第28章 新たな識別符号
不確実な噂というデータは、その初期段階においては、単なる憶測のパッチワークに過ぎない。一人が特定の人物を視覚的に捉え、別の人がその情報の一部を耳にし、さらに三人目の人が脳内でその二つの事実を強引に結びつける。噂はいつも、そのような非効率的な手順を踏んで自己増殖を執行するものだ。しかし、その流通プロセスにおいて、必ず決定的な仕様変更を迎えるフェーズが存在する。それは、その噂に固有の名前が付着した瞬間であった。
その日の朝も、開拓村の全体には慌ただしい実務の活気が満ちていた。刈り入れの作業は未だに完了しておらず、未舗装の主要道路は荷馬車の往来によって絶え間なく物理的な振動を記録している。備蓄倉庫の容量は上限値へと近づきつつあり、農民たちは交易都市の市場へと売りに行くための最高品質の作物を血眼になって選別していた。残りの余剰分は、冬期の食糧として安全に格納される手筈になっている。
マコトは薄暗い倉庫の内部において、収穫されたジャガイモの麻袋を規則的な動作で積み上げる実務に就いていた。一袋を持ち上げ、次の場所へと設置する。長年の労働経験を保有する農民たちに比べるなら、現在の脆弱な人間の肉体という乗り物の出力効率は著しく見劣りしていたが、それでも彼の作業が停止することはなかった。ハンツは、その一片のブレもない実直な背中を見つめながら、日に焼けた顔面に苦笑を浮かべた。
「あんたは本当に、一微ミクロンも稼働を停止していられねえ男だなあ」
「目の前に、処理待ちの雑務が残されていますからね」
マコトは無表情のまま回答した。
「もしタスクの完了工程を予定よりも前倒しして終わらせられるならば、システム全体の運用効率が向上するはずですが。そちらの方が遥かに好ましい仕様です」
「そりゃあ、全く持って筋の通った正論だぜ」
ハンツは深く首を縦に振った。彼はこの青年との短い実務経験を経て、マコトの論理回路の基本アルゴリズムを完璧に把握しつつあった。この青年はいつだって、最も単純明快な最短ルートを選択するのだ。処理待ちの仕事があれば、執行する。発生したエラーがあれば、デバッグする。それ以上でも、それ以下でもない。極めて美的価値の高い、クリーンな設計思想の持ち主であった。
一方、備蓄倉庫の境界線の外側にある木陰のスペースでは、数人の農民たちが一時休憩を執行していた。彼らの会話は、案の定、同一の人物に関する情報共有へと収束していった。
「ボスは、未だにハンツの畑のサポートを代行してるのかい?」
「ああ。ほぼ毎日の時間を、あの耕作地で消費してるぜ」
「ハンツの家族でもねえってのによ。おかしな話だ」
「そこが、こめかみを破壊される謎なんだよなあ」
一人の老齢の農民が、自らの不揃いな髭を指先で擦った。
「俺の観測記録を探索してみても、あの街から流れ着いた外来者が、ここまで過酷な労働ルーチンに耐えた実績は一度もねえよ」
「普通の奴なら、数日のスパンで飽きて稼働を停止するか」
「あるいは、資産を求めて交易都市の中央へと移動していくのが常だからな」
「なのに、あのボスって若者は、頑なにこの場所に留まり続けてやがる」
彼らは一様に沈黙し、水椀の水を口腔へと補給した。すると、一人の農民が声を潜め、未確定の推測を流し込んだ。
「……なぁ、よくよく検証してみるとよ」
「なんだい」
「あたしたち、あいつのことをずっとボスって名前で呼び続けてるだろ」
「ああ、そいつが名前だろ?」
「いや、違う。あんたたちの記憶を振り返ってみなよ」
「ん?」
「あいつ、集会所で村長から公式な台帳への登録を求められた時、自分の本当の名前を何て出力した?」
複数の農民が、互いに引きつった視線を交わした。彼らの脳内から古い記録が高速で蘇っていく。そうだ。あの日の実務面接において、モーレン村長は確かに彼の識別名を台帳に記録したはずだった。そしてその時、あの生真面目な青年が実直に出力した文字列は、マコト、だ。
