第3話 見知らぬ荒野
丘の頂から眺めた際には至近に思えた距離が、いざ二本の足で歩を進めてみると、想定を遥かに上回る隔たりを持っている――。
ボスがその厳然たる事実を骨身に染みて自覚したのは、緩やかな傾斜を下り始めてから、すでに半時間近くが経過した頃であった。
かつての彼であれば、世界の端から端へと移動するなぞ、ただ思考の表層にその意思を浮かべるだけで事足りた。
空間は主の命に従って自らを折り畳み、距離という概念はその意味を喪失し、時間はただ不活性な背景へと退く。
しかし今、彼は一歩一歩を律儀に踏み出さねばならず、工程における人間の歩幅というものは、彼の膨大な記憶にあるどの尺度よりも著しく短いものであった。
風にそよぐ野生の草むらを、ボスは黙々と突き進んでいく。
膝の高さまで達した雑草が衣服の裾を払い、彼が足を踏み出すたびに、驚いた小さな羽虫や昆虫が草の陰から弾かれたように飛び出していった。
遥か頭上からは、彼の全知のデータベースにも登録されていない、奇妙な節回しの鳥の声が聞こえてくる。
ボスはそれらの事象を、ただ冷徹な静寂をたたえた瞳で観察していた。
ここは、自分の知る宇宙ではない。
その結論自体は、草むらで目を覚ました瞬間にすでに導き出されていた。しかし、周囲の環境を詳細に観察すればするほど、その差異はより明確な輪郭を帯びていく。
地表を覆う植物の葉脈のパターン、大気中に含まれるマナの精緻な組成、さらには流れる雲の境界線の描き方に至るまで、彼がこれまでに紡ぎ出してきたどの世界線のデータとも一致しないのだ。
僅かな、しかし決定的な違和感。
すなわちこの世界は、彼の統治下にあるマルチバースの網の目から、完全に脱落した未踏の領域であった。
「ふむ」
それは、実務的にはいささか厄介な報せであった。
もし自身が布設した管理システムの内側にいるのであれば、どれほど辺境の世界であれ、管理局へのバックドアを探索する手段はいくらでもあった。しかし、ここが完全にネットワークの圏外であるならば、事態の複雑さは数階層跳ね上がることになる。
ボスがなおも歩を進めていると、前方の草むらが不自然に揺れた。
一匹の小動物が、滑り出すように姿を現す。
その外見は、彼がかつて設計した「ウサギ」という雛形に酷く酷似していた。
だが、その質量は通常の二倍近くあり、長く伸びた耳の先端は奇妙に丸みを帯び、何よりその体毛は淡い水色に染まっている。
ボスが足を止めると、その生命体もまた動きを止め、両者は数秒の間、無言で視線を交わした。やがて小動物は退屈したように身を翻し、草の海へと跳ね消えていく。
その背中を見送りながら、ボスは静かに呟いた。
「……あれはウサギではないね」
彼はその事実に絶対の確信を持っていた。なぜなら、「ウサギ」という概念そのものを創り出したのは、他ならぬ彼自身だからだ。
設計者が違うと言っているのだから、あれはウサギではない。どれほど似ていようとも、それは全く別の思想で編まれた生命だった。
一個の世界をゼロから設計した経験を持つ者にとって、このような微謝な差異こそが、世界の構造を解き明かすための最も雄弁な手がかりとなる。
再び歩き始めると、忘れた頃にまたあの鈍い感覚が胃の腑を刺激した。
激痛ではない。しかし、大局的な思考を維持するには少々目障りなノイズだった。
人間の肉体という乗り物は、実に見通しの悪い仕様になっている。
エネルギーの消費効率は著しく悪いというのに、蓄電容量にあたる胃袋のキャパシティはあまりにも小さい。そのくせ、自己メンテナンスのための要求だけは一丁前だ。
いくつかの論理的な検証を経たのち、ボスは簡潔な評価を下した。
「人間の基本設計は、著しく仕様が低い」
吹き抜ける風が、その至高の設計者による手厳しい独り言を浚っていった。
周囲にその言葉を聞く者がいなかったのは、世界の安寧という意味において、極めて幸運なことであったと言える。もし一介の人間が、己の種族の創造主から直々に「設計ミス」を指摘される現場に居合わせてしまったなら、その後の実務的な対話は神学的かつ哲学的な泥沼へと発展していたに違いないからだ。
やがて彼の足は、草原を一本の細い線で切り裂く未舗装の土路へと行き着いた。
道幅は狭く、轍の跡が深く刻まれている。それは、この付近に明らかな知的生命体の往来があることを示す、動かぬ物証であった。
