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『異世界に飛ばされた神だけど、誰も俺が神だと信じてくれない』  作者:
芋の神の生誕

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第1話 輪廻の不手際

挿絵(By みてみん)



 すべてが予定通りに進んでいたならば、その日もいつもと変わらぬ、退屈で平穏な一日になるはずであった。

 数百もの魂が一斉に天界へ押し寄せてくるような事態さえなければ。

 装着された世界の天秤が狂ったわけでも、次元の壁が崩壊したわけでもない。ただ、直属の部下である事務神が、四日もの間一睡もしていないという極限状態にあった。それだけが、この日最大の不条理の引き金であった。


 神々の集う「神界」には、世界の秩序を維持するための様々な部署が存在している。

 各世界線の動向を監視する「世界管理局」。

 予期せぬ天災や滅亡の危機を制御する「災害対策局」。

 次元間の障壁を維持する「次元安定局」。

 新たなる生命の雛形を編み出す「種族創造局」。

 ――そして、魂の循環を実務的に司る「輪廻転生局」である。

 広報部が発行している公式パンフレットの文言を借りるなら、輪廻転生局とは「全マルチバースの生命のサイクルを支える、大いなる心臓」であった。

 しかし、そこで日夜デスクワークに追われる現場の神職員たちの言葉を借りるなら、その実態は「あまりにも煩雑な書類の手続きが多すぎる、天界の地獄」に他ならない。


 広大な「輪廻の間」は、空間のすべてを埋め尽くさんばかりの画面で満ちていた。

 数千もの半透明な画面が、何に支持されるでもなく宙に浮遊している。

 ある画面には死者の魂のデータが淡々と流れ、別の画面には異世界の現状報告書が映し出され、さらに別の画面には「昨日までに処理すべきであった未達業務」の長いリストが赤々と表示されていた。

 数値、データ、業務報告、申請書。押し寄せる魂の待機列。

 この場所では、昼と夜という概念に意味はない。時間という要素それ自体が、神々が管理すべきデータの一部に過ぎないからだ。システムは一瞬の猶予もなく、ただ冷徹に稼働を続けていた。


 その中央に位置する主画面には、一つの極めてシンプルな数字が表示されている。


【未処理の魂:一一二件】


 事務神セリアは、その数字を死んだ魚のような目で見つめていた。

 それから、机の上に置かれた完全に空の珈琲カップへ視線を落とす。そして再び、画面の数字へと目を戻した。彼女は、そのどちらかの数字が奇跡的に変化してくれることを切望していたが、現実は無情である。どちらも微動だにしない。

「……大嫌いです、トラックくん」

 乾いた唇から、呪詛のような呟きが漏れた。

 輪廻転生局のシニア職員として、セリアはこれまでありとあらゆる大不祥事を処理してきた経験がある。悪質な疫病、世界規模の大戦、巨大隕石の衝突、魔物の大侵攻、あるいは傲慢な魔術師による禁忌の実験失敗。

 しかし、それらすべての災厄を以てしても、地球という世界に存在する「一台のありふれたトラック」がもたらす行政災害には到底及ばない。

 未だ天界の最高調査委員会ですら、あの鉄塊がなぜこれほどの頻度で「異世界転生を運命づけられた主人公候補」を正確に撥ね飛ばし続けるのか、その怪奇現象を理論的に説明できずにいた。


 そんな喧騒のただ中、部屋の反対側では、一人の男が静かに本を読んでいた。

 セリアはその姿を数秒間、じっと凝視した。自分の脳が疲労のあまり、都合の良い幻覚を作り出しているのではないかと考えたからだ。もう一度瞬きをして、視界の焦点を合わせる。

 幻覚ではなかった。その男は、間違いなく優雅に読書を楽しんでいた。

 彼が目を通しているのは、世界の動向を記した報告書ではない。創世の法を記した聖文書でもない。宇宙の崩壊を防ぐための数式データでもない。小説――どこにでもある、ただの娯楽小説であった。遠目からでもはっきりと分かる。そこにはグラフもなければ、統計の表も、事務的な添付資料も一切存在しない。要するに、公務として読むべき要素が、微塵も含まれていない代物であった。


