第27章 広まる噂
噂という不確実なデータには、ある奇妙な習性がある。
事象の全体像を完璧に把握している個体の間では決して自己増殖しないが、逆に全体の半分しか知らない不完全な受信機である人間の間では、最も凄まじい処理速度で拡散を執行するものなのだ。
この開拓村という生存圏は、そのようなデータエラーの蔓延において、これ以上ないほど適合した環境だった。居住民の総数は少数。すべての個体がお互いを認識しており、隣人が今日どのような仕事を執行したかという履歴も、ほぼリアルタイムで網羅的に把握されているからだ。
ゆえに、一人の農民が「ボスの漂着以降、ハンツの畑の収穫量が跳ね上がったのは事実だ」と言葉を流し込むだけで、その文字列が村全体のトランクラインへと浸透するのに、何分もの時間は必要なかった。しかし思い通りにいかないことに、そのデータが個体から個体へと往復されるたびに、記述の内容は初期値から少しずつ、しかし確実に書き換えられていくのである。
「ボスがハンツの手伝いをしたらしいぞ」
「ああ、そいつは事実だな」
「で、作物の収穫量が爆発的に増殖した」
「それも、台帳の数値が証明してる」
「ということは、あのボスって若者は、周囲の環境に幸運の加護を布設する特異個体ってことだな」
「いや、そこまでの話は誰も出してねえぞ」
通信が一時的に静止した。すると、それまでただ傍観していた三人目の個体が、深く首を縦に振ってデータを確定させた。
「だけどよ……論理的には筋が通るな」
こうして一つの不確実な噂に、全く新しい別の追加情報が上書きされていった。
村の別の場所においては。
「聞いたか? ボスがあの畑の土壌に直接触れたらしいぜ」
「本当かい?」
「ああ、間違いねえ」
「で、その直後に大豊作の結果だ」
「ふむ……」
受信側の農民が、日に焼けた顎を擦りむいた。
「構造としての因果関係は解読できねえが」
「だけどよ、現実にその順番で大豊作が起きてるんだ」
ここでもまた、誰一人として悪意を以て嘘をついたわけではなかった。彼らはただ、手元にある限られたいくつかの事実を脳内で並べ替え、自らの限定的な認知能力を以て、最も整合性の高そうな等式を組み立てたに過ぎない。そしてその等式の解は、客観的な現実から一歩ずつ、しかし修復不能な規模まで遠ざかりつつあった。
その日の朝、マコトは耕作地へと水を供給する、細い未舗装の水路の修繕実務を地道にサポートしていた。土を固めただけの狭い水路の内部は、樹木の根が不法侵入したことによって完璧な処理の停滞を起こしており、水分の物流が正常に稼働していなかった。
マコトの見解によれば、このエラーの構造は極めて単純だった。もし流動するリソースの経路上に障壁が散見されるならば、そのオブジェクトを速やかにシステムから排除すればいい。ただそれだけの実務だ。彼は不器用な動作で鍬を拾い上げると、木の根の周辺にある土壌データを地道に掘り起こし始めた。
ハンツはその一連の物理的挙動を、畑の境界線から静かに観察していた。
「あんた、意外とこういう地味な肉体労働に保つんだな」
マコトは無表情のまま、首を横に振った。
「いいえ。私はただ、発生した不具合に対して、その原因に応じた正確な解決策を執行しているだけですよ」
ハンツは喉を鳴らしてクスクスと笑った。
「村の連中全員が、あんたみたいにシンプルな論理で動いてくれりゃあ、俺の毎日の生活もどれほど楽になるか分からねえんだがな」
マコトは、数秒の間、正面の農民をじっと見つめた。
「私は逆に、人間という生命体は、極めて単純な等式に対して、わざわざ不必要な変更履歴を混入させて難易度を跳ね上げる悪癖があるのだと、そう認識していますがね」
ハンツは反論の記録を返せなかった。現生環境の実社会において、その指摘はぐうの音も出ないほどのファクトであったからだ。
数分後、詰まりの原因であった木の根の切断タスクが完璧に執行された。これまで滞留していた水が、再び滑らかな音を立てて水路を通過し始める。のどかな水音が、夏の乾いた空間へと拡散していった。
「タスク、完了ですね」
