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『異世界に飛ばされた神だけど、誰も俺が神だと信じてくれない』  作者:
芋の神の生誕

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第2話 創世神、異世界へ墜つ

 ボスが最初に自覚したのは、身体の奥底から込み上げてくる鈍い「痛み」であった。

 それは息の根を止めるほど強烈な激痛ではない。

 生命の危機を脅かすような致命的な損傷でもなかった。

 ただ、あまりにも――奇妙で、見慣れない感覚だった。

 過去数十億年、数兆年という永遠の歳月の中で、彼の本質がこのような不快な刺激を直接知覚したことは、ただの一度として存在しなかったからだ。

 彼は知識としてその概念を理解していた。生命というシステムを構築する際、肉体の破損を警告する防衛反応として、彼自身がその「痛み」という設計図を編み出した張本人ですらあった。

 しかし、システムを構築することと、それを一個の生命として内側から直接体験することとの間には、果てしない深淵が横たわっている。神の定義する論理と、肉体の伝える現実は、全くの別物であった。


 ゆっくりと、重い瞼を持ち上げる。

 視界に飛び込んできたのは、どこまでも平坦に広がる青い天井――否、空であった。

 白く千切れた雲が、気流の悪戯によって緩やかに形を変えながら流れていく。

 極めてありふれた、普遍的な自然の営み。

 ありふれすぎているがゆえに、ボスは即座にひとつの結論へと達した。何かが、決定的に間違っている。

 そもそも、天界の「輪廻の間」には、大気もなければ雲などという不確定な気象現象も存在しないからだ。


 彼は上体を起こした。

 四肢を動かすたびに、衣服の隙間から緑の香気が這い上がってくる。周囲には、膝の高さまで伸びた瑞々しい草原が広がり、風に吹かれてさざ波のように揺れていた。土の湿った匂いが鼻腔をくすぐり、目の前を小さな羽虫が羽音を立てて横切っていく。

 ボスはその虫の軌跡を数秒間、ただ無表情に見つめていた。

 それから、首を巡らせて己の置かれた環境を観察する。

 緩やかな起伏を描く丘陵地帯。吹き抜ける風。どこまでも高い空。

 宙に浮遊する半透明な管理局の画面は一枚もない。魂のパラメータを算出する魔導術式の歯車もない。慌ただしく走り回る神職員たちの姿も、小言をぶつけてくるセリアの姿も、どこにもなかった。

 客観的な事実が、彼の脳内で冷酷な等式を結ぶ。

 すなわち、自分は完全に別の世界線へと放り出されたのだ。


「ふむ」

 ボスは短く呟き、静かに頷いた。

 決して理想的な状況とは言えない。

 とはいえ、最高存在たる彼の精神を恐慌に陥れるほど、致命的な事態というわけでもなかった。

 まずは立ち上がろうと試みる。しかし、足元に力を込めた瞬間、想定していた重心のバランスが大きく狂い、彼は不格好に草むらへとよろめいた。

 身体が、悍ましいほどに重い。

 重力という物理法則の枷を、これほど生々しく肉体に直接課されたのは初めての経験だった。何度か不器用な試行錯誤を繰り返したのち、ボスはようやく二本の足で直立することに成功した。


