第29章 反論
マコトは、あの不都合な役職名がもはや単なる会話の合間に挟まれる冗談の類ではなくなっている事実に気づき始めていた。その不整合なあだ名は、まるで公式な名前であるかのように社会のインフラへと定着しつつあったのだ。
その日の朝、彼がいつも通り農民の一人が所有する荷馬車の上にジャガイモの麻袋を積み上げる実務をサポートしていた時のことだった。背後のセクターから、突発的な音声データが呼び出しをかけてきた。
「豊穣の神様!」
マコトは首を巡らせなかった。彼はただ、淡々と次の麻袋を担ぎ上げる物理移動タスクへと移行した。
彼の精緻な演算によれば、その呼び出しコマンドは明らかに自らの個体を指定したものではない。なぜなら、自分は豊穣の神ではないからだ。
「おい、豊穣の神様ってば!」
音声データは再び送信されてきた。今度は音量が数デシベルほど跳ね上がっている。
荷馬車の上で作物を固定するロープを締めていたハンツが、不思議そうにマコトへと視線を同期させた。
「ボス」
「何かね?」
「俺のデータ監査から逆算するに、高確率であんたを呼んでるぜ、あれ」
マコトはわずかに首を傾げた。
「それは論理的にあり得ないね」
「なんでだよ」
「あの個体は『豊穣の神』と発話している。一方、私は宇宙のあらゆる法則を敷いた創世神だ。文字列の不整合が発生しているよ」
「いや、あいつらはその文字列であんたを識別してるんだよ」
「しかし、私は創世神だ」
ハンツは静かに口を閉ざした。
その実直すぎる理屈に反論を返すのは、著しく困難だったからだ。マコトの論理回路の中においては、何一つの綻びもない完全な正論だった。間違っているのは、彼をそんな仕様違いの名前で呼び散らしている農民たちの受信機(頭脳)の方なのだ。
先ほど大声を張り上げていた農民が、不器用な足取りで二人の座標へと接近してきた。
「いやあ、すまねえ、すまねえ」
男は日に焼けた顔を緩めて、素朴な笑いを漏らした。
「あんたに声が届いてねえのかと思ったぜ」
「音声データは正常に受信していましたよ」
マコトは淡々と回答を返した。
「だったらなんで首を振り向かせなかったんだい?」
「君の出力した識別符号が『豊穣の神』であったため、別の個体を呼び出しているのだと、客観的なデータ分析ののちに判断したからですよ」
農民はぱちくりと瞬きを繰り返した。
「別の個体?」
「ええ」
「あんたは豊穣の神と言った」
「言ったな」
「私は、豊穣の神ではありません」
農民は再び、喉を鳴らして愉快そうに破顔した。
「ハハハ! 相変わらず、あんたはこれ以上ねえほど謙虚な奴だなあ、ボス」
マコトは一片のブレもない真顔のまま、首を横に振った。
「いいえ、これは謙遜という変更履歴ではなく、君の脳内にある致命的なシステムエラー(誤解)を修正するためのデバッグですよ」
農民は、満足そうな微笑みのパラメータを維持したままであった。
「分かった、分かったよ」
「私は、本当に豊穣の神ではありません」
「ああ」
「私は、創世神だ」
「ああ、そいつは重畳だな」
マコトはそれ以上の発話を停止した。
彼は正面の知的生命体の表情を数秒間、冷徹に監査した。
データの更新の兆候は皆無。自らの出力した正確な仕様解説が、相手側のデータベースに受容された形跡は、ただの一微ミクロンも検出されなかった。それどころか、この目の前の農民は、自らの思い込みが正しいのだとさらに強固に確定(上書き)してしまったようだった。
「尋ねたいのだが、君は私の送信した仕様解説のデータを、正常に処理(解読)できたかね?」
「当たり前だろ」
「ならば、なぜそのようなリアクションになるのかね?」
農民は深く首を縦に振ると、完璧に満ち足りた表情を浮かべた。
「ボスは、自らの実績を鼻にかけるような下品な真似が、大嫌いな仕様なんだろ? よく分かってるさ」
男はそう言い残すと、通常の移動速度で自らのルーチンワークへと敗走していった。路傍に一人取り残された最高神は、ただ無機質な静寂を保ったまま直立していた。
マコトは隣のハンツへと首を巡らせた。
「重大なシステムエラーが発生していますね」
「ん?」
「あの個体は、私の正確な仕様解説(言葉)を受信していません」
ハンツは押し寄せる笑いのパラメータを必死に噛み殺していた。
「いや、あいつは完璧にあんたの声を聞いてるぜ、ボス」
「いいえ」
「声が耳を通過することと、そいつをファクト(事実)として信用するかどうかは、人間にとっては全く別個のレギュレーションなんだよ」
マコトは静かに沈黙した。
その指摘は、実に見事な発展形であった。
悠久の過去、天界の管理事務室でマルチバースの運行を統括していた頃、彼と言葉を交わす全ての生命体は、常に情報をそのままの等式として処理(解読)してきた。天使、精霊、あるいは下位部署の神々。彼らは時に意見の衝突を起こすことはあっても、送信された文字列の正確な意味そのものを歪めて受容することなど、あり得ないエラーだった。
しかし、この人間という生命体の仕様は根本から違っていた。彼らは、完璧に同一の音声データを受信しながら、自らの好みに合わせて、全く別個のバグ結論を自動生成することができるのだ。構造としては、著しく非効率で、解読不能なバグ仕様であった。
太陽の座標が天頂へと達する頃、マコトは再び全く同一の現象に遭遇した。
村の幼い子供の個体が、短い足取りで彼の方へと直進してきた。
「豊穣の神様!」
