第17章 創世神の生存戦略
最終的に、マコトはその日、ゴブリン討伐の要求仕様書(依頼)を受注することはしなかった。
少なくとも、現在のタイムラインにおいては。
彼の精緻な管理思想から言えば、一度正式に確定した職務を、後から浮上した別のタスクのために中途で破棄する行為は、著しく事務処理上の品質を下げる不適切なプロシージャ(手順)に他ならなかったからだ。
彼はすでに、リサの窓口において物資の運送タスクを受注し、承認ログ(スタンプ)を獲得している。
ならば、因果律としてその運送タスクを最優先で完了させねばならない。
これこそが、天界の運行を支えてきた事務管理の絶対的なレギュレーション(原則)であった。一つのタスク。一つの完了。構造は極めて単純明快であり、処理に迷う余地は一微ミクロンも存在しない。
その直実な決断を耳にして、対面に就いていた戦士アルノは、一瞬だけあからさまに落胆の表情パラメータを出力した。しかし、彼の熱量(お節介)はすぐに初期値へと回復した。彼の盲目的な信用(勘違い)によれば、この新入りの若頭は単に防衛本能(臆病さ)が過剰に働いているだけであり、一人前の冒険者としてシステムを駆動させるためには、先輩としてのもう一押しのブーストが必要なのだと解釈したからだ。問題の焦点は、アルノの定義する「一人前」という仕様が、マコトの保有する全知のデータベースとは数階層上の次元で不整合を起こしている点であったが。
「あんた、いちいち物事を難しく考えすぎなんだよ」
「そうかね。私は至って実直に、現状のログを整理しているだけなのだが」
「その実直さの理屈が、いちいち頭が痛ぇんだって」
「ふむ。現時点においては、状況の安全性を担保するための十分なシミュレーション(検証)が完了していないため、そう断定するのは非論理的だね」
アルノは肺の底から大きな溜息を吐き出した。人間の知的生命体は、彼と言葉を交わす際、なぜこれほど容易に精神的スタミナを磨り減らしてしまうのか。年齢パラメータの見た目はほぼ同一のセグメントに位置しているというのに、対話の負荷は天界の残業書類を処理するよりも重い。
「俺は本気であんたのためを思って言ってるんだぜ」
アルノが、自らの熱量をアピールするように身を乗り出した。
「冒険者ってのはな、理屈じゃなくて即座にアクション(行動)を起こすもんなんだよ!」
「それは、個体の生存確率を考慮していない、著しく広範で不正確な定義だね」
「またその役人みたいな返し実務かよ!」
マコトはテーブルの上に放置されたクシャクシャなゴブリン討伐の羊皮紙を見つめ、次いで自らの両手で保持している運送の木箱へと視線を転じた。そして、実務上極めて重要と思われる、欠落した環境データ(情報)についてリサへと問いかけた。
「尋ねたいのだが、このギルドの運用データにおいて、新規アカウント(初心者)が単独でゴブリン討伐タスクに就いた際の、平均的な完了確率(成否ログ)はどの程度の数値かね?」
「……え?」
「タスクの成否に関する統計データ(ファクト)を求めているのだよ」
「さあね……そんな細かい数式、いちいち記録してないよ」
「ならば、そのタスク執行時における個体の『負傷率』のパラメータは?」
「分からないよ」
「『死亡率』の累積データは?」
「それも、正確な数字は手元にないね」
マコトは満足 of 意を込めて、小さく首を縦に振った。カウンターの奥で彼らの実務交渉を静観していたリサは、ここにきて明確な興味のパラメータを上昇させ始めていた。なぜなら、漂着して以来初めて、このマコトという青年が「神」だの「宇宙」だの「輪廻転生」だのといった証明不可能な妄想の文字列を出力することなく、極めてまっとうなリスクアセスメント(危険予測)の検証を執行していたからだ。その対話のベクトルは、ギルドの優秀な事務職の視点から見ても、驚くほどに合理的で美しかった。
「――となると、だ」
「私は現在、そのタスクを承認するための十分な環境情報を保持していない、という客観的なファクトに行き着く」
アルノは口を開き、それからそれをきつく閉じた。論理的な等式から見れば、マコトの指摘は完璧な正論であったからだ。かつて開拓村のモーレン村長が、秋の備蓄倉庫の増設を決定した際にも、全く同じ仕様のプロシージャを踏んでいた。「データ不足によるリスクの過多。ゆえに、意思決定の一時凍結」。
しかし不運なことに、一般的な「冒険者」という生命体は、そのような精密な演算回路を以て行動を選択してはいないのだ。彼らはタスクを受注し、現場へ直行し、物理的に解決する。システムは常にその単純なルーチンで稼働している。それなのに、この目の前の新入りは、まるで国家規模の予算の執行監査でも行っているかのような冷徹さで交渉をコントロールしていた。
「あんた、慎重っていうか、度が過ぎるほど堅実だな」
「そうかね」
「冒険者は、そんな役所みたいな生き方じゃ保たねえんだよ」
マコトはわずかに首を傾げた。
「その設計思想の不具合が、君たちの言う『高い死亡率』という結果ログを自動生成している原因だと思うのだがね」
ブフッ!!