 彼は確認のために、右手をそっと宙へ掲げた。

 応答はない。

 神界の全知全能システムへアクセスを試みる。応答はない。

 管理局のマスター管理者用パネルを開こうとする。応答はない。

 物質や事象を無から編み出す「創世の端末」を脳内で呼び出す。やはり、完全な沈黙が返ってくるのみであった。

 ボスは一瞬だけ動作を止め、思考を初期化して、もう一度同じプロセスを踏んでみた。

 結果は微塵も変わらなかった。

 世界の黎明以来、彼が布いた法則のネットワークが、主の呼びかけに対して完全に沈黙を保っている。


 再び風が吹き抜け、青臭い草の波が音を立てた。遥か彼方の樹木で、名前も知らぬ鳥がのどかにさえずっている。

 その牧歌的な静寂の中で、ボスはゆっくりと現実を受け入れた。

「私は、本当に転生してしまったのだね」

 その口調は、出掛けに傘を忘れてきたことに気付いた男のそれと、何ら変わりがなかった。

 彼は自らの手のひらをじっと見つめた。

 燦然たる神聖魔力もない。事象を書き換える創世 of 権能もない。最高管理者としてのアクセス権限も、神としての不滅の霊格も、何一つとして残されていない。

 この輪郭を持った肉体は、どこからどう見ても、ただの脆弱な「人間の器」そのものであった。


 その厳然たる事実について、彼はしばらくの間、深い日常的な思案を巡らせていた。

 そして、次に直面すべき論理的な問題へと行き当たる。

「困ったな。天界への帰り方が分からない」

 これは先ほどの痛みの問題よりも、実務的には遥かに深刻な事態であった。

 かつての彼であれば、次元を移動するなど、ただそこにある扉を開くよりも容易な行為だった。神界へ戻りたければ、ただ一歩を跨ぎ越すだけで事足りたのだ。

 だが今、世界線への通用門は存在しない。管理者用のアカウントも、復旧用のシステムも、何もかもが遮断されている。

 果てしなく長い生存の歴史において、彼は真の意味で、自身の被造物の中に「閉じ込められて」しまったのだ。


 ボスは目を細め、霞む地平線を見渡した。

 遥か彼方には深い森が広がり、さらにその境界の向こうから、一本の細い糸のような灰色の煙が空へと立ち上っているのが見えた。

 煙があるということは、火を扱う生命体が存在するということだ。高確率で、人間の集落。

 彼はその視覚情報を脳内で吟味し、小さく首を縦に振った。

 自力での帰還が不可能である以上、当面の最優先事項は「環境情報の収集」となる。極めて明快で、異論の挟みようのない論理等式であった。


しかし、彼がその最初の一歩を踏み出そうとした、まさにその瞬間。

 身体の正中線のやや下あたりから、不穏な重低音が響き渡った。

 ――ぐるるるるぅ。

 ボスはぴたりと足を止めた。

 何事かと思い、自らの腹部へと静かに視線を落とす。まるで彼の確認に応じるかのように、その器官は再度、奇妙な自己主張を繰り返した。

 ――ぐるるるぅ。


 一瞬の間、彼はその音の意味を処理できずに佇んでいた。

 やがて、過去の膨大なデータベースの片隅から、ひとつの忘却されていた知識が発掘される。

 人間の肉体という不完全なシステムは、定期的に外部から有機物を摂取しなければ、自己崩壊を起こす仕組みになっていたはずだ。

「おや」

 それは言葉としての知識に過ぎなかった。今までは、彼自身にとって微塵も関係のない、他者の仕様書の一行でしかなかったのだ。

 彼は生命を創り出す側の存在であり、生命そのものに身をやつしたことなど、ただの一度もなかったからだ。


腹部の不快感――「空腹」と呼ばれるそれは、時間の経過とともに増幅し、より鮮明に、より実体を持って彼の意識を侵食し始めた。それは無視するには、あまりにも自己主張が激しすぎる。

ボスは天を仰ぎ、次いで深い森を見つめ、最後に自らの腹部を見た。

 この異世界への漂流は、当初の想定よりも遥かに複雑なレイヤー(階層)を含んでいるらしい。

神としての権能を喪失したことは大局的な問題だが、目の前の空腹は極めて局所的かつ緊急性の高い実務問題であった。そして今の彼にとっては、明らかに後者の方が、生存に関わる切実な脅威として牙を剥いている。


「ふむ……」

 彼は、遠くに見える煙の主に向かって、ゆっくりと歩を進め始めた。

 その歩調はひどく緩慢であった。疲弊しているからではない。ただ、彼自身がこの「人間の肉体」という極めて不自由な乗り物の操縦方法に、今まさに適応しようとしている最中だからだ。

 それにしても、人間の構造は絶望的なまでに効率が悪い。

 物理的な最大出力は著しく低く、外環境に対する耐性も極めて限定的。そのくせ、わずか数時間の稼働ごとに、有機物の補給を激しく要求してくる。

 これほど不完全な設計であれば、人間の思考の九割が「食事」に支配されているのも無理はない、とボスは妙なところで納得していた。


 草原を歩き続け、どれほどの時間が経過しただろうか。やがて地平線の先から、明らかな人工物のシルエットが姿を現し始めた。

 粗末な木造の屋根。土を固めただけの簡素な囲い。集落の周囲にパッチワークのように広がる、未熟な耕作地。

 それは、どこにでもある小さな開拓村だった。

ボスは低い丘の頂で足を止め、眼下に広がるその光景を見下ろした。

 その瞬間、彼の脳裏に、悠久の過去の記憶がふと過った。


 遥か、気が遠くなるほどの昔。

 彼がこの宇宙に「最初の村」という雛形を創り出したときのこと。

 数軒の粗末な家屋。数人の不器用な人間。一本の小さな川と、不揃いな畑。

 いま、眼前に広がっている光景は、あの始まりの日の記憶と何一つ変わっていなかった。ただ、スケールが変わり、ディテールが少しだけ変化しているに過ぎない。

 そして今、彼は自らが創り出した世界の「外側」に立っていた。

絶対的な設計者としてではなく、その法則に縛られる、ただの一介の人間として。

 それは確かに、新鮮で、酷く奇妙な感覚であった。


 だが、彼がその感傷に浸ることを、肉体は断じて許さなかった。

 ――ぐるるるるぅ。

 三度目の重低音が、彼の思考を強制的に現実へと引き戻す。

ボスは眼下の村を見つめ、静かに、短く溜息を吐き出した。

「まずは、食物を確保しなければならないね」


 このささやかな決意の第一歩が、やがて世界全土を巻き込む、とてつもない誤解と不条理の連鎖へと繋がっていくことに、彼はまだ気付いていない。

創世神たるボスは、ただ腹を満たすという極めて世俗的な目的のために、実実な足取りで丘を下り始めたのだった。


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