第16章 ゴブリン討伐任務
「おい、あんた」
斜め後ろのセクターから、唐突な音声データが呼び出しをかけてきた。
マコトが無表情に首を巡らせると、そこには完璧な自信に満ちた、これ以上ないほど広範な笑み(スマイル)を出力している一人の若い人間の戦士が直立していた。
年齢パラメータは人間の尺度で二十代前半。肉体はそれなりに訓練されており、腰のベルトには実用的な鋼鉄製の剣をぶら下げている。もちろん、彼は「自分は現状のすべての仕様を完璧にプログラミング(理解)している」と言わんばかりの、極めて傲慢な表情パラメータを維持していた。
漂着してからこれまでの二日間の短い学習ログから、マコトは即座にひとつの冷酷な論理的帰結へと達した。すなわち――この個体の導き出した結論は、高確率でシステムエラー(勘違い)である。
「俺の名前はアルノ。よろしくな」
「私は、マコトだ」
「ああ、知ってるさ。あんたの話はさっきから耳に入ってたからな」
当然のファクトであった。リサとの対話ログは、すでにこのギルドの執務空間全体へと途切れなく拡散していたからだ。存在の総生存期間が「四十億年」であると大真面目に申告する特異個体の乱入を前に、周囲の生命体群がその認知アラートを稼働させないわけがない。
アルノは要求されることもなく、マコトの正面にある空虚な椅子を乱暴に引き寄せると、当然のような顔をして腰を下ろした。
カウンターの奥でその物理的な挙動を観測していた受付のリサは、瞬時に自らの脳内で最最大級の不吉な予感が跳ね上がるのを検知していた。徹底的に生真面目な最高神と、己のスペックを盲目的に過信している無骨な戦士。この二つの不整合な個体のクラスタリング(結合)は、現場の事務職の視点から見れば、確定された災害の起動コマンド(キックオフ)に他ならなかった。
「さっきからあんたのことを見てたんだがよ」
アルノが、どこか楽しげに口を開く。
「尋ねたいのだが、それはこの環境において一般的な習性かね?」
「はあ? 何がだい」
「特定の個体を、離れた座標から一方的に監視し続ける行為さ。著しく非効率的で、奇妙な真真似だと思うのだがね」
「ハハハ! いや、そういう意味じゃねえよ!」
アルノは愉快そうに破顔した。マコトにはやはり、この対話のどのセグメントに笑いのトリガーが存在したのか、全く理解が及ばなかった。
「ただな、あんたが随分と職務の選択に苦慮しているように見えたのさ」
「いいえ。私は先ほど、リサから提示された要求仕様書の中から、ひとつの適切なタスクを受注したばかりだよ」
「いや、俺が言ってるのはそういう物理的な手続きの話じゃねえんだ」
「ならば、一体何の話かね?」
アルノは頑丈な椅子の背もたれに深く体重を預けた。その表情は、未熟な新入りに対して人生の仕様書を授けようとする、典型的な「先輩」のそれへと書き換わっていた。極めて皮肉なことに、両者の存在期間のパラメータには、およそ「四十億年」という果てしない深淵が横たわっているわけだが。
「俺はこれでも、ギルドに籍を置く『ランクD』の冒険者だ」
男は自らの保有パラメータ(実績)を誇示するように、胸を張って出力した。
「おめでとう」
アルノはぱちくりと瞬きをした。
「……え、それだけか?」
「ふむ。それ以外に、私からどのようなシステム応答を期待していたのかね?」
カウンターの奥で、リサが本日何度目か分からぬ動作で、自らのこめかみを両指できつきつと圧迫し始めた。
アルノは居心地を悪そうに一つ咳払いを執行した。
「ゴホン。要するにだ、俺はあんたに比べて、この世界での実務経験が豊富だって言いたいわけさ」
「人間の限定的な生存スパンという基準を適用するならば、確かにその申告は論理等式として相違ないね」
「おう。そいつは話が早くて助かるぜ」
「おかげで、対話の前提条件が明確になったよ」
アルノは、なぜこの青年と言葉を交わすたびに、自らが全く知らない高難易度の技能適性検査を受験させられているかのような、奇妙な過負荷を覚えるのか理解できなかった。しかし、彼は自らの初期方針(お節介)を貫徹すべく、強引に言葉を継続した。