「私は、今度こそ本当に辞職しますからね……」

 セリアは低く唸るように呟くと、ついにその積年の不満を、張本人へと直接ぶつけるべく足を進めた。

「ボス」

 男は、読み進めていたページの端を丁寧に折り、顔を上げた。

「なんだい?」

「なぜこのような状況で、優雅に小説などを読んでいらっしゃるのですか」

「面白いからだよ」

 迷いのない返答であった。あまりにも自然で、一切の淀みがない。あたかも「空はなぜ青いのか」という問いに答えるかのような平然とした態度だった。

「世界線が混乱を極めているのです」

「だからこそ、心を落ち着かせるための娯楽が必要なのだろう?」


 セリアはそっと目を閉じ、心の中で五まで数えた。それでは足りず、さらに十まで数えてみたが、脳内の苛立ちは微塵も収まらなかった。男は相変わらず、至極平穏な様子で温かい茶を啜っている。

 その容姿は至って平凡である。驚くほどに普通で、彼の外見には特筆すべき点が何一つ存在しない。神々しい後光もなければ、世界を圧するような覇気もない。もし彼の正体を知らぬ者が通りすがりに見かけたなら、天界のどこにでもいる一介の神職員だと思うに違いない。

 天界において彼の本名が使われなくなってから、既に悠久の時が流れていた。大半の神々はその名を知らず、すべての者が親しみと、あるいは深い諦念を込めてこう呼ぶ。


「ボス」――すなわち、この全宇宙を創り出した最高存在、創世神。

 星々を紡ぎ、世界を定め、物理法則を編み、生命の種を蒔いた絶対者が、いまや一介の事務職の目の前で茶を啜りながら小説に耽っているのである。その強烈なコントラストは、四日間の残業によって精神を磨り減らした神にとって、網膜に激痛を伴うほどの不条理であった。


「ボス」

「うん?」

「少しは手伝っていただけないでしょうか」

「いいよ」

 その快諾に、セリアの胸中に小さな希望の光が灯った。しかし、その希望はわずか数秒で無残に打ち砕かれることになる。なぜなら、何も起きなかったからだ。ボスは依然として椅子に深く腰掛けたまま、片手には小説を握り、極めてリラックスした姿勢を崩しようとしない。

「……」

「……」

「手伝う、とは具体的にどの業務を指しているのですか」

「私は今、君の邪魔をしないという最大の助力を提供している」


 あまりの物言いに、セリアは一時的に言語を発する能力を失った。だが、さらに腹立たしいことに、限界を迎えた脳でその理屈を反芻してみると、そこには妙な説得力が存在していた。もし最高神が不用意に現場の実務へと介入すれば、全職員がパニックに陥り、かえって業務が完全に停止することは目に見えている。それでも、納得がいかないものは、いかない。

「それは手伝いとは呼びません」

「何もしないということは、時に最大の貢献になるのだよ、セリア」


 セリアは、これ以上この男と言葉を交わすのは時間の無駄であると判断した。天界の法において、上司に対する特定の暴力的行為は厳罰に処される可能性が高く、彼女の理性の残滓は、創世神を輪廻の奈落へと生身で突き落とすという誘惑を必死に抑え込んでいた。


 ――不吉な予感が脳裏をよぎった、まさにその瞬間であった。

 静寂を切り裂くように、ホール全体に警告音が鳴り響いた。電子音に似た甲高い不協和音が、四方八方に木霊する。セリアの身体が弾かれたように直立した。周囲の画面が一斉に血のような赤色に変色し、制御パネルのインジケーターが激しく明滅を始める。そして、主画面の真ん中に、彼女が最も恐れていた光の文字が浮かび上がった。


【緊急事態発生・地球:優先度極大】


 先ほどまで彼女の精神を支配していた凄まじい疲労感は、一瞬にして消し飛んだ。代わりに、背筋を凍らせるような最悪の予感が脳内を満たしていく。画面上の処理待ちの数字が、爆発的な勢いで跳ね上がっていく。


 一一二、

 一一三、

 一一四、

 一一五。


 数値のカウントは止まらない。セリアは画面を数秒間凝視し、それからロボットのようなぎこちない動作でボスの方へと顔を向けた。

「ボス」

「なんだい?」

「泣いてもよろしいでしょうか」

「極めて人間的で、健全な感情の表出だと思うよ」

「私は本気で言っています」

「私も本気で答えているとも」

 その返答には、微塵の慰めも含まれていなかった。それが、かえって事態の深刻さを際立たせる。


 セリアは即座に思考を遮断し、制御盤の上で指を走らせた。その指先は、長年の経験による自動人形のごとき正確さでボタンを叩き続ける。コマンドが実行され、臨時の待機列が展開され、魂のデータが高速でソートされていく。殺到するエラー報告を処理するため、臨時の転生ルートが追加でアクティブ化された。

