けた。
「人間って生き物にはな、時として、ただ一箇所に集まるための『言い訳』が必要なときがあるのさ」
マコトは木製の長机やベンチを物理移動させている農民たちの姿を見つめた。彼らの一部は、過酷な肉体労働を執行している最中であるにもかかわらず、なぜか愉快そうな音声データを出力して笑い合っていた。
投入されているマンパワーは同じ。消費されている生体エネルギーも同じ。しかしシステム内部の様子は、先ほどまでの義務的な労働とは完璧に違っていた。
「不可解ですが……興味深い挙動ですね」
最高神は真顔のまま、小さな呟きを出力した。
昼下がりのタイムラインを迎える頃。村の中央広場では、本格的なデバッグ(清掃実務)が進行していた。路傍の雑草が間引かれ、多数の長机が配置され、中央セクターには巨大な焚き火オブジェクトのセッティングが完了しつつあった。
マコトもまた、他者からの要求を待つことなく、自発的に実務のサポートを開始した。彼は木製の重厚な梁を物理移動させ、ベンチの座標を整列させ、脚の折れていた長机の構造修復を完全に執行してみせた。
人間の器の出力スペックを考慮すれば、どれもそれほど高難易度のタスクではなかったが、処理待ちの分量自体はそれなりに膨大だった。
「ボス!」
近くで長机を運んでいた農民が、彼に向けて声を上げた。
「手伝ってくれて有難うよ!」
マコトは一片のブレもない真顔のまま、首を横に振った。
「いいえ。これは環境整備のための共同のタスクですからね。応答は不要ですよ」
「ハハ、そうかい。だけどよ、あんたが働いてくれたのは厳然たるファクトだろ」
「それは認めますが、私は単に……」
農民は満足そうな微笑みを維持したまま、詳細な仕様解説を遮って自らの作業へと帰還していった。
マコトは静かに口を閉ざした。彼はこれまでの短い生存ログから、人間からの感謝の音声データを反論によってデバッグ(修正)しようとする行為は、彼を豊穣の神と呼ぶ認知バグを修正するのと同じくらい、投資対効果の低い無駄なルーチンであるという事実を完璧に学習していたからだ。
太陽の座標が完全に西へと傾く頃。村の女性たちが、調理セクターで完成させた多種多様な食物のオブジェクトを長机の上へと搬入し始めた。
茹でたジャガイモ。ジャガイモのスープ。ジャガイモのパン。焼きジャガイモ。
マコトはその並べられたリソースの配列を、長い時間真顔で精査し続けた。
「ハンツ」
「なんだい、ボス」
「尋ねたいのだが、この長机の上に布設されたすべての食物は、ジャガイモという同一の構成要素(素材)によって組み立てられているのかね?」
ハンツは腹を抱えて愉快そうに笑い出した。
「ハハハ! まあ、ほぼ百パーセントその通りだな!」
「なぜかね?」
「今年の俺たちの畑が、そいつを一番大量に出力(大豊作)したからに決まってるだろ」
マコトは納得の首を縦に振った。
「なるほど。保有する既存のリソースを過不足なく使い切るという観点から見れば、極めて高効率で合理的な仕様(資源の活用)ですね」
「あんたの理屈だとそうなるのかい」
「人間の基準では、異なる等式になるのかね?」
ハンツはさらに苦笑を深めた。
「人間の基準じゃな、単に『ジャガイモは美味い』。ただそれだけさ」
マコトは長机の上から、たった今熱量の処理(調理)が完了したばかりの一切れの茹でジャガイモを指先で受領した。それを口腔へと格納し、ゆっくりと咀嚼のコマンドを実行する。
数秒の精査ののち、彼は小さく頷いた。
「……確かに」
「あ?」
「ジャガイモは、著しく味覚パラメータが良好(美味い)ですね」
ハンツは堪えきれないといった風に爆笑のログを響かせた。
今日というタイムラインの中で初めて、最高神マコトは宇宙の因果律の二重帳簿も、管理事務室のレギュレーションも、マルチバースの設計図の不備も一切口にしていなかった。彼はただの脆い人間の器として、目の前にある純朴な作物の熱量(味)を、純粋に享受していたのだ。
やがて、太陽のオブジェクトが完全に地平線の下へとロスト(日没)した。
村の全居住民が中央広場へと集結し、空間の個体密度は上限値へと達していた。子供たちは笑い声を上げながら敗走し、大人の個体群は互いに熱心な通信(談笑)を交わしている。夏の夜特有の冷気が、広場全体を満たす活気ある熱量と心地よく同期していた。