「ああ、思い出した。確かにマコトって言ってやがったな」
しかし不可解なことに、それ以降の時間において、村の全体は頑なに彼をボスという名前で処理し続けていた。
「その方が、呼びやすさのコストが低いからね」
「ああ、間違いねえ」
「だけどよ……」
老齢の農民は再び深い日常的な思案に沈み、薄暗い倉庫の入り口へと視線を固定した。その場所の先では、マコトがジャガイモの麻袋を実直に担ぎ上げる物理移動タスクを執行していた。
「……現在の彼の出力を考慮するならば、ただのボスって名前は、いささかレギュレーションとして不適切なんじゃないかって思えてきたのさ」
「なんでだい?」
「だってよ、今や村の全個体が、その名前の背後にある本当の本質を理解しちまってるんだからな」
「本当の本質って……一体誰のことだよ?」
老農民は唇の端をわずかに釣り上げ、畏怖の混ざった微笑みを浮かべた。
「――豊穣の神様、さ」
空間の全体に、完璧な静寂が沈み込んだ。誰もその発言に対して、即座に拒絶の反応を返さなかった。なぜなら彼らの不完全な認知フィルターには、ここ数日間の間に、その名前があまりにも高頻度で受信されすぎていたからだ。本名であるマコトというデータよりも、遥かに高い流通密度を記録していた。
「……言われてみれば」
一人の農民が、静かにつぶやいた。
「……その方が、システム上の処理が遥かに簡単だな」
「村の外の奴にボスって言ったところで、何の一致データも返ってこねえが」
「だけど豊穣の神って言えば……」
「村全体のネットワークが一瞬で同期しちまうからな」
その対話は、そこで自然にクローズした。何の公式な決定もなし。住民会議の執行もなし。合意形成のサインも皆無。しかし彼らが自らの実務ルーチンへと帰還したその瞬間から、システム内のレギュレーションは、彼らの意図せぬところで完全に書き換えられていたのである。
太陽の座標が天頂へと近づく頃。一人の母親が、耕作地の境界線で遊んでいた自らの子供へ向かって、大声を発した。
「こら、倉庫の場所へ近づくんじゃないよ」
「なんでー?」
「豊穣の神様が仕事を執行している最中なんだ。邪魔をかけるんじゃないよ」
子供は、一片の不純物もない純粋な瞳で首を縦に振った。
「はーい」
その幼い頭脳は、豊穣の神とは誰のことかという詳細な説明を要求することはしなかった。なぜなら彼の脳内においては、その名前の指し示す対象は、最初から完璧に確定していたからだ。ボス。
そこから数メートルも離れない場所において。たった今、村のゲートへ立ち入ったばかりの一人の外部の行商人が、路傍の農民へと問いかけていた。
「恐れ入ります、実務の手を止めて申し訳ありません」
「何かな? 申告しなさい」
「私は、ある特定の人物を探索している最中なのですが」
dishonesty「誰だい」
「村の噂では、その人物はボスという文字列で識別されていると聞いたのですが」
農民は数秒、思考の処理速度を調整したのち、満足そうな微笑みを出力した。
「おや、なるほど」
「解読できましたかね?」
「あんたの探してるのは、俺たちの豊穣の神様だな」
行商人はぱちくりと瞬きを繰り返した。
「……豊穣の神?」
「ああ。この村の耕作地の大大アップデートを執行してくれた、有難いお方さ」
「ほう……」
外部の行商人は、ゆっくりと首を縦に振ってデータを自らの頭へと格納した。
「なるほど。この世界線においては、そのような高位の名前で流通しているお方でしたか」
こうして、何一つ悪意を以て虚偽データを申告したわけではないにもかかわらず、全く新しい外部の人間へと、完璧に間違った誤解が上書きリレーされていくのであった。
一方で、村中の主要な通信網で実務上の問題として処理されているマコト自身は、そのようなシステム仕様の変更など、ただの一微ミクロンも関知していなかった。