マコトが無表情に告げる。
ハンツは満足そうに首を縦に振った。
「おう、ご苦労さん」
「いいえ、どういたしましては不要ですよ」
「なんだと?」
「私自身、他者からこのような過剰な感謝を差し出されるほどの重大な実務を執行したという記録は残っていませんからね」
ハンツは再び大笑いした。ボスはいつだってこの仕様だ。彼は自らの執行したサポートに対して、一片の実績を誇るようなノイズも付着させない。
しかし不運なことに、その一連の実務手順を、離れた座標から二人の農民が凝視していた。
「おい、今度は水路を修繕しやがったぞ」
「ああ」
「で、触れた瞬間に水の流れが正常値に戻った」
二つの個体は、互いに焦白した視線を同期させた。
「見たかい?」
「どこをだよ」
「あいつは、この大地の構造を完璧に把握してやがるんだ。どこを叩けば環境が好転するか、最初から全知の目で見抜いてるのさ」
「単に頭が良いからだろ」
「さあね……」
一人の農民は、流れる水のきらめきを長い時間凝視していた。
「あいつが介入した耕作地はな、……必ず、出力結果が大豊作に書き換わるんだよ」
その大真面目なつぶやきが、すでに巨大化しつつあった噂の台帳へと、また新たなる強力な上書き記録を追加してしまった。
太陽の座標が天頂へと達する頃。宿屋の酒場セクターは、昼時の食事交代に入った住民たちで再び高密度な熱量を記録していた。いくつかのテーブル席で、スープを口腔へと補給しながら、世間話が起動する。
「聞いたか? ボスが今度は東の水路の仕様変更を執行したらしいぜ」
「ああ」
「あの場所の耕作地は、今年の秋にはとてつもない大収穫の結果を出力するに違いねえ」
「当然のファクトだな」
カウンターの奥で木製テーブルの清掃実務を執行していた宿の女将が、怪訝そうに顔を持ち上げた。
「あんたたち、またその不毛なループを再起動してるのかい?」
「何がだよ、女将さん」
「その、豊穣の神様がどうのっていうエラーデータだよ」
一人の農民が、愉快そうに喉を鳴らした。
「ハハ、ただの日常的な世間話さ」
「だったら、絶対に本人の前でその話を流通させるんじゃないよ」
「なんでだい?」
「あのボスって若者、また自分のシステムが困惑して、大真面目な顔で『私は創世神ですがね』って解説を始めちまうだろ。あれを聞かされるあたしたちの頭痛を少しは考えなさい!」
宿屋の全テーブルから、爆笑の暴風がドッと沸き起こった。住民たちの共通の常識において、ボスは「最大級に高いオフィススペックを保有しているが、同時に、自分の正体は世界を創った創世神であると言い放つ、著しく重度な中二病の変人」として完全に固定化されていた。だからこそ、誰かが彼を賞賛するたびに、彼が「いいえ、私は何一つ物理的な介入をしておらず、創世の黎明の基本原則に従っただけですが」と大真面目な真顔でデバッグしてくるその挙動そのものが、彼らにとってはこれ以上ないほど洗練されたエンターテインメントとなっていたのだ。見当違いな認知バイアスであったが、そのギャップゆえに、村の全個体はジワジワとこのボスという青年のことを、無条件に愛さずにはいられなくなっていた。
一方、村の中枢である集会所においては。最高統治者モーレンが、次々と立ち入ってくる住民たちの対応に追われていた。彼らが持参してくる文字列の範囲は、いつだって同一の場所を示していた。「作物の収穫量」。「備蓄倉庫のインベントリ」。「ボス」。この三つのキーワードが、今日という一日を通じて途切れなく執務室へとパッチされ続けていたのだ。
夕刻のタイムラインを迎える頃、モーレンは羽根ペンを机に置くと、頑丈な椅子の背もたれに力なく上体を預けた。その精神的スタミナの磨り減り方は、かつて不都合なゴブリンの群れが村の境界線に乱入してきたあの日々よりも、遥かに過酷なマイナス補正を記録していた。ゴブリンの襲撃は、実務的には「駆除する」という単一のタスクで処理できる明確なエラーだった。しかし、ボスというオブジェクトは……システム内に、処理不可能な大量の解読不能な問いを連発させるからだ。