最高統治者モーレンが、住民たちの視線の真ん中へと直立した。彼は静かに一つ、咳払いを執行する。
「――皆の衆、実務の手を止めて少し聞きなさい」
広場を満たしていた雑多な音声データが、ドミノ倒しのように急速な静寂へと沈み込んでいった。
「今年という時間は、あたしたちにとって決してイージーな仕様(簡単な年)ではなかったね」
すべての農民が、自らの過去の記憶ログと照合するように深く首を縦に振った。
「しかし、住民全員のマンパワーの投入と、地道な実務執行の成果によって……」
モーレンは、自らが生まれたあの日から見守り続けてきた、日に焼けた不器用な顔たちを一人ずつスキャンした。
「……私たちは、この過酷な環境エラーを完璧に乗り越えてみせたんだ」
広場の全体から、一斉に拍手の物理振動が沸き起こった。過剰な演出は一切ない、辺境の集落らしい、どこまでも温かい受容のログだった。
モーレンは深く息を吸い込み、仕様書の結びを読み上げるように声を張った。
「だからこそ、今夜は――! ここ数年間の歴史において、私たちが獲得した最高の大豊作のリザルトを、ただ純粋に喜ぼうじゃないか!」
ドッと、本日最大音量の歓喜の音声データが村の全セクターへと轟いた。マコトもまた、自らの両手を規則的に打ち付け、拍手のコマンドを実行した。客観的なデータから見ても、これまでの過酷な労働ルーチンの成否結果が良好であったことを祝う行為は、論理的に極めて筋の通った振る舞いであると思われたからだ。
しかし不運なことに、広場の熱量が再び上昇し、個々の通信が再起動したまさにその瞬間。群衆の中心にいた一人の農民が、狂ったように大きな声を張り上げたのだ。
「――おい、お前ら! 俺たちにこの大豊作を布設してくれた、『豊穣の神様』への感謝のログを送信するのを忘れるんじゃないぞ!」
その下品な煽りをトリガーに、周囲の席に就いていた複数の個体が一斉に同調の声を上げた。
「そうだ、間違いねえ!」
「豊穣の神様!」
「豊穣の神様!」
マコトは、自らの両手で一椀の温かいジャガイモのスープを実直に保持したまま、ゆっくりと首を巡らせた。
彼の網膜には、複数の農民たちが自分に向けて狂ったように手をヒラヒラと振っている光景が投影されていた。
そして次の瞬間――。
空間内のさらなる個体群が、ドミノ倒しのように次々と彼の方へと視線を同期させ始めたのだ。
わずか数秒の処理時間ののち、広場に集結していた数十組の網膜が、寸分の狂いもなくマコトという一個のオブジェクトに対して固定された。
最高神マコトは、スープの木椀を保持したまま、完璧な静止を記録していた。
彼は隣のハンツを見た。
「ハンツ」
「なんだい、ボス」
「私の予測演算が正しければ、彼らはまたしても深刻なデータエラー(勘違い)を再起動していますね」
初老の農民は、そっと重い瞼を閉じ、諦念の微笑みを出力した。
「……ああ。完璧にな」
マコトは深く息を吸い込んだ。
彼はいつものように、自らの正確な仕様書(創世神であるというファクト)を出力し、この不都合な認知バイアスを今すぐデバッグするための拒絶ログをまくしたてようと、口腔のシステムを駆動させかけた。
しかし不意に。自らの網膜を通過していく、これまでにないほど満ち足りた表情で祝祭のタイムラインを享受している村の全住民の姿が、彼の論理回路に一瞬の処理の停滞をもたらした。
彼らは、ここ数年間の過酷な生存環境を耐え抜き、今夜ようやく、初めてクリーンに最適化された幸福のログを生成している最中なのだ。
最高神マコトの管理思想によれば、このような良好に推移している共同幻想のシステムを、単に「不正確な文字列の修正」という事務的な理屈のためだけに不用意にハッキング(破壊)する行為は、かえって現場の社会運営に致命的なバグをもたらす不適切なプロシージャであると判定された。
今夜は、彼らにとって完璧に美しいタイムラインのはずなのだ。ならば、自分の事務処理上の都合で、その数値を歪める必要性などどこにも存在しない。
ゆえに、漂着以来ただの一度として例外処理を認めなかった最高神は、この瞬間――。
自らの反論コマンドの起動を停止し、完璧な「沈黙」を維持することを選択したのである。




