第19章 再び却下されたメソッド
マコトは眼前に群生するゴブリンたちを見つめ、ゴブリンたちは正面に直立するマコトを見つめ返していた。
彼らから数歩下がった草むらの上では、先ほどまで敗走を執行していた三人の男たちが、乱れた呼気を必死に整えようと喉を鳴らしている。
人間の常識的な基準を適用するならば、現在の状況は著しく奇妙なバランスを保っていた。しかしマコト自身の見解によれば、この事象は単に、最適解となる解決手順がまだ明確に導き出されていない状態に過ぎない。そして彼は、問題の本質を完璧に理解しないまま不用意に行動を起こすという、非効率な実務手順を何よりも嫌う性質であった。
先頭のゴブリンが、威嚇の意を込めて不快な声を張り上げた。それに連動して、彼が保持していた粗末な木製の棍棒が大きく空間を払う。マコトはその運動軌跡を、ただ網膜のデータとして冷静に観察していた。
「おい、見ろよ!」
背後にへたり込んでいた男の一人が、絶望を乗せた声をからした。
「あいつら、完全にこっちを処理しにくる気だぞ!」
「ええ、その意図が明確に検出できますね」
マコトは至って平然と応答した。
「だったら早く、何とかしてくれよ!」
「ですから、それを今すぐ思考している最中なのですよ」
男はあまりの不条理さに、ついに涙を流しそうになった。彼の認知心理から言えば、思考を巡らせるタスクなど、怪物が石を投げて届くほどの距離に肉薄してくる遥か手前で完了させておかねばならぬシロモノだったからだ。それなのに、この目の前の青年は、ギルドの窓口でどの依頼を引き受けるか選んでいた時と全く同じ温度の静寂を保っている。その一片のブレもない平然さが、かえって生存の危機に瀕した人間に底知れぬ恐怖をもたらしていた。
ゴブリンの群れは、じわじわと前進を開始した。その歩調は緩慢であり、明らかな警戒の様子が含まれている。彼ら怪物側の思考回路もまた、困惑のエラーログを出力していたのだ。通常、この開拓地において遭遇する人間という個体は、即座に敗走を執行するか、あるいは明確な敵意を以て武器を振るってくるかの二通りしか選択しない。このように何一つ身構えることもなく、ただ真顔のまま静止してこちらの出方を監査しているような奇妙な個体は、彼らの生存経験のデータベースにも登録されていない種類のものであった。
マコトは彼らの生体挙動をスキャンしながら、経年劣化した古いテキストファイルを脳内で探索した。それは、これまでに彼が紡ぎ出してきた数多の世界線における、この低位の亜人種に関する生態報告書だった。数億年、あるいは十億年も前の古いデータであり、正確な数値データまでは思い出せなかったが、一つの厳然たる基本原則だけは明確に記憶に残っていた。
「通常、ゴブリンという種族は、自らよりも最大出力が高いと認識した上位の脅威に対しては、防衛本能に従って接触を回避する習性があったはずですがね」
マコトが実直につぶやく。
「その通りだ!」
背後の男が、狂ったように同調の声を上げた。
「だからその、上位の脅威ってやつを今すぐ見せてやってくれ!」
マコトは首を縦に振った。筋の通った指摘だ。この不具合の最終的な完了目標が「怪物の速やかな撤退」であるならば、最も低コストで効率的な解決策は、攻撃を仕掛ける行為が彼らにとって著しく不利益な結果をもたらす決断であると、客観的な真実を以て証明してやることだ。物理的な衝突もなし。個体の破損もなし。環境への二次被害も皆無。社会維持の観点から見ても、遥かに優れた美しい手順だった。
マコトは直実な足取りで、前方に向け一歩を踏み出した。その物理的な質量移動を検知し、ゴブリンの群れがピタリと動きを停止させる。マコトは彼らの醜悪な顔面を見据えると、一切の不純物を含まない純度百パーセントの真実を出力した。
「私は、創世神だ」
荒野の分岐路に、完璧な静寂が沈み込んだ。後ろに控えていた三人の人間は白目を剥いて硬直し、ゴブリンたちは意味が分からぬように一斉にその首を傾げた。ただ夏の風だけが、彼らの間を虚しく通り抜けていく。
現在のこの不条理な状況において、その文字列を重要なデータであると正しく認知していたのは、他ならぬマコト自身だけであった。彼の演算によれば、この身分の提示は交渉を円滑に進める上で極めて重要な事実のはずだったからだ。対抗する個体が自らの正確な正体を受信すれば、それだけで不毛な衝突の発生確率は皆無へと収束する。
しかし不運なことに、ゴブリンという下位生命体に人間の言語のデコード機能は実装されていなかったし、背後の人間たちも死の恐怖による過負荷で、今しがた鼓膜を通過した文字列の正確な意味を処理するリソースを失っていた。等式の出力結果は――ゼロ。状況の様子は何一つ変化しなかった。
「ふむ」
マコトは冷めた思考でつぶやいた。
「真実の申告による解決手順は、完全に失敗しましたね」
「失敗に決まってんだろ、何言ってんだあんたは!」
男が絶叫の抗議を吐き出す。
マコトは即座に思考のベクトルを切り替え、別の切り口からアプローチを試みることにした。
「あなた方は、速やかにこの地殻領域から退去した方が賢明ですよ」
彼はゴブリンの群れに向かって、実直に言葉を継続した。
「私は現在のルールにおいて、これ以上余計な個体の破損、すなわち生命の消滅が発生することを望んではいませんからね」
