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『異世界に飛ばされた神だけど、誰も俺が神だと信じてくれない』  作者:
芋の神の生誕

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第20章 農民の救済案

 その日の夕刻、マコトが冒険者ギルドへ帰還した瞬間、受付のリサは即座に何かが起きたことを察知した。

 彼の衣服が破れているわけではなかった。肉体に傷一つ負っているわけでもない。討伐した怪物の残骸を抱えているわけでもなかった。

 ただ、出発した時と全く同じ様子でそこに立っていた。あまりにも、いつも通りすぎたのだ。

 現場の経験から言えば、そのような完璧すぎる平穏さは、往々にして深刻な不都合を隠蔽しているものだった。


「荷物の運搬仕事は終わったのかい?」

「終わりました」

 マコトは牧場の主から署名をもらった完了報告の紙を、木製のカウンターの上へと設置した。

 リサは手早く内容を確認した。不備はどこにもない。完璧な仕上がりだった。受領のサインも、ギルド公式の確認印も、すべてが正常に揃っている。

 仕事は見事に成功していた。

 あまりにも常識的な結果だった。だからこそ、リサは逆に強い不審を抱いたのだ。このマコトという青年がギルドに来て以来、事態がまっとうに推移した記憶など、ただの一度もなかったからだ。


「道中は、どうだったんだい?」

「ええ、実に見応えのある内容でしたよ」

 リサの脳内で、警戒のインジケーターがさらに跳ね上がった。人間という生き物は、物事が予定通りに進まなかった時に限って、そのように抽象的な言葉を口にするものだからだ。

「何か問題でも起きたのかい?」

 マコトは数秒、思考を巡らせた。

「五人の人間が、危うくゴブリンの群れに処理されかけていました」

 リサの身体が硬直した。

「……はあ?」

「しかし、その不具合はすでに解決済みです」

「どうやって解決したんだい」

「彼らは退去していきましたよ」

「誰がだい」

「ゴブリンたちが、です」


 リサは数秒の間、完全に沈黙して彼を見つめた。そして、それ以上の詳細な追及を止めることにした。経験上、この青年から追加の説明を求めると、状況がより一層理解不能な泥沼へと引きずり込まれることを熟知していたからだ。

 彼女はカウンターの上に鈍く光る金属片を設置した。

「これが今回の報酬、銅貨四枚だよ」

 マコトはその対価を受け取ると、手のひらの上で厳かに見つめた。

 四枚の小さな卑金属。物質的な価値は極めて微小だ。しかし、これこそがこの下位世界において、彼が自らの労働によって初めて獲得した正当なリソースだった。

 誰からの借金でもなく、他者からの施しでもない。実務の遂行によって得られた等価交換の結果。

 それは確かに、新鮮で奇妙な感覚であった。過去数十億年の歴史において、彼は己の生存コストのために働く必要など皆無だったのだ。いま、目の前にある四枚の銅貨は、かつて紡ぎ出してきた数多の世界のどんな財宝よりも、生々しい実体を持って彼の意識に直撃していた。

「……やり遂げましたね」

 マコトは小さくつぶやいた。

 リサの唇の端が、かすかに釣り上がりかけた。ほんの、一瞬のことであったが。


 彼女が微笑みを出力するよりも早く、ギルドの扉が激しく押し開けられ、戦士アルノが慌ただしい足取りでなだれ込んできた。

「おう、マコト! もう戻ってたのか!」

「ええ、帰還しましたよ」

「で、あのゴブリン討伐の仕事はどうしたんだ?」

「私は最初からその仕事を引き受けてはいませんよ。私が執行したのは、こちらの物資の運搬仕事です」

「あ……、そういやそうだったな」

 アルノはぱちくりと瞬きをして、ようやく記憶の整合性を取ったようだった。しかし次の瞬間、彼の表情は一変し、著しく深刻な様子へと書き換わっていった。

「いや、それより大変なことになったんだ」

「現場の人間がその言葉を口にする時、良い知らせだった試しがないね」

 リサが忌々しそうに腕を組む。

 アルノは彼女の嫌みを無視し、真っ直ぐマコトへと向き直った。

「あんたが触らなかったあのゴブリン討伐の仕事、別のパーティーが引き受けたんだがよ」

「それは、彼らにとって喜ばしいことだね」

「そんな場合じゃねえんだよ!」

 アルノは大きな溜息を吐き出した。

「たった今、新しいエラー報告がギルドに入ったんだ」

 リサの瞳に、プロとしての鋭い光が戻る。

「一体、どのような内容だい」

「ゴブリンの群れの規模が、事前の予測値を遥かに上回っていたらしい」


 酒場の喧騒が、ジワジワと引いていくのが分かった。周囲のテーブルに就いていた冒険者たちが、次々と彼らの対話に耳を傾け始めている。ゴブリン単体はそれほど巨大な脅威ではないが、その絶対数が増加すれば、状況の危険度は一気に跳ね上がるからだ。