マコトは人間の器の膝を物理的に折り曲げ、その子供の視線と座標の数値を平行に同期させた。
「私の名前の識別符号は、マコトですよ」
子供は一片の不純物もない純粋な瞳で、首を縦に振った。
「うん!」
「豊穣の神ではありません」
「うん!」
「私は、創世神だ」
「うん!」
マコトは、今回の対話プロトコルは極めて良好に整合性が取れていると判断した。
その子供が、回れ右をして自らの母親の個体の元へと全力で敗走していくのを見送るまでは。
「お母ちゃん!」
子供は歓喜の音声データを大気へと放出した。
「豊穣の神様、すっごく優しい奴だったよ!」
マコトはその個体の背中を見送ると、ゆっくりと上体を立ち上げ、隣のハンツを見た。
「システムの一部に、致命的な欠陥が散見されましたね」
ハンツはマコトの脆弱な人間の肩を、日に焼けた太い掌でポンと叩いた。
「もう諦めな、ボス」
「そういうわけにはいきません。不完全な変更履歴(間違ったデータ)を放置する行為は、社会管理の観点から見て最悪のバグを誘発しますからね。速やかに修正されねばならない」
ハンツは長い溜息を吐き出した。
「あんたの言うことは完璧な正論だ」
「ならば、なぜ?」
「だけどな、この世界じゃあ、すべてのシステムエラーが今すぐパッチ(修正)できるわけじゃねえんだよ」
マコトは数秒の間、天井のない漆黒の昼天を見つめていた。その初老の農民の返答は、彼が天界の管理事務室で執行してきたどの実務レギュレーションとも適合しなかった。
エラーとは、発見された瞬間に即座に初期化(修正)されるべきものだ。処理スピードが早ければ早いほど、システム全体の成否確率は向上する。
それなのに、人間の社会という乗り物は、著しく非効率な手順で稼働しているらしい。
夕刻のタイムラインを迎える頃。
マコトはもう一度だけ、能動的なバグ修正を試みることにした。
備蓄倉庫の前では、一塊の農民たちが本日の収穫物のデータを巡って熱心な情報交換を行っていた。彼は実直な足取りで、彼らの通信圏内(真ん中)へと立ち入った。
「一つ、あなた方の脳内にある不都合な初期値を修正したいのですがね」
全ての農民が一斉に首を巡らせ、彼へと視線を同期させた。
「あなた方の組み立てた等式は、完璧に間違っていますよ」
農民たちは互いに、引きつった視線を交わし合わせた。
「間違ってるって……どこがだい、ボス」
「ええ。私は、豊穣の神ではありません」
空間に、一瞬の短い静寂が沈み込んだ。マコトは絶好の機会であると判断した。全ての個体が、自らの出力する文字列に完璧なロック(注目)をかけていたからだ。
「私は、宇宙のあらゆる法則を布設した創世神です」
彼は一片のブレもない、天気予報でも読み上げるかのような平然としたトーンで言葉を継続した。
「作物の収穫量を裏で管理し、大豊作の加護を付着させるような局所的な仕事は、私の本来のタスク(仕事)ではありません。今年のこの良好な大収穫の結果は、あなた方自身のマンパワーの投入による実務執行の成果ですよ。したがって、その等式を私へと直結させる行為は、論理的に不整合です」
すべての仕様解説を出力し終えたのち、マコトは彼らのリアクションを待った。彼の予測演算によれば、正確な情報データは送信された。不必要な認知バグはこれでクリーンに消去されたはずだった。
数秒の、不毛な静寂ののち。
一人の農民がゆっくりと深く、納得の首を縦に振った。
「……おい、見たかい?」
男は周囲の個体群へ向かって、震える声をからした。
「俺の言った通りだろ」
「何がだよ」
「あのボスって若者、自分の執行した奇跡の手柄を、ただの一微ミクロンも受け取る気がない仕様なんだよ!」
「ああ……」
別の農民が、深い感嘆のログを出力した。
「現生環境のデータ(大豊作)があれほどはっきりと目の前にあるってのによ。あいつ、全部俺たちの努力のおかげだって言い張りやがったぞ」
「間違いねえ。なんてお人好しで、これ以上ねえほど良い神様なんだ……!」
マコトは静かに瞬きを繰り返した。
彼は彼らの顔を一人ずつ精査し、次いでハンツを見つめ、最後に再び農民たちへと目を戻した。
「……またしても、システムの初期化に失敗しましたね」
最高神は妙に冷めた思考で、小さなつぶやきを出力した。
ハンツは腹を抱えてクスクスと笑った。
「失敗じゃねえよ、ボス」
「ならば、一体どのような処理結果かね?」
「あんたが熱心に仕様解説(正論)をまくしたてたせいで、あいつらの頭の中の『ボスの神格化パラメータ』が、上限値を突き破って跳ね上がっちまったんだよ」
マコトは応答を返さなかった。
この不完全な人間に満ちた下位世界へと漂着して以来初めて、彼はこれまでの長い生存ログ(四十億年のキャリア)においては、ただの一度として遭遇したことのない未知の脆弱性に直面していた。
もしかすると。――ほんの僅かな確率の仮定であるが。
人間という生命体の脳内に布設された「誤解のバグ」を修正する実務は、全マルチバースの因果律の二重帳簿をワンオペで監査するよりも、遥かに複雑で、難易度の高い、修復不能なエラーなのかもしれない。
最高神マコトは、ただ腰の空虚な財布の残高を安定させるという極めて日常的な生存戦略のために、次なる過酷で、磨り減るような大豊穣の崇拝シナリオが、村全体の主要道路で凄まじいトルクを以て成長を継続しているという不都合な現実に――やはり、この時点においては、まだ気付いてはいなかったのである。