その発言は、彼の内面から出た偽らざる誠実な善意そのものだった。彼は誰かが傷つくという非効率な事象を、微塵も求めていなかったからだ。しかし嫌なことに、その一片の抑揚もない、天気予報でも読み上げるかのような淡々とした真顔のトーンは、背後の人間たちの耳には全く異なる意味として受け止められた。それは、猶予期間を完全に遮断された、冷酷な執行者による最終宣告の響きそのものだったからだ。
ゴブリンたちの中に、明らかな動揺が広がり始めた。彼らは確かに言葉の意味を解読することはできなかった。しかし、知的生命体が共通して保有する身振り手振りのデータだけは、正常に受信していたのだ。眼前に直立するこの平凡な衣服をまとった個体は、著しく奇妙だった。一微ミクロンの恐怖も検出できず、完全に凪いだ瞳でこちらの存在をただ監査している。彼らの野生の防衛本能が、これまでにない最大級の危険信号を脳内で鳴り響かせ始めた。
マコトは彼らの様子を正確に検知した。
「ふむ」
彼は小さく頷いた。
「どうやらこちらの退去勧告の手順は、それなりの成果を上げつつあるようですね」
「え……成果?」
後ろの男が、引きつった表情のまま瞬きをした。
マコトは動揺の色の濃くなった怪物の集団を指し示した。
「彼らは現在、戦闘の意志を破棄して敗走すべきかどうかの、リスク検証を行っている段階ですよ」
その客観的なデータ分析は、完全に的を射ていた。複数のゴブリンたちが互いに顔を見合わせ、その足元はジワジワと後方へと傾き始めている。迷いと、確信の不在。彼らのリーダーが、崩壊しかけた集団の統制を維持しようと必死に怒号を張り上げたが、一度発生した懐疑のエラーはもはや修復不能な規模まで拡大していた。マコトは満足そうに首を縦に振った。戦略は極めて良好に推移している。暴力の執行もなし。肉体の破損もなし。犠牲の記録もゼロ。これ以上ないほど理想的なアプローチだ。
――まさにその時、極限の恐怖に耐えかねた後方のゴブリンの一匹が、自らの防衛本能に突き動かされて、足元の小石を乱暴に拾い上げた。そしてそれを、マコトに向けて力任せに投げつけた。
放たれた石は放物線を描いて空間を飛行し、――なぜか、その射線上に位置していた自らのリーダーの頭部の真ん中へと正確に激突した。
パカァン、と乾いた鈍い音が荒野に響き渡る。
分岐路の空間を、一瞬の完璧な静寂が支配した。全ての個体が、その場に完全に硬直した。石を投げた当事者も、周囲の怪物たちも、何が起きたのか理解できずに固まっている。頭部に関節の破損を受容したリーダーのゴブリンは、ゆっくりと首を巡らせて自らの部下をじっと見つめた。投げた部下もまた、焦点を失った瞳でそれを見つめ返した。
直後、ゴブリンの群れ全体が、許容量を超えた過負荷によって完全に大パニックを起こした。彼らはけたたましい悲鳴を上げながら、蜘蛛の子を散らすようにあらゆる方向へと爆発的に敗走を始めた。
文字通り、完璧な無秩序状態。数匹は森の深部へと直進し、数匹は丘の傾斜へと跳ね消え、先頭の二匹にいたっては狼狽のあまり互いに正面衝突を起こして転倒したのち、這うような動作で草むらの中へと消え去っていった。わずか数秒の処理時間ののち、分岐路の土路には、再び牧歌的な静けさだけが戻ってきたのである。
マコトは怪物の姿が跡形もなく消滅した地平線を見つめていた。
「ふむ」
彼は静かに呟いた。
「私の算出した予測工程よりも、遥かに迅速に仕事の強制終了が執行されましたね」
その間、背後に就いていた三人の人間は、完全に魂の抜けた虚ろな表情でマコトの背中を見つめ続けていた。彼らの限定的な認知能力が捉えたデータは、極めて単純で不条理なものであった。一人の奇妙な青年が真顔のまま立ちはだかり、己の正体は創世神であると言い放ち、冷酷な最終警告を出力した。すると直後、何らの物理的な接触もなしに、怪物たちが自滅的な行動を起こして一斉に敗走を執行したのだ。
彼らには、その背後で発生した「ただのゴブリンのコントロールミス」という偶然のチェーンエラーなど見えるはずもなかった。彼らの脳内台帳に記録されたのは、目の前にある出力結果という事実だけだったのだ。
そして当然のごとく――彼らは即座に、完璧に間違った、しかし彼らにとってはこれ以上ないほど説得力のある、恐ろしい結論を下したのである。
「な、何なんだよあいつ……言葉一つで、化け物どもの精神を汚染して自滅させやがった……!!」
マコト自身は、そんな人間の脳内で拡大していく誤解の様子など、一微ミクロンも関知していなかった。彼の現在の論理回路は、それよりも遥かに優先順位の高い切実な実務問題へと意識をシフトさせていたからだ。すなわち、彼の手元に保持されている物資の運送仕事は、未だ完了の報告を提出できていない。このまま足止めの時間が長期化すれば、牧場への配送スケジュールが非効率的な遅延を起こし、ギルドの評価に悪影響を及ぼしかねないのだ。
最高神マコトにとっては、先ほど敗走していった九匹のゴブリンの存在などよりも、その書類上のスケジュールの遅れという不具合の方が、遥かに深刻で解決すべき重大なエラーに他ならなかった。彼は荷物の木箱を両手で実直に持ち直すと、一片のブレもない生真面目な足取りで、再び配送ルートへと歩みを進め始めたのだった。