「具体的には、どれくらいの数なんだい?」

 リサが問いかける。

「十数匹は確実に群生してるって話だ」

 アルノの声のトーンが下がる。

「おまけに、この付近の農民たちから、畑が荒らされたって苦情のログが何件も届き始めてる」


 マコトはその内容を静かに受信し、脳内で検証を始めた。

 農民。

 それは、社会の基盤を支える極めて重要なセクターであった。この世界に墜ちて以来、彼が口にしてきた食物のほぼ全ては、彼らの労働によって生産されている。彼らは間接的に、多くの個体の生存システムを維持している担い手なのだ。構造の観点から見れば、極めて美的価値の高い役割と言える。

「ゴブリンは、彼らの耕作地を破壊しているのかい?」

 マコトの質問に、アルノは重く首を縦に振った。

「ああ。あるところじゃ収穫物を強奪され、あるところじゃ家畜が処理され、倉庫まで不法侵入されてるらしい」

 リサが冷ややかに言葉を添えた。

「となると、農民たちからの救助要請の件数は、これから爆発的に跳ね上がるね」

「そういうことだ」

 アルノは、本日始まって以来の生真面目な表情を維持していた。

「問題は、この都市のギルドに今、その大量のタスクを同時に処理できる常勤の冒険者スタッフが不足しているって点だ」


 マコトは静かに思考の深度を下げていった。

 もし農民たちが収穫物を喪失すれば、市場全体の食物の生産量は著しく低下する。食物の生産量が低下すれば、価格のインフレが発生する。価格のインフレが発生すれば、人間たちの生活システム全体に深刻なバグが波及する。

 極めて明快で、予測しやすい因果の等式であった。

「ならば、彼らには早急な実務の手助けが必要だね」

「当たり前だろ」

 アルノが応じる。

「だからこそ、こうしてギルドに依頼が出されてるんだからな」


 マコトは首を縦に振った。しかし彼の論理回路は、彼らの常識とは全く異なる方向へと動き始めていた。より根源的な、システムの基本設計に関する検証だった。

「一つ尋ねたいのだが、農民たちを保護するすべての手助けは、必ずこのギルドという機関を経由せねばならないルールなのかい?」

 アルノは不意を突かれたように瞬きをした。

「……いや、別にそういう決まりはねえけどよ」

 リサもまた、不審そうに眼鏡の奥の瞳を細めた。

「なんでそんなことを聞くんだい、マコト」


 マコトは、自らの手元にある四枚の銅貨を見つめた。

 それから、開拓村の案内人ハンツに対して負っている、スープの代金である銅貨三枚の債務を思い出した。借金は未だに存在し、現在の収入ペースでは、この不都合なデータは当分の間消去できそうにない。

 この世界線で生存維持を継続するためには、より長期的で安定したリソースの獲得ルートを構築せねばならないのだ。

 しかし、ギルドの布設している現在の依頼システムは、タスクが発生し、遂行し、完了すれば契約が終了する、一時的な流動契約に過ぎない。仕事が終わるたびに新しいポストを探索せねばならず、システムとしての効率性が著しく低いのだ。


「農民という個体群は、常に一定の割合で防衛の実務を必要としているように見えましたからね。ならば、直実な対話の余地はあるはずだ」

 マコトは自らのデバッグ結果をそのまま口にした。

 アルノはわけが分からぬように首を傾げ、リサもまた、彼の発言の意図を正確に受信できずに佇んでいた。


 しかしマコトの中では、結論はすでにシンプルな等式を結んでいた。

 農民は、自らの安全を守るための確実な労働力を欲している。

 自分は、長期的な生存のための安定した貨幣を欲している。

 この両者の不具合は、直接の契約によって同時に解決パッチすることが可能である。

 これ以上ないほど合理的で、興味深い解決策であった。


 ギルドの中にいる誰一人として気付いてはいなかったが、最高神マコトの脳内で、今まさに一つの小さな決断が形作られつつあった。

 そしてその実直すぎる決断こそが、やがてこの世界の統治レギュレーションを根底から揺るがしていく、過去最大級の巨大な誤解の等式へと発展していくことになるのだが――。

 現在のマコト自身にとっては、これは単に「農民たちを効率的に手助けし、自らの財布の残高を安定させる」という、極めて日常的な生存戦略の一歩に過ぎなかった。彼は両手で空の衣服の隙間を確認すると、静かに、そして確実な足取りで、次なる実務の舞台へと向けて思考を稼働させ始めたのだった。


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2026/09/09 公開予定

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