ボスはその場に低く屈み込み、土の表面に残された複数の蹄の跡を観察した。
生体エネルギーではなく、家畜の筋力を利用した旧式な移動手段。
彼が管理していた先進的な世界線の多くは、文明の進展とともに、より合理的で高効率な推進機関を開発するのが常であった。未だにこのような非効率な獣力車が主力として運用されているという事実は、この地域、あるいはこの世界全体の文明水準を推し量るための、極めて正確なデータとなる。
その時、彼の背後でカサリ、と硬い草の擦れ合う音が響いた。
ボスは静かに上体を起こし、振り返る。
草むらの切れ目から、三つのシルエットが姿を現したところだった。
外見的な特徴から見るに、種族としての分類は「人間」。
二人の男と、一人の女。彼らはそれぞれ、実用的な短い木柄の槍を手に携えており、その衣服は粗末な粗布で仕立てられていた。その瞳には、一目でそれと分かる濃厚な警戒の色が浮かんでいる。
彼らはボスを発見するなり、ピタリと動きを止めた。ボスもまた、その場に静止する。
荒野の真ん中で、しばしの沈黙が流れた。
やがて、最も年長と思しき日に焼けた男が、値踏みするような視線を向けたまま口を開いた。
「……何者だ、あんたは?」
実務的には、極めて真っ当で不可避な質問であった。
ボスは自らのデータベースを参照し、数秒の思考ののち、この状況において最も客観的かつ「正確な事実」を伝えるための回答を選択した。
「私は、創世神だ」
その後に訪れた沈黙は、天界のどの退屈な会議よりも長く感じられた。
ただ、乾いた風だけが、彼らの間を通り抜けて草の海を揺らしていく。
若い女の兵が、信じられないものを見るように瞬きをした。その隣の男は、ひどく不機嫌そうに眉根を寄せている。
年長の男は、長い沈黙ののち、ようやく肺の底から深い溜息を吐き出した。
「――なるほど、そういうことか」
ボスは小さく頷いた。
自身の正確な身分提示が、相手側の知的リソースによって正しく受容されたのだと判断したからだ。実務が円滑に進むのは、いつでも好ましい。
男は、どこか納得したように再び言葉を続けた。
「つまりあんたも、あの『巡礼の説教者』の一人ってわけだな」
ボスは、わずかに首を傾げた。
「何だって?」
「いや、薄々はそうじゃないかと思ってたんだ」
男は自らの推測に満足したように、何度も深く首を振った。
「そろそろ収穫期も近いしな。この時期になると、そういう大層な御託を並べて寄付を募る迷い人が、どこの街からも湧いてくるもんだ」
ボスには、大地の収穫期という局所的な気象イベントと、全宇宙の絶対者である創世神との間に、いかなる因果関係が存在するのか全く理解が及ばなかった。
しかし、彼がその論理的な矛盾を指摘するよりも早く、男は親切げに問いかけてきた。
「で、あんたのいた高名な教会ってのは、どこにあるんだ?」
ボスは、偽らざる事実をそのまま口にした。
「神界だ」
男はまたしても、我が意を得たりといった風に頷いた。
「そりゃまた、随分と遠いところからお越しで」
「そりゃまた、随分と遠いところからお越しで」
「ふむ。確かに、距離という概念を適用するなら、途方もなく遠いね」
ボスは、この対話のベクトルが、なぜか自身の意図せぬ方向へと緩やかに歪み始めているのを感じていた。
とはいえ、彼らの態度に明らかな敵意は見られない。それは現状において、極めて良好なステータスであった。なぜなら彼には今、それらの些細な誤認よりも、遥かに優先順位の高い切実なバグが残されていたからだ。すなわち、エネルギーの補給である。
彼は余計な問答を切り詰め、最も実務的な要求をストレートに提示することにした。
「一つ尋ねたいのだが、君たちの集落には、食物を得られる場所はあるだろうか」
三人の村人は、一瞬だけ互いに視線を交わし、それから年長の男が、どこか同情を孕んだ苦笑いを浮かべた。
「ああ、もちろんあるとも。説教者さん、お腹が空いてちゃ大層な神様の教えも説けないもんな」
ボスは、小さく安堵の息を漏らした。
この不条理な漂流が始まって以来、事態がようやく肯定的な方向へと動き始めたのだと、彼はそう確信していた。
彼が知る由もなかったが、わずか数十秒前、この新たな生存の舞台において――記念すべき『最初の誤解』が、完璧な論理のすれ違いによって誕生していたのである。