 次々と開かれる新規ウィンドウ。また書類、どこまでも書類。システムは絶え間なく承認を求めてくる。ある一線を超えた瞬間、彼女の視界にあるすべての画面が同じものに見え始めた。文字列は歪んで霞み、頭の中に鉛を詰め込まれたような重痛い感覚が襲う。四日間の不眠不休というコンディションがもたらす副作用は、マルチバースの輪廻システムを管理するにはあまりにも致命的であった。


 彼女の指は、最早意識の制御を離れて、ただ自動的な最適解を求めてボタンを叩き続けていた。ボタンを押す。メニューを開く。閉じる。コマンドを承認する。処理を確定させる。そして――彼女の視界の端に、一つの赤い術式ボタンが飛び込んできた。

 セリアは、そのボタンを叩いた。反射。純粋な、肉体の生存本能による反射であった。

 カチリ、と小さな音が響いた。


 唐突に、騒々しい警告音が止んだ。赤く染まっていた画面が静止し、システム全体が不気味なほどの静寂に包まれる。あまりにも不自然な、間違った静寂だった。セリアは呆然と瞬きをした。

「……え?」


 主画面に、冷酷な文字列が出力される。


【全自動転生シークエンス起動:対象領域内の最大生命体を最優先プロセスとして検出】


 疲弊しきったセリアの脳が、その文字列の意味を正しく理解するまでに数秒の時間を要した。そして次の数秒で、そのシステムが指し示している「領域内の最大生命体」が一体誰を指しているのかを、完全に理解してしまった。


 ゆっくりと、恐る恐る部屋の中央へと視線を向ける。

 そこでは、停止したはずの魔法陣が、かつてないほどの純白の輝きを放ち始めていた。床から噴き上がる膨大な神聖魔力。古代のルーンが暴風のように吹き荒れ、魂を強制移送する輪廻のエネルギーが、巨大な渦となって収束していく。

 そして、その渦のまさしく中心に。

 彼女のボスが、小説を片手にしたまま佇んでいた。相変わらず、その表情は呑気そのものである。自分に何が起きようとしているのか、未だ何一つ気付いていない様子だった。


「ボス」

「うん?」

「そのまま、一歩も動かないでください」

「どうしたんだい? そんなに青い顔をして」

「問題が発生しました」

「どの程度の規模かな?」


 セリアは震える手を持ち上げ、彼の足元を指し示した。

「――その程度の規模です」

 ボスは言われてようやく彼女の指の先へと視線を巡らせ、己の周囲を完璧に包囲している絶大な術式に目を留めた。それからセリアを見た。

「おや、これは一体何が――」


 直後、視界のすべてを純白の光が埋め尽くした。そこには音もなく、形もなく、あらゆる概念が消失していた。


 創世の黎明以来、初めて天界で発生した前代未聞の「労働災害」。神々の歴史において、最高神が手違いによって人間の転生ラインへと流されるなどという狂気は、ただの一度として存在しなかった。

 承認もなく、事前の調査もなく、正規の手続きすら踏んでいない。そして何より、申請書の類が一切提出されていない。神界の事務手続き上において――それこそが、この不祥事の中で最も恐るべき部分であった。


 眩い光が完全に霧散したとき、ホールには再び静寂が戻っていた。あまりにも、静かすぎる静寂であった。先ほどまでボスが座っていた椅子の近くには、彼が読んでいた小説だけがポツンと床に落ちている。持ち主の姿は、影も形もなかった。


「……」

「……」

 セリアは幽霊のような足取りで端末へ近づき、主画面を見つめた。


【対象ステータス:創世神】

【転生処理:成功】

【現在位置:計測不能(未知の領域)】


 彼女はその文字列を三度、四度、五度と読み直した。しかし、何度読み直したところで結果が変わるわけではない。彼女のボスは、完全に、跡形もなく、異世界へと「転生」させられてしまったのだ。他ならぬ自分自身がオペレートした自動システムによって。


 セリアは糸が切れた人形のように、ゆっくりと自らのデスクへと歩き、引き出しを開けた。ずっと以前から、万が一の事態に備えて作成して温めておいた一通の書類――「辞職願」を機械的な動作で取り出す。彼女は震える手で自らの署名を済ませると、ペンをそっと机に置き、再び椅子へと腰掛けた。何もない虚空をただ見つめる。


 そして――天界の静寂を破るほどの声で、ついに大粒の涙を流して泣き叫んだ。


「クビだあああああッ!!」



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― 新着の感想 ―
とても興味に惹かれる1話ですね。 続きが気になります。
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