第30章 誰も聞いていない
マコトは、アプローチの方向性を切り替える決断を下した。
ここ数日間のタイムラインにおいて、彼は常に周囲から「豊穣の神様」という識別符号を送信された後、それに対する反論のパッチを当てるという受動的な手順を踏んできた。結果のリザルトは、著しく不満足な数値を記録していた。修正の成否確率は、寸分の狂いもなくゼロパーセントだったのである。
かつて彼が就いていた運行管理の業務において、特定のメソッドが連続して不具合を発生させた場合、修正すべきは個体ではなくメソッドそのものであった。ならば、今日は先手を打って初期化のためのアナウンスを実行すべきだ。人間たちが自らの脳内で不都合な誤解の等式を組み立てる、その手前のフェーズにおいて。
その日の早朝、数人の農民たちが備蓄倉庫のゲート前に集結していた。一部の個体は収穫物の計量タスクを執行しており、別の個体は交易都市の中枢セクターへと発送するための荷馬車のセッティングを進めていた。
マコトは彼らの通信圏内へと真っ直ぐに歩み寄った。
「皆さんに、一つ伝達しておきたい重要な仕様書があります」
すべての農民が一斉に首を巡らせ、彼へと視線を同期させた。マコトが自発的に対話のキックオフを宣言するのは、極めて稀なパターンだったからだ。
「どうしたんだい、ボス」
マコトは小さく首を縦に振った。
「あなた方はこれまでの期間、著しく深刻なデータエラーを維持し続けています」
複数の農民が互いに、奇妙な視線を交わし合わせた。
「データエラーって……どこがだい?」
「ええ」
マコトは、いつも通り完全に凪いだトーンで回答を出力した。
「私は、豊穣の神ではありません」
空間に、一瞬の短い静寂が沈み込んだ。
「私は、全マルチバースの法則を布設した創世神です。今年のこの大収穫の良好な成果は、あなた方自身の労働リソースの投入によるものです。したがって、私に対して本来の役職とは異なる過剰な評価の報酬を差し出す行為は、論理的に不整合を孕んでいます」
すべての正確な文字列を出力し終えたのち、マコトは彼らのリアクションを待った。彼の演算回路によれば、情報は完全に、そしてこれ以上ないほど網羅的に送信された。もう二度と、脳内に誤解のバグを再構築する余地など残されていないはずだった。
しかし無情なことに、人間側のシステムは全く真逆の挙動を示した。
一人の老齢の農民が、これ以上ないほど温かい微笑みのパラメータを出力したのだ。
「有難うよ、ボス」
マコトは静かに瞬きを繰り返した。
「……何に対する感謝かね?」
「俺たちが大豊作の数字を見て、ついつい傲慢のバグを起こさねえようにさ。先回りで、生真面目な戒めのログを流してくれたんだろ?」
「いいえ、違います」
マコトは首を横に振った。
「君のデコードした内容は、私の送信したデータの意図とは完璧にズレていますよ」
老農民は、優しく首を縦に振った。
「ああ、よく分かってるさ」
マコトは、その皺の刻まれた顔面データを数秒間、ただ凝視し続けた。
いいえ。この人間は、一微ミクロンも解読(理解)していない。
太陽の座標が天頂へと達する頃。
マコトは再び、全く同一の検証メソッドを執行した。今度の座標は、宿屋の酒場セクターであった。
複数の農民がテーブル席で食事交代のタスクを消化しているところへ、彼は立ち入った。入り口の境界線に直立し、声を張る。
「不正確な情報の流通を防止するため、ここで一度、データの修正を執行します」
空間を満たしていた雑多な音声データがぴたりと静止し、全ての網膜が彼へと同期された。マコトは、これがバグを排除するための絶好の機会であると認識した。
「あなた方は私を豊穣の神と呼称している。その識別符号は完璧に間違っています。私は宇宙を設計した創世神であり、この村の作物の出力結果は私の実務の成果ではありません」
酒場の全体が、水を打ったような静寂へと沈み込んだ。
カウンターの奥から、宿の女将がゆっくりと納得の首を縦に振った。
「ボス」
「何かね?」
「あんたは本当に、どこまでも出来た良い奴だねえ」
マコトはわずかに首を傾げた。
「その感想と、私の出力したファクトとの間には、いかなる因果の等式も結びつかないのだがね」
「自らの手柄を決して鼻にかけないその態度がさ、本当に有難いって言ってるんだよ」
「いいえ」
マコトは再び首を横に振った。
「私は単に、客観的な事実を申告しているに過ぎないのですよ」
「ああ、分かってるさ」
「あなた方は間違っている」
「分かってるって」
マコトはそれ以上の発話を停止した。
そこへ、ちょうど食事の交代のために立ち入ってきたハンツの姿を捉え、声をかけた。
「ハンツ」
「おう、ボス。仕事は順調かい」
「尋ねたいのだが、この空間に就いている人間たちは、私の送信した音声データを正常に受信したかね?」
ハンツは酒場の全体を見渡し、次いでマコトを見た。
「ああ。耳の機能としては、完璧にあんたの声を聞いてるぜ」