「あんたが冒険者というシステムの中で成功ログを積み上げたいなら、まずは基本のレギュレーションを理解する必要がある。いいな?」
マコトは静かに首を縦に振った。
「ふむ。外部環境に適応するための基本仕様の把握。極めて合理的で、異論の挟みようのない指摘だね」
「だろ? 例えば、一番重要なのは――これさ」
アルノは、マコトが両手で実直に保持していた運送業務の羊皮紙を指し示した。
「その、職務の選択方法だよ」
男の表情パラメータが、あからさまな不満の色へと書き換わっていく。
「おや、何かシステム上の不具合でも発見したかね?」
「あんた、よりによって最初のアカウント(登録)で、こんなパシリのタスクを選んだのかい?」
「ええ、そのコマンドを実行しましたが」
「なんでだよ!」
マコトは数秒、自らの思考の処理速度を調整した。
「物理的な『戦闘』というコマンドの起動を、一切要求されない仕様だったからだよ」
アルノは信じられないものを見るように目を見開いた。
「冒険者ってのはな、前線で命を懸けて戦う(デバッグする)のが本質んだよ!」
「それは、種族としての定義のスコープ(範囲)が著しく広範すぎるね」
「はあ!?」
「ギルドの布設している労働市場のインベントリを見る限り、戦闘を介さない局所的な事務処理や、物資の移送タスクもまた、同じ『冒険者』の職務として一括管理されている。したがって、戦うことだけが必須の仕様ではないはずだがね」
アルノはぽかんと口を開け、それからそれをきつく閉じた。論理的な等式から見れば、マコトの指摘は何一つ歪みのない「完全な正論」であった。だからこそ、現場の感覚(常識)で稼働している戦士としては、言い返す言葉が見当たらない。その整合性の高さが、かえって彼を著しく苛立たせる。
「あーもう、俺の言いたいことはそういう事務手続きの理屈じゃねえんだ!」
「ならば、君の出力したい正確な仕様はんだい?」
「冒険者ってのはな、実戦のログ(経験値)を積んでナンボだってことさ!」
マコトはその文字列を受信し、脳内で検証した。
「経験値、かね」
「そうだ!」
アルノは自らの論理展開の主導権を奪い返したと確信し、満足そうに何度も深く首を振った。
「あんたには今、ちょっとした『障害』を伴うタスクが必要なんだよ」
「なぜかね?」
「その方が、個体の最大出力が飛躍的にアップデートされるからに決まってるだろ!」
マコトは再び、深い日常的な思案を巡らせていた。個体の出力を向上させるために、敢えてエラーを発生させるという開発思想。構造としては非常に興味深いが、彼のこれまでの生存ログにおいては、必ずしも適合する仕様ではなかった。過去数十億年の歴史において、天界の最高管理者たる彼の重要業務は、ほぼ例外なく、安全な事務室の椅子の前に就いたまま執行されてきたからだ。労働とは座って行うものが最も効率的であるという設計思想の持ち主であるマコトにとって、生身で肉体を破損しにいく実戦主義の理屈は、いささか非論理的に聴こえた。
「――では、君のデータベースから抽出された、現在の私にお勧めのタスク(推奨仕様)はなんだい?」
マコトが実直に問いかけた。アルノの唇の端が、一瞬にして釣り上がった。待ってました、と言わんばかりの挙動。彼は腰の袋から、一枚の要求仕様書を無造作に取り出すと、木製のカウンターの上へと設置した。マコトはその紙面に刻まれた記述データをスキャンした。識別符号は、極めて簡潔。ゴブリン討伐の書面。
「おや」
マコトが静かに呟いた。
「ゴブリンのデバッグ(駆除)タスクだね」
「そうだ!」
アルノは完璧な自信をエントロピーとして放出しながら、胸を叩いた。
「これこそ、未熟な新規アカウント(初心者)が最初に履修すべき、完璧なチュートリアルさ!」
カウンターの奥で、リサの呼吸が物理的に停止しかけた。
「……ちょっと、アルノ!」
「なんだい、リサさん。俺は今、この迷える若頭に冒険者のイロハを叩き込んでやってる最中なんだが」
「あんたね、そいつはシステム上、初心者が単独で受けていいタスク(初級クエスト)じゃないよ!」