扉がコン、と物理的なノイズを響かせた。
「村長、少し実務の手を止めて申し訳ねえ」
ハンツが、手書きの作業日誌のシートを抱えて立ち入ってきた。
「許可します。立ち入りなさい」
モーレンが声を絞り出す。ハンツはその日の完了報告の書類を机の上へと設置した。村長は老眼の瞳でそれらを一瞥した。
「……素晴らしい出力結果だね」
それから彼はゆっくりと顔を持ち上げ、正面の農民を凝視した。
「ハンツ」
「なんだい?」
「お前が現在、村の構成員の中で最も高頻度であのボスと行動を共にしているわけだが」
ハンツは首を縦に振った。
「ええ、俺の畑の第一助手だからな」
「お前の客観的なデータ監査から見てよ……あの青年は、本当にただの、普通の人間の器を持った労働者なのかい?」
ハンツは即座に応答を返すコマンドを実行しなかった。彼はこれまでに発生したすべての異常な変更履歴を、自らの脳内台帳から高速でリプレイしていた。世界の創造や宇宙の物理法則の敷設について、一片の揺らぎもない大真面目なトーンで言い放つ挙動。食物の決済単価という、下位の経済システムの基本仕様を全く解読できない初期化状態。一方で、一瞥しただけで納税台帳の不整合を瞬時に検出する、悍ましいほどのオフィススペック。 earthen のように無駄な動作はない。そして、他者のタスクを完璧に代行しながら、一片の報酬や実績のノイズを過剰に要求しない、あの徹底的な実務能力。初老の農民は肺の底から、静かな、短い諦念の溜息を吐き出した。
「……あたしにも、分からんよ」
モーレンは唇の端を苦々しく歪め、苦笑を出力した。
「お前も、あたしと完全に同一のエラー結論に達したわけだね」
ハンツもまた、引きつった横顔のまま微笑を深めた。
「ええ。現在のシステムにおいて、それが最も嘘偽りのない誠実なデータってやつさ」
二つの個体はそこで通信を完全に一時凍結した。執務室の窓の外へと視線を転じれば、地平線が緩やかに美しい夕暮れの色へと書き換わっていく中、マコトは村の小さな子供が、樹木の幹に引っ掛けて紛失しかけていた凧の回収タスクを、地道にサポートしている最中だった。規模は極小。社会の維持管理における優先順位としては、著しく非重要な雑務。しかし最高神マコトは、一片の不満のログを吐き出すこともなく、ただいつもの平然とした真顔のまま、生真面目に対処を継続していた。
モーレンはその若者の実直な背中を長い時間凝視し、それから、低い声で静かにつぶやいた。
「……何だか、あたしにも」
「ん?」
「村の連中が、なぜあいつのことを無条件に好きになっちまうのか、その理由が少しだけ解読できた気がするよ」
ハンツは深く首を縦に振った。
「あいつが自分で言ってる神様って仕様が本物か偽物かなんて、もう誰も気にしてねえのさ」
「ああ」
「あいつはただ、徹底的に生真面目で、これ以上ねえほど良い奴んだよ」
村長は唇の端を緩め、素朴な微笑みを出力した。
「そうだね。……ただ、それだけさ」
しかし不運なことに、彼ら開拓村の統治者たちは、人間という生命体の群生圏における重大な基本法則を一つだけ見落としていた。人間の世界において、一切の見返りを求めない絶対的な善意が継続して観測された際、システム内には自動的に、ひとつの巨大な神話が生成されるという習性があるのだ。
静かに暗がりに潜み、その神話が個体から個体へとリレーされ続ければ、記述の内容は瞬く間に強力な噂のデータへと自己増殖を執行し、さらにその噂が集団内の盲目的な合意を獲得してしまえば――最終的には、客観的な真実のログなど一微ミクロンも通用しない、信仰という名のクリティカル・バグへと完全な固定化を遂げてしまうという因果の理を。
最高神マコト自身は、ただ目の前にある小さな雑務を完璧に片付け、自らの財布の残高を安定させるという極めて日常的な生存戦略のために、次なる過酷で、磨り減るような大豊穣の崇拝シナリオが、村全体のトランクラインで凄まじいトルクを以て成長を継続しているという不都合な現実に――やはり、この時点においては、まだ気付いてはいなかったのである。