「ならば、なぜデータの更新(理解)が行われないのかね?」
「ボス。声が聞こえていることと、そいつを頭の中で聞き入れるかってのは、人間にとっては全く別個のレギュレーションなんだよ」
マコトは静かに沈黙した。
その二つの挙動は、文字列としての配列こそ酷似していたが、システム内部における処理の等式としては、果てしない次元の深淵を孕んだ別個の機能であったらしい。
夕刻のタイムラインを迎える頃。
マコトは再び、ハンツの畑でデバッグ(雑草取り)の作業に就いていた。
ジャガイモの青々とした苗の隙間から、不都合な雑草オブジェクトを地道に排除していく。しばらくの間、無言のまま物理移動タスクを継続していたが、やがて彼は、自らの論理回路が抱えていた疑問ログを出力した。
「ハンツ」
「なんだい」
「君の見解から見て、なぜ彼らは私の言葉を聞き入れようとしないのかね?」
ハンツは即座に応答を返さなかった。彼は足元の雑草を一株、力任せに引き抜いたのち、低い声で静かに告げた。
「あいつらの頭の中にはな、もう最初から『完璧な答え』が出力されちまってるからさ」
マコトは首を巡らせた。
「しかし、その出力された答えは完璧なエラー(間違い)ですよ」
「あんたのシステム的には、そうなるよな」
「客観的な真実です」
ハンツは唇の端をわずかに釣り上げ、苦笑を深めた。
「ああ、俺は分かってるさ」
「ならばなぜ、それを維持し続けるのかね?」
ハンツは頑丈な肩をすくめた。
「人間って生き物はな、新しく耳にした真実のログよりも、自分がすでに盲目的に信じ込んじまった『答え』の方を、進んで信用しちまう仕様なんだよ」
マコトは再び静寂を保った。
その返答は、システム設計の観点から見て著しく非効率であったが、ここ数日間の実務ログを照合してみる限り、その不都合な仕様こそが人間の本質であるという確率が、極めて高い数値を示していた。
太陽の座標が西の丘へと沈む頃。
一人の幼い子供の個体が、耕作地の脇を全力で敗走(徒競走)していった。
その個体はマコトの座標を検知するなりピタリと足を止め、大気へと音声データを放出した。
「豊穣の神様!」
マコトは肺の底から静かに溜息を吐き出すと、ルーチン通りのエラー応答を出力した。
「私は、豊穣の神ではありません」
子供はそれを聞くや否や、キャッキャと愉快そうな爆笑のログを響かせた。
「本当だ! お母ちゃんの言った通りだ!」
「何かな?」
「お母ちゃんがね、豊穣の神様は絶対にそうやって『違うよ』って言う仕様なんだって教えてくれたんだ!」
マコトの全身が、完璧なフリーズを記録した。
子供は満足そうに小さな手をヒラヒラと振ると、通常の二倍以上の移動速度でその座標から去っていった。路傍に一人取り残された最高神は、ただ無言のまま直立していた。
数秒の処理時間ののち、彼は隣のハンツへと首を巡らせた。
「ハンツ」
「おう、全部聞こえてたぜ、ボス」
「……たった今、システム内に著しく不可解な変更履歴が検出されましたよ」
ハンツは、すでにその先の展開を完璧に予測していたようだった。
「何が起きたんだい」
「私の出力する予定の拒絶ログ(反論)が、事前に人間側のデータベースに予測演算されていました」
「おやまあ」
「しかも、その予測の発生によって、彼らの認知エラーがさらに強固に確定されてしまうという、最悪のチェーンバグが成立しています」
ハンツは押し寄せる笑いのパラメータを、これ以上ないほどきつきつと噛み殺していた。
「そいつはまさに、村の連中らしい等式の結び方だなあ」
マコトは子供が消え去った主要道路の彼方を、ただ無表情のまま見つめ続けていた。
最高管理者として、彼はここにきて、この不具合のフェーズが全く異なる危険なレイヤーへと突入したことを正確に検知していた。
これまでのタイムラインにおいては、人間たちは単に彼の仕様解説(言葉)を自らの常識で歪めて解読していただけに過ぎなかった。
しかし現在の仕様においては。
彼らはマコトがこれから発するであろう反論のデータすらも、あらかじめ「謙虚な神様特有の定型句」として予測システム内に組み込んでおり、そのうえで、頑なに真実の受容を拒絶し続けているのだ。
マコトは赤く染まる夕暮れの運行画面を見つめ、本日最も長い溜息を出力した。
彼はこれからのタイムラインにおいても、一片の不純物もない純度百パーセントの「真実」を出力し続けるだろう。なぜなら宇宙の絶対者たる彼には、それ以外の通信プロトコル(生き方)が実装されていないからだ。
しかし、今日という時間を迎えたことで、創世神マコトは、この人間という生命体に関する一つの冷酷な真実を、自らの台帳に書き加えることになった。
それは、身分の解説が著しく困難であるという次元の話ではなかった。
もはやこの世界においては――彼の言葉を正しくデコードし、真実として受け止めてくれる受信機など、ただの一個も残されてはいない、という取り返しのつかない不都合なファクト(現実)の承認であった。