「なあに、個体数はわずか数匹だろ。データの誤差の範囲さ」
「誤差なわけあるかい! とにかくレギュレーション違反だよ!」
アルノは現場の事務職のアラート(制止)を完全に環境ノイズとしてミュートした。彼の熱量(お節介)のパラメータは、すでに上限値を超えて稼働していたからだ。
「いいかい、マコト。あんたが執行すべき実務工程はシンプルだ」
男は羊皮紙の上を指先で叩きながら、早口で仕様をまくしたてた。
「この都市の東方セクターに位置する丘陵地帯へと移動する。そこに巣食うゴブリンの局所的な集落を探索する」
「それから?」
「――根こそぎ、システムからデリート(全滅)するのさ」
マコトはその羊皮紙のデータを詳細に観察した。それから、しばらくの間、有意な時間の中断を置いて思考を沈み込ませた。ゴブリン。個体特性:好戦的。生産性:皆無。世界線の運行において、しばしば不都合なエラー報告(略奪被害)をもたらす低位のバグ生命体。過去に紡ぎ出してきた数多の世界において、彼がこれと酷似した不具合のデータを無数に観測してきた事実は間違いなかった。しかし、そこには現在の生存戦略上、決して無視できない決定的な脆弱性が残されていた。
「私はこれまでの生存ログにおいて、直接物理的な暴力を以て他者をデバッグ(戦闘)した経験が、完璧にゼロ(無)でね」
マコトは、偽らざる客観的事実をそのまま実直に出力した。アルノは一瞬だけ呆気に取られたように瞬きをしたのち、本日最大級の爆笑の音量を出力した。
「ハハハ! 心配すんなって! 誰だって最初のログイン時は、戦闘ログなんてゼロからのスタートなんだよ!」
「いいえ、それはシステム設計の観点から見て、著しく深刻な不具合(問題)であるという評価になるのだがね」
「違う違う、問題ねえよ!」
アルノは無責任に手のひらをヒラヒラと振った。
「すべての冒険者は、その完璧なゼロの状態から、実戦を重ねて最大出力をアップデートしていくもんなんだよ!」
マコトは正面の戦士を見つめ、次いで机の上のゴブリンの仕様書を眺め、最後に再びアルノを見た。理論上の因果関係から言えば、提示されたタスクの手順自体は極めて単純であるように記述されていた。
しかし、これまでにこの下位世界へと墜落して以来、遭遇したすべての生命体との実務交渉(やり取り)において、彼らが「単純」という定型句を貼って提示してきた事象は、ほぼ例外なく、その真逆の悍ましい「不条理」を内包していたという実績データが残されていた。
「ふむ。このタスクの選択については、いささか慎重なリスク評価(検証)を実行せねばならないね」
数秒の演算ののち、マコトは生真面目なトーンでそう結論を出力した。アルノは我が意を得たりといった風に、満足そうに鼻を鳴らした。彼の限定的な認知能力によれば、この青年の生真面目な追撃は、すでに「実質的な受注の合意」であると都合よく認知エラー(誤解)されたようだった。
リサの表情パラメータは、完全に絶望の色へと沈み込んでいた。現場の直感として、これまでにない規模の全く新しい不都合な不祥事が、今まさに自らのワークスペースの目前で起動しつつあることを正確に検出していたからだ。マコト自身にとっては、これは単なる生存維持コストの獲得に向けた、世俗的なリスクのシミュレーションに過ぎなかった。
彼らが知る由もなかったが、この雇用面接の失敗ののち、この交易都市の中央セクターにおいて――三者三様の、完璧な論理のすれ違いによる『新たな誤解の等式』が、すでに完璧に成立していたのである。
そして通常、このような認知エラーのパラメータが上限値を超えて衝突した際、システム上には、著しく過酷で、磨り減るような「面倒な大不祥事」が自動生成されるのが因果の理であった。
最高神マコトは、ただ腰の空虚なインベントリ(財布)を満たすという極めて世俗的なタスクのために、次なる混沌のシナリオが自らのタイムラインのすぐ目の前まで直進してきているという不都合なファクトに――やはり、この時点においては、まだ気付いてはいなかったのである。