カウンターの奥でリサが激しく咳き込み、アルノの身体が完璧に硬直した。周辺のテーブル席からは、堪えきれないといった風な爆笑の暴風がドッと沸き起こる。マコトは至って大真面目に、客観的な仕様の脆弱性を指摘したに過ぎなかった。しかし、その一片の揺らぎもない生真面目なトーンが、かえって周囲の人間の認知回路においては、最高に洗練された「ブラックジョーク」として歪めて処理されたようだった。
「俺は、死亡率が高いなんて一言も言ってねえだろ!」
「しかし、君はその正確な数値データを不保持(知らない)だ。データがない状態でリスクを過小評価する行為は、世間じゃあ『勇敢』とは呼びませんよ」
マコトは一瞬の中断を置いて、仕様書の結びを読み上げるように言い放った。
「それは単なる、――システム設計におけるプランニング(計画)の完全な失敗だ」
執務室の中に、一瞬の完璧な空白(静寂)が沈み込んだ。リサは自らのこめかみを指先できつきつと揉みほぐし始めていた。それは精神的な過負荷による頭痛からではなかった。不条理なことに、自らの現場の事務職としての本能が、この青年の発した冷徹な「正論」に対して、全面的に同意のフラグ(承認)を立ててしまっていたからだ。そして優秀な受付嬢としては、そのような妄想癖のある若者の理屈に納得させられてしまったという厳然たるファクトが、著しく不愉快であったのだ。
アルノは自らの頬を乱暴に掻きむしり、面接の開始以来初めて、どのような文字列で反論の出力を執行すべきか、その思考回路を見失って佇んでいた。
マコトは彼らのフリーズ挙動を気にすることなく、自らのタイムライン(今後の実務工程)を直実に読み上げ始めた。
「第一のタスクとして、私は先ほど受注した運送業務を完璧に遂行する」
「……ただのパシリの荷物運びだろ、そいつは」
アルノが、力なく声を絞り出す。
「ええ、物理的な積載物の移動タスクだね」
「で、その次は?」
「タスクの完了ログを提出し、相応の貨幣(対価)を獲得する」
「まあ、そこまでは通常のレギュレーション通りだな」
「第二のタスクとして、獲得したリソースを以て、この世界線におけるあらゆる基本法則の環境データ(情報)を網羅的に集約する」
「ゴブリンのデータを調べるのか?」
「いいえ。この世界に存在する、すべての事象の仕様をさ」
マコトは広大なギルドの執務空間全体を見渡した。数多の冒険者の個体群、壁際に出力された数百枚の要求仕様書、開拓村とは比較にならぬ容積を以て群生する巨大な都市セクター。現在の最高管理者たる彼にとって、この生存環境は未だ完全にネットワーク圏外の未踏領域であった。自らの置かれた周囲の物理法則や社会構造を完璧にデバッグ(理解)しないまま、大局的な意思決定を下す行為は、システム構築の観点から見て最悪のバグを誘発する悪癖に他ならない。かつて彼が新しい多次元世界を創造する際にも、最初に行うのは常に「初期環境データの集約と整合性のチェック」であったのだ。
「で、情報が集まったらどうするんだ?」
「十分なデータログが蓄積された段階で、初めて次なるメインクエスト(方針)の選択コマンドが実行可能となる」
アルノはマコトのその一片のブレもない澄み切った瞳をしばらくの間、呆然と見つめていたが、やがて諦めたように深い溜息を吐き出した。
「……あんたが大層な変人(エラー個体)だって事実を、時々忘れそうになるぜ、マコト」
「ふむ。その評価の文字列を受信したのは、私の生存ログにおいてこれが初めてではないね」
「そりゃあ、そうだろうな。誰もあんたの理屈には付いていけねえよ」
二つの個体はそこで通信を一時凍結した。カウンターの奥から、リサが先ほどから机上に設置されていた目的の物理オブジェクト(小さな木箱)を、マコトの前へと差し出した。
「あんたたちのその大層な『冒険者哲学』のミーティングが完了したなら」
優秀な受付嬢は、完全に感情を削ぎ落とした無機質なトーンで告げた。
「その依頼書は、ただ佇んでいるだけじゃあ自動的に完了ログを生成してはくれないよ」
「ええ、物理的な移動の執行が必要ですね」
マコトは目的のパッケージ(荷物)を両手で実直に受領した。形状:極小の木箱。質量:著しく軽量。本質:環境危険度パラメータ最小。現在の彼の脆弱な仕様にとって、これ以上ないほど適合した、美しくクリーンな初期タスクであった。
「尋ねたいのだが、この物理オブジェクトの最終的な配送座標(目的地)はどこかね?」
リサは手元の台帳の記述ログを開き、一つの識別符号を指し示した。
「都市の東方セクターの境界線に位置する、一つの『牧場』さ」
「分かりました。単純明快で、整合性の高い仕様だね」
ゴブリンの不在、低位のバグ生命体の不在、個体の物理的ロスト(死亡)の確率ゼロ。マコトの見解によれば、これこそが記念すべき最初の「完璧な初期クエスト」であった。
しかし不運なことに、戦士アルノは、マコトのその実直な背中がギルドの扉へと向かって歩き去る様子を、著しく不吉な予感のパラメータを上昇させながら見送っていたのである。彼のこれまでの短い生存ログ(冒険者経験)に基づく野生の直感が、彼の脳内で不穏なアラートを鳴り響かせていたからだ。
すなわち――このギルドにおいて最も安全で、バグの発生確率がゼロに等しいはずの「ただの荷物運搬」を選択したこの奇妙な青年は、どういうわけか、その徹底的な生真面目さ(仕様)ゆえに、最終的には必ずとてつもない大不祥事へと勝手に自滅(巻き込まれ)していくに違いない、という最悪の確信であった。
そして通常、この世界線におけるそのような質の悪い「悪い予感」というものは、ほぼ例外なく、完璧な精度で的中(ファクト化)するのが因果の理であった。
最高神マコト自身は、ただ腹を満たすための極小の貨幣を得るという極めて世俗的なタスクのために、次なる巨大な認知エラーの渦が、配送ルートのすぐ目の前で凄まじいトルクを以て待ち構えているという不都合な現実に――やはり、この時点においては、まだ気付いてはいなかったのである。