彼は薄暗い備蓄倉庫の内部において、すべてのジャガイモの麻袋を等式通りの完璧な美しさで積み上げ、実務を完了させていた。そこへ、ハンツが不器用な足取りで近づいてくる。
「タスク、すべて完了しましたよ」
「おう、ご苦労さん」
「いいえ。脆弱な肉体という乗り物の稼働限界を考慮しても、この程度の熱量消費は許容範囲内ですからね。大したエラーではありません」
マコトは整然と最適化された麻袋の山を見つめた。彼の予測演算によれば、この倉庫の収納容量は、現在の物流ペースを維持してもあと数日間の時間は安全に保たれるはずだった。データ管理 of 観点から見れば、極めて安堵すべき正常値である。
二つの個体が実務空間から外部の道路へと移動を執行した際、すれ違いのルートを通った二人の農民が、マコトへ向けて静かに首を縦に振った。
「お疲れ様です、豊穣の神様」
マコトはそのまま歩調を維持した。ハンツもまた、直実な足取りで追随していた。しかし、わずか数歩の距離を移動したのち、最高神の歩行コマンドがピタリと停止した。
「ふむ」
彼は無表情のまま、首を後ろへと巡らせた。
「尋ねたいのだが、先ほど、こちらの通信レギュレーションに音声データを割り込ませてきた者がいたね」
ハンツもまた歩調を止め、不思議そうに瞬きをした。
「ああ、いたな」
「あの人物は、一体誰の名前を呼んでいたのかね?」
ハンツは一瞬だけ躊躇の様子を示した。それから、気まずそうに顎を擦りながら、太い指先を正面のマコトへと固定した。
「……あたしのデータ監査から逆算するに、高確率であんたのことだと思うぜ」
「それは、著しく不完全なデータエラーですね」
「あんたのシステム的には、そうなるよな」
「私は、豊穣の神などという下位世界のローカル仕様ではありませんからね」
「ならばなぜ、彼らは私に向かってそのような不整合な文字列を出力するのかね?」
ハンツは沈黙した。その実務的な問いは、彼の限定的なデータベースを以てしても、著しく返答の解を導き出しにくい高難易度の不具合であったからだ。そもそも、自らの脳内回路を探索してみても、一体どの時間のどのセクターから、あの不都合なラベルが公式なあたりまえの常識として村のネットワークに定着してしまったのか、正確な歴史の変更履歴がサルベージできないのだ。ただ彼が確実に把握しているファクトは、その不整合なはずのあだ名が、現在のこの開拓村の環境においては、著しく自然で、等式として馴染みのある文字列としてきれいに吸着してしまっている、という冷酷な現実だけであった。あたかも、最初からその仕様で村のインフラが構築されていたかのように。
マコトは数秒の間、天井のない漆黒の夜空の運行システムを見つめ、それから、肺の底から静かに長い溜息を吐き出した。
「人間という生命体は、本当に、事象に対して無駄な名前を付着させる行為を好む習性があるらしい」
彼が実直につぶやく。
ハンツは唇の端をわずかに釣り上げ、微笑みを浮かべた。
「まあ、そいつが俺たち人間って種族の、昔からの基本仕様だからな」
マコトは首を縦に振った。しかし彼の脳内台帳の最深部には、また一つ、削りようのない新規の変更履歴が上書き登録されていた。今日という時間を迎えたことで、自らの個体は、この人間の世界において二つの異なる名前を保有することになったのだ。
第一の名前は、モーレンの台帳に記録された、マコト。そして第二の名前は、彼が生存記録の開始以来、ただの一度として要望した記憶のない、最悪の不条理な仕様、豊穣の神。
彼らが知る由もなかったが、このおだやかな夏の朝は、最高神マコトの本質に対して、これからの彼の漂流生活を数階層上の次元へと複雑化させていく、恐ろしい崇拝という名の大不祥事が、完全に目の前まで直進してきているという不都合な現実に、やはり、この時点においては、まだ気付いてはいなかったのである。